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プロローグー決別の日ー

 これは、世界を滅ぼしかけた愛の記録だ。


 神と神が、

 千年かけて、間違え続けた物語。



 もう、戻ることは出来ない。


 ただ、落ちていく。

 深い深い黄泉よみの底へ。


 その感覚だけが、やけに鮮明だった。


 普段よりひ弱な肉体に、冷たい風が沁みる。

 肌を裂くように吹き上げてくる風に、思わず目を閉じた。


 ――報いだと思った。


 身の丈に合わない夢を追い、

 それでも必死に手を伸ばし続けた、その果て。


 愚かで、惨めで、恥ずかしい。

 それでも――悪くはなかった。


 心残りはきりがない。


 視界の端で黒い岩肌が流れ、

 影が反転していく。


 走馬灯そうまとうのように、思い出が溢れた。


 身体は闇の中を、ただひたすら落ち続ける。


 ――ここまでか。


 夜姫は、不思議と穏やかな心でそう思った。

 その身はもはや“落ちていく肉体”に過ぎない。

 それでもなお、心は澄んでいた。


 ――あのヒトに、出会えた。


 それだけで、もう十分だ。


 最後に一番の笑顔を思い出そうと、

 そっと目を閉じた、その時――


 暴風が爆ぜた。


 落下を断ち切る衝撃。

 暴虐な光が闇を裂き、黄泉の淵全体が揺れ震える。


「……ヨルッ!!」

 

 洞窟を震わせる叫び。

 普段の冷静さを微塵も保たない、剥き出しの焦燥。


 その声に、夜姫よるひめは息を呑んだ。


 視界がぐらりと揺れる。

 落下の勢いが、掴まれた腕で止められていた。


 ぶらりと揺れる身体を、彼は当たり前のように引き寄せる。


 最期にもう一度だけ聞きたかった声。

 死ぬほど恋しい――最愛の声。


 髪を乱し、息を荒げ、

 恐怖を必死に押し殺しながら、岩壁に手を掛ける男。


太陽神・天照。


 最高神であるはずの彼が、

 私のために、完全に取り乱していた。


「あ……アマ……テラス……さま?」


 返事はない。

 荒い呼吸だけが返ってくる。


「……今は……聞かない……」


 必死に息を整えながら、

 それでも彼は夜姫よるひめを見失わぬよう、目を逸らさない。


「……一緒に……帰ろう……」


 その声は、今にも泣き出しそうだった。


「俺の手を……掴め……!」


 夜姫の足に、黄泉の底から何かが絡みつく。

 引きずり込もうとする冷たい感触。


 その姿はもう神ではなく、

 ただ一人の男だった。


 涙が止まらない。


 全身が粟立つ。

 こんなの――諦めがつくはずがない。


「俺は……お前がいないと……もう…」


 言葉の途中で、声が詰まる。


 その瞬間、夜姫は悟った。


――気づいてしまった。


 彼は、私を愛していた。


 知らなかった。

 分からなかった。


 あんなにも、正面から向き合ってくれていたのに。


 生きたかった。

 隣にいたかった。

 触れたかった。


 “愛してる”を言い合いたかった。

 “好き”を、もっと伝えたかった。


 涙が溢れる。


 百年の恋は、確かにここにあった。

 無駄じゃなかった。


 ……でも、遅すぎた。


 もう、彼の隣に立てる私ではない。


 人生は、どうしてこんなにも残酷で、

 こんなにも優しいのか。


 足に絡みつく黄泉の魔の手が、

 この幸福な時間を急かすように蠢く。


 彼に伝えれば、すべてを薙ぎ払ってくれる。

 それを、彼も分かっている。


 それでも、抗わない。


 ――抗えないことを、彼は知らない。


 もう、すべてが遅い。


 ならば、最後に伝えよう。


 “好き”も“愛してる”も、

 百年間、挨拶のように交わしてきた。


 だからこそ、

 もっと特別な言葉を。


 夜姫は、最愛の笑顔で言った。


 ――呪いの言葉を


「天照様アマテラスさま……」


 百年分の感謝を込めて。

 百年分の恋慕を込めて。

 百年分の諦めを込めて。


 「……本当に……ありがとうございました」


 そして、自ら、彼の手を離した。


 夜姫は瞬く間に闇に呑まれていく。


 最後まで、天照アマテラスを目に焼きつけながら。


 「……な……ヨル……!

 夜姫――――――――!!」


 遠くで、天照の声が反響する。


 身体が引き裂かれるような感覚の中、

 夜姫は静かに目を閉じた。


 ――天照様。


 どうか、あなたがこの先も、

 光の中心でありますように。


 最後の祈りだけを残して、

 夜姫は黄泉の闇へと消えていった。





お読みいただき、ありがとうございます。


夜姫と天照――

これは二柱の神と、

彼らを取り巻く者たちの選択が、

やがて世界を揺らしていく物語です。


愛も、友情も、別れも、

時に笑い合う日々さえも、

すべてがこの物語の一部です。


静かに積み重なる時間を、

最後まで見届けていただけたら幸いです。


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