プロローグー決別の日ー
これは、世界を滅ぼしかけた愛の記録だ。
神と神が、
千年かけて、間違え続けた物語。
◇
もう、戻ることは出来ない。
ただ、落ちていく。
深い深い黄泉よみの底へ。
その感覚だけが、やけに鮮明だった。
普段よりひ弱な肉体に、冷たい風が沁みる。
肌を裂くように吹き上げてくる風に、思わず目を閉じた。
――報いだと思った。
身の丈に合わない夢を追い、
それでも必死に手を伸ばし続けた、その果て。
愚かで、惨めで、恥ずかしい。
それでも――悪くはなかった。
心残りはきりがない。
視界の端で黒い岩肌が流れ、
影が反転していく。
走馬灯そうまとうのように、思い出が溢れた。
身体は闇の中を、ただひたすら落ち続ける。
――ここまでか。
夜姫は、不思議と穏やかな心でそう思った。
その身はもはや“落ちていく肉体”に過ぎない。
それでもなお、心は澄んでいた。
――あのヒトに、出会えた。
それだけで、もう十分だ。
最後に一番の笑顔を思い出そうと、
そっと目を閉じた、その時――
暴風が爆ぜた。
落下を断ち切る衝撃。
暴虐な光が闇を裂き、黄泉の淵全体が揺れ震える。
「……ヨルッ!!」
洞窟を震わせる叫び。
普段の冷静さを微塵も保たない、剥き出しの焦燥。
その声に、夜姫よるひめは息を呑んだ。
視界がぐらりと揺れる。
落下の勢いが、掴まれた腕で止められていた。
ぶらりと揺れる身体を、彼は当たり前のように引き寄せる。
最期にもう一度だけ聞きたかった声。
死ぬほど恋しい――最愛の声。
髪を乱し、息を荒げ、
恐怖を必死に押し殺しながら、岩壁に手を掛ける男。
太陽神・天照。
最高神であるはずの彼が、
私のために、完全に取り乱していた。
「あ……アマ……テラス……さま?」
返事はない。
荒い呼吸だけが返ってくる。
「……今は……聞かない……」
必死に息を整えながら、
それでも彼は夜姫よるひめを見失わぬよう、目を逸らさない。
「……一緒に……帰ろう……」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
「俺の手を……掴め……!」
夜姫の足に、黄泉の底から何かが絡みつく。
引きずり込もうとする冷たい感触。
その姿はもう神ではなく、
ただ一人の男だった。
涙が止まらない。
全身が粟立つ。
こんなの――諦めがつくはずがない。
「俺は……お前がいないと……もう…」
言葉の途中で、声が詰まる。
その瞬間、夜姫は悟った。
――気づいてしまった。
彼は、私を愛していた。
知らなかった。
分からなかった。
あんなにも、正面から向き合ってくれていたのに。
生きたかった。
隣にいたかった。
触れたかった。
“愛してる”を言い合いたかった。
“好き”を、もっと伝えたかった。
涙が溢れる。
百年の恋は、確かにここにあった。
無駄じゃなかった。
……でも、遅すぎた。
もう、彼の隣に立てる私ではない。
人生は、どうしてこんなにも残酷で、
こんなにも優しいのか。
足に絡みつく黄泉の魔の手が、
この幸福な時間を急かすように蠢く。
彼に伝えれば、すべてを薙ぎ払ってくれる。
それを、彼も分かっている。
それでも、抗わない。
――抗えないことを、彼は知らない。
もう、すべてが遅い。
ならば、最後に伝えよう。
“好き”も“愛してる”も、
百年間、挨拶のように交わしてきた。
だからこそ、
もっと特別な言葉を。
夜姫は、最愛の笑顔で言った。
――呪いの言葉を
「天照様アマテラスさま……」
百年分の感謝を込めて。
百年分の恋慕を込めて。
百年分の諦めを込めて。
「……本当に……ありがとうございました」
そして、自ら、彼の手を離した。
夜姫は瞬く間に闇に呑まれていく。
最後まで、天照アマテラスを目に焼きつけながら。
「……な……ヨル……!
夜姫――――――――!!」
遠くで、天照の声が反響する。
身体が引き裂かれるような感覚の中、
夜姫は静かに目を閉じた。
――天照様。
どうか、あなたがこの先も、
光の中心でありますように。
最後の祈りだけを残して、
夜姫は黄泉の闇へと消えていった。
◇
お読みいただき、ありがとうございます。
夜姫と天照――
これは二柱の神と、
彼らを取り巻く者たちの選択が、
やがて世界を揺らしていく物語です。
愛も、友情も、別れも、
時に笑い合う日々さえも、
すべてがこの物語の一部です。
静かに積み重なる時間を、
最後まで見届けていただけたら幸いです。




