第三章 最初のお客様——信頼は一人から
村人たちが帰ったあと、健太は一人で売場に立っていた。
蛍光灯の光が、異世界の夕暮れと混じり合っている。自動ドアの向こうには、橙色に染まる草原が見える。地平線の彼方に、太陽が沈もうとしていた。
今日、診た患者は十一人。
高熱の子供。慢性的な咳に苦しむ老人。化膿した傷口を放置していた農夫。原因不明の腹痛を訴える中年女性。
健太は一人ひとりに対応し、症状を聞き取り、適切な薬を選び、使用方法を説明した。
そのすべてが、手探りだった。
——この世界の病気が、現代医学で対処できるものかどうかは分からない。
幸い、今日診た患者たちの症状は、いずれも現代日本でも見られるものだった。感染症。外傷。消化器系の不調。それらには、健太の知識と店舗の在庫で対応できた。
しかし、この先はどうなるか分からない。
——魔法が存在する世界だ。現代医学では説明できない病気があってもおかしくない。
そう考えると、不安が胸をよぎる。
しかし、今は考えても仕方がない。目の前にできることをやる。それだけだ。
健太は在庫を確認しながら、使用した薬品をメモに記録した。
解熱鎮痛剤、七回使用。消毒液、三回。抗生物質入り軟膏、一本。整腸剤、二回。
——このペースで使い続けると、数ヶ月で在庫が尽きる。
代替品の開発を急がなければならない。リーネの協力が不可欠だ。
リーネは、夕方まで店にいた。健太の横に立ち、彼のやることを一つひとつ観察していた。質問も多かった。
「この白い丸いもの——『じょうざい』と言いましたか——は、何からできているのですか?」
「この液体は、なぜ傷に塗ると痛みが和らぐのですか?」
「なぜ、症状を聞いただけで、使う薬が分かるのですか?」
健太は、できる限り答えた。しかし、すべてを説明するのは難しかった。
現代の製薬は、何百年もの科学の積み重ねの上に成り立っている。化学、生物学、薬理学。それらの基礎がなければ、「なぜ効くのか」を本当の意味で理解することはできない。
——俺だって、専門家じゃない。
登録販売者として、薬の効能や使用法は知っている。しかし、分子レベルでの作用機序を説明できるわけではない。
それでも、リーネは真剣だった。
「私は、すべてを理解できなくても構いません」
彼女はそう言った。
「まずは、あなたのやり方を覚えます。なぜそうするのかは、後から学びます」
その姿勢に、健太は何か懐かしいものを感じた。
——俺も、最初はそうだった。
二十年前。まだ若かった頃。ドラッグストアでアルバイトを始めた最初の日。何も分からなかったが、先輩の動きを見て、真似して、少しずつ覚えていった。
リーネは、当時の自分に似ている。
「明日も来てください」
健太はそう言って、リーネを送り出した。
「教えられることは、すべて教えます」
リーネは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、役に立ってみせます」
その背中を見送りながら、健太は小さく息をついた。
——仲間が、できた。
一人で戦う必要はない。そう思えるだけで、心が少し軽くなった。
翌朝。
健太が店を開けると、すでに外に人が並んでいた。
昨日来た村人たち——ではなかった。
見知らぬ顔。十人以上。服装も、昨日の村人たちより少しましだ。隣村から来たのかもしれない。
「噂を聞いて来ました」
先頭に立っていた中年の男が言った。
「魔法も使わずに病気を治す店があると」
健太は頷いた。
「治すとは言い切れませんが、症状を和らげることはできます。どうぞ、お入りください」
自動ドアが開く。外から来た人々が、恐る恐る中に入ってくる。
蛍光灯の光。整然と並んだ商品棚。清潔な床。
彼らの目は、驚きに見開かれていた。
「なんと……明るい……」
「この光は、魔法なのか……?」
「いい匂いがする……薬草とは違う……」
健太は淡々と案内した。
「こちらが医薬品のコーナーです。お身体の具合が悪い方は、順番にお話を聞かせてください」
そこから、忙しい一日が始まった。
午前中だけで、二十人以上の患者を診た。
症状は様々だった。発熱、咳、下痢、関節痛、皮膚病、頭痛。
そのほとんどは、現代の一般用医薬品で対応できるものだった。
しかし、いくつかの症例は、健太を困惑させた。
「この発疹は……」
ある老婆の腕を見て、健太は眉をひそめた。
赤紫色の斑点が、肌を覆っている。かゆみはないという。痛みもない。ただ、発疹が出てから身体が重くなり、気力が湧かなくなったという。
健太の知識では、この症状に該当する病気が思い当たらなかった。
「いつから、この発疹が出ていますか?」
「三日前からです。最初は腕だけでしたが、今は胸や背中にも……」
リーネが、横から覗き込んだ。
「店長さん。これは——」
彼女の顔色が変わっていた。
「瘴気病の初期症状です」
——瘴気病。
昨日、村人たちの会話の中で聞いた言葉だ。
「瘴気病というのは?」
「この地方で数年前から広がっている病気です。最初は発疹が出て、次に倦怠感、そして——」
リーネは言いよどんだ。
「——そして?」
「重症化すると、意識が朦朧として、最後には……」
死ぬ。
言葉にしなくても、分かった。
健太は老婆の腕をもう一度見た。赤紫色の発疹。原因不明。現代医学では対処できない——かもしれない。
しかし、目の前に患者がいる。何かをしなければならない。
「とりあえず、体力を維持することが大切です」
健太は栄養ドリンクを老婆に渡した。
「これを飲んで、できるだけ休んでください。明日、また来てください。経過を見させてください」
老婆は不安そうな顔で頷いた。
その後も、瘴気病と思われる患者が数人来た。
いずれも初期症状だった。発疹と倦怠感。まだ意識ははっきりしている。
健太は同じ対応をした。栄養補給。安静の指示。経過観察。
それ以上のことは、今の健太にはできなかった。
夕方、最後の患者が帰った。
健太はカウンターに両手をついて、深いため息をついた。
「瘴気病……」
その言葉を、噛みしめるように呟く。
リーネが、傍に立った。
「店長さん。瘴気病のことを、詳しくお話しした方がいいかもしれません」
「ああ。頼む」
健太は椅子を勧め、自分も座った。
リーネは静かに語り始めた。
「瘴気病が最初に確認されたのは、五年前です。この辺りの森で、狩人が奇妙な症状で倒れているのが発見されました」
「五年前……」
「最初は、一人だけでした。でも、次第に患者が増えていきました。最初は森の近くの村だけ。でも、今では王国全土に広がっています」
「感染するのか?」
「いいえ。少なくとも、人から人へは感染しないようです。同じ家に住んでいても、発症する人としない人がいます」
それは、少し安心できる情報だった。
「では、何が原因で発症するんだ?」
「分かっていません。魔法の病気だと言う人もいます。神の罰だと言う人もいます。でも、確かなことは何も……」
リーネの声が、沈んだ。
「宮廷薬師たちも、多くの薬師が研究しています。でも、有効な治療法は見つかっていません。瘴気病は、この世界で最も恐れられている病気の一つです」
健太は腕を組んで考え込んだ。
——原因不明の病気。感染性はない。発症のメカニズムも不明。
現代医学でも、そういう病気は存在する。自己免疫疾患や、環境要因による疾患など。
しかし、この世界には「魔法」がある。魔法が関係している可能性も、排除できない。
「治療法がないとしたら、今の患者たちは……」
「重症化する前に、自然に治る人もいます。でも、重症化した場合は……助かった例を、私は知りません」
健太は目を閉じた。
目の前に、救えない患者がいる。
それは、店長として最も辛いことだった。
——いや、違う。
健太は目を開けた。
——まだ諦めるのは早い。
「リーネさん。瘴気病について、もっと詳しく調べたい。患者の記録を取って、症状の進行パターンを把握したい。それから、この世界の薬草で、症状を緩和できるものがないか探したい」
リーネの目が、輝いた。
「やります。私にできることがあれば、何でも」
「ありがとう。まずは、今日来た患者の記録を整理しよう。それから——」
その時、自動ドアが開いた。
駆け込んできたのは、若い男だった。息を切らし、顔は土埃にまみれている。
「た、助けて……!」
男は健太の前に崩れ落ちた。
「妹が……妹が倒れて……!」
健太は男に案内されて、村の外れにある小さな家に向かった。
リーネも一緒だった。健太が選んだ薬品を詰めた鞄を、彼女が背負っている。
家に着くと、入口で老婆が待っていた。
「こちらです、どうか……」
狭い家の中。土の床。窓から差し込む夕陽が、室内を橙色に染めている。
寝台の上に、少女が横たわっていた。
十二、三歳だろうか。顔色は蒼白で、目は閉じている。呼吸は浅く、時折身体が痙攣している。
——重症だ。
健太の経験が、そう告げていた。
「いつから、この状態ですか?」
「今朝までは元気だったんです……でも、急に……」
兄が泣きながら答えた。
健太は少女の額に手を当てた。熱い。四十度を超えているかもしれない。
腕を見る。赤紫色の発疹が、広範囲に広がっている。
——瘴気病だ。しかも、急速に進行している。
「リーネさん。解熱剤と、経口補水液を」
「はい」
リーネが鞄から薬を取り出す。
健太は少女を起こし、口元にシロップを運んだ。
「飲めるか……?」
少女の唇が、微かに動いた。薬が、ゆっくりと喉を通っていく。
——とりあえず、意識はある。
しかし、解熱剤だけでは根本的な解決にはならない。
瘴気病の正体が分からない以上、対症療法しかできない。熱を下げ、水分を補給し、体力を維持する。それ以上のことは——。
「店長さん」
リーネの声が、健太の思考を遮った。
「少女の手を、見てください」
健太は少女の手を取った。
——何だ、これは。
少女の手のひらに、奇妙な模様が浮かんでいた。
発疹とは違う。幾何学的な文様。まるで、刺青のような——いや、それとも違う。
文様は、微かに光っていた。
紫色の、ぼんやりとした光。
「これは……?」
「魔法陣です」
リーネの声が震えていた。
「この子に、誰かが魔法をかけたんです」
健太は、困惑した。
魔法。
この世界には魔法が存在する。それは理解していた。しかし、それが具体的にどういうものなのかは、まだ分かっていなかった。
「魔法をかけられると、病気になるのか?」
「いいえ。普通は……普通は、そういうことはありません」
リーネは少女の手を、じっと見つめていた。
「でも、この魔法陣は……私は見たことがありません。禁術の類かもしれません」
「禁術?」
「使用が禁じられている魔法です。人を害するために使われる、呪いのような——」
兄が叫んだ。
「呪い!? 誰がそんなことを……!」
「落ち着いて」
健太は兄の肩に手を置いた。
「今は、この子の容態を安定させることが先です。原因の究明は、その後でいい」
兄は唇を噛み、頷いた。
健太は少女の様子を観察した。
解熱剤が効き始めたのか、呼吸が少し落ち着いてきている。しかし、発疹は消えていない。手のひらの魔法陣も、相変わらず薄く光っている。
「リーネさん。この魔法陣を消す方法は?」
「分かりません。私は……魔法は使えないので」
——そうだった。
リーネは魔法が使えない。だから宮廷薬師になれず、追放された。
「この村に、魔法が使える人は?」
「いません。魔法使いは、王都か大きな街にしかいません。この辺りの村には……」
それは困った。
現代医学では対処できない。魔法も使えない。八方塞がりだ。
——いや、待て。
健太は考えた。
魔法陣が浮かんでいる。それは、魔力か何かが、少女の身体に影響を与えているということだ。
もし、その影響を——何らかの方法で遮断できれば——。
「リーネさん。この世界に、『魔力を遮断する』ものはあるか?」
「魔力を……?」
「うん。たとえば、特定の金属とか、鉱石とか。魔法の効果を弱めるものがあれば——」
リーネの目が、見開かれた。
「あります。『沈黙の石』という鉱石です。魔力を吸収する性質があって、魔法使いの拘束に使われたりします」
「それは、この辺りで手に入る?」
「いいえ。とても希少で、高価です。でも——」
リーネは何かを思い出したように、鞄を探った。
「——これがあります」
彼女の手には、小さな銀色のペンダントがあった。
「私の母の形見です。中に、小さな沈黙の石が埋め込まれています」
健太は、リーネを見た。
「借りてもいいか?」
「はい。もし、この子を助けられるなら——」
リーネはためらいなく、ペンダントを健太に渡した。
健太は少女の手のひらに、ペンダントを当てた。
——どうだ。
数秒間、何も起きなかった。
しかし、やがて——。
魔法陣の光が、揺らいだ。
薄れて、消えて——そして、完全に見えなくなった。
「消えた……!」
リーネが声を上げた。
健太は少女の顔を見た。
苦しそうに歪んでいた表情が、少し和らいでいる。呼吸も、さらに落ち着いてきた。
「効いた……のか?」
確信は持てない。しかし、状態は改善しているように見える。
「このペンダントを、しばらくこの子に預けてもいいか?」
リーネは頷いた。
「もちろんです」
健太は少女の手に、ペンダントを握らせた。
そして、兄に向かって言った。
「今夜は、このまま様子を見ます。水分を取らせながら、安静にさせてください。明日の朝、また来ます」
「あ、ありがとうございます……!」
兄は床に額をつけて、感謝を述べた。
健太はそれを押しとどめ、立ち上がった。
「まだ、治ったわけじゃない。でも、峠は越えたかもしれない」
帰り道。
夕闘が濃くなった草原を、健太とリーネは並んで歩いた。
遠くに、店舗の蛍光灯の光が見える。この異世界で、唯一の「文明」の灯。
「店長さん」
リーネが口を開いた。
「あの少女は、助かるでしょうか」
「分からない」
正直に答えた。
「でも、さっきまでよりは可能性がある。魔法陣が消えたということは、呪いの影響が弱まったということだ。あとは、身体が自分で回復できるかどうか」
「そうですか……」
リーネは足を止めた。
「店長さんは、なぜ——」
「ん?」
「なぜ、こんなに真剣に、この世界の人々を助けようとするのですか?」
その問いに、健太は少し考えた。
なぜだろう。
自分でも、明確な答えは持っていなかった。
「……俺は、ドラッグストアの店長だった」
歩きながら、言葉を探す。
「毎日、たくさんのお客さんが来る。風邪を引いた人、頭が痛い人、肌が荒れた人。それぞれが、自分の悩みを持って来る」
「はい」
「俺の仕事は、その悩みを少しでも軽くすることだった。薬を選んで、使い方を説明して、『お大事に』と言って送り出す。それだけのことだけど——」
健太は足を止め、空を見上げた。
異世界の夜空。見知らぬ星座。二つの月が、薄く光っている。
「——それが、俺にできることだった。俺の、存在意義だった」
「存在意義……」
「こっちの世界に来ても、それは変わらない。目の前に困っている人がいて、俺に助ける手段がある。なら、やらない理由がない」
リーネは、じっと健太を見つめていた。
「店長さんは、立派な人ですね」
「そうでもない」
健太は苦笑した。
「前の世界では、俺は過労で死んだ。自分の健康も守れなかった男だ。立派なんかじゃない」
「でも——」
「ただ、今は——」
健太は、店舗の方を見た。
蛍光灯の光が、闇の中に浮かんでいる。
「——今は、少しだけ、マシな人間になれた気がする」
リーネは何も言わなかった。
ただ、微かに笑って、健太の隣を歩き続けた。
翌朝。
健太とリーネが少女の家を訪れると、驚くべき光景が待っていた。
少女が、起き上がっていた。
まだ顔色は良くないが、意識ははっきりしている。自分で水を飲み、家族と言葉を交わしている。
「熱が下がったんです……!」
兄が駆け寄ってきた。
「夜中に、急に楽になったって言い出して……!」
健太は少女の額に手を当てた。
微熱は残っているが、昨日の灼熱は消えている。発疹も、薄くなっている。
「すごい……」
リーネが呟いた。
「本当に、良くなってる……」
健太は、少女の手のひらを見た。
魔法陣は、消えたままだった。ペンダントが、静かにその上に載っている。
「このペンダントが効いたのかもしれない。でも、確証はない。もう少し様子を見た方がいい」
「分かりました。でも、本当にありがとうございます……!」
兄は何度も頭を下げた。老婆も、涙を流しながら感謝の言葉を述べた。
健太はそれを受け止めながら、考えていた。
——瘴気病には、魔法が関係しているのかもしれない。
少女の場合は、明確な呪いがかけられていた。しかし、他の患者はどうだろう。発疹は出ているが、魔法陣は見えなかった。
——もしかしたら、見えないだけで、何らかの魔法的影響があるのかもしれない。
それを調べるには、もっと情報が必要だ。瘴気病の発生源。呪いをかけた者。この世界の魔法のメカニズム。
——一つずつ、解き明かしていくしかない。
店に戻ると、また行列ができていた。
昨日よりも多い。三十人以上が並んでいる。
噂が広がっているのだろう。「魔法を使わずに病気を治す店」の話が、近隣の村々に伝わっている。
健太は深呼吸をして、エプロンの紐を締め直した。
「さて、今日も営業開始だ」
リーネが、隣で頷いた。
「はい。今日も、勉強させてください」
「ああ。一緒に頑張ろう」
自動ドアが開く。
一人目の患者が、入ってくる。
「いらっしゃいませ」
健太は、いつもの言葉を口にした。
それは、前の世界で何万回も言った言葉。
しかし今、その言葉には、新しい意味が宿っていた。
——俺は、この世界の人々を助ける。
——それが、俺の仕事だ。
転生薬局、三日目。
信頼は、一人から始まる。
そして今、健太の周りには、その信頼を寄せてくれる人々が集まり始めていた。




