第4話 前の亮くん
「亮く~ん、この問題わかんないよ~。教えてよ~。」
「う、うん・・・。これはこの公式を・・・。」
予備校の自習室、右隣に座った麗華が身を寄せて、耳元でそう囁いてきた時、ドキッと心臓が跳ね上がった。
季節は夏休み。もう8月。4月に麗華と付き合い始めてから4か月近く経つけど、まだこの体を寄せられた時の柔らかい感触と甘い匂いには慣れず、ついドギマギしてしまう。
「おっ、そうすればいいんだ~。わかりやす~い。ありがと~。」
簡単に解き方を教えると、すぐに理解してくれた。
成績優秀な彼女が、こんな簡単な問題がわからないはずがない。
きっと僕に話しかけて反応を楽しむための口実だろう。
しかも、僕の右手は、さっきから彼女に握られたまま・・・。
「亮くんは左利きだから、勉強の時は右手を借りてもいいよね~」だそうだ。
予備校でも、こんな感じでいつも触ってこようとしてくるから、最初の頃は戸惑った。
僕からは、スキンシップは節度を持って欲しいとお願いしたけど、彼女は「いつも触れて亮くんを感じていたい」のだそうだ。
話し合いの結果、人目があるところではスキンシップを控えることは了解してくれたけど、その分、見えないところでは隙あらば触ってこようとする。
しかし、今では、彼女の妨害にも心を乱されることなく、左手一本でもまったく支障なく勉強できるようになったから、慣れというのは恐ろしい・・・。
――
「わ~っ、もう真っ暗だ~。」
自習室での勉強を終えて予備校の外に出ると、時刻はもう20時過ぎだった。
麗華の門限が21時だから急いで帰らないと・・・。
「それにしてもさ~!ほんっとに今回の亮くんはマジメだよね~。毎日遅くまで勉強勉強で・・・。こんなに毎日勉強ばっかじゃなくてよくない?たまには勉強を早めに切り上げてどっかに遊びに行こうよ~。」
腕を絡めて引っ張ってくる今日の麗華のファッションは、淡い緑系のワンピースにキラキラしたミュール。長い髪はキレイなシュシュでまとめられている。
毎日こんなかわいらしい格好をしてるけど、予備校で勉強するには少し気合が入り過ぎてる気がする。
さっき自習室で見かけた本山さんは、くたびれたTシャツにデニムといういかにも勉強しやすそうな服装だったし・・・。
「お互い受験生だし。勉強のために予備校に来てるんだから・・・今は我慢の時だって・・・」
「前の亮くん達は、たまにさぼって遊びに行ってくれたのにな~。」
隣を歩く麗華が少し口を尖らせ、むくれている。
麗華の機嫌も気になるけど、それよりも「前の亮くん達は」という言葉がちょっと耳に引っかかる。
「・・・麗華となるべく近くの・・・できれば麗華の志望校の近くにある京都の大学に行きたいから、僕は頑張って勉強しないと・・・。」
そうつぶやくと、突然、肩のあたりに衝撃を感じ、その後、鼻先に彼女の髪の甘い香りがした。少しして、どうやら彼女が急に抱き着いてきたらしいと気づいた・・・。
「そんな嬉しいこと言ってくれるなんて・・・。思わずハグしちゃう!!」
「うえぇ~っ!!ちょっと待って!ここ路上だよ!!人目があるとこだよ。」
驚いて彼女の方を見ると、桜色に上気した顔をしながら、熱を帯びた視線を送ってきている。
「キスしちゃおっかな〜。」
そう言うと彼女は腕を僕の首に回し、そのまま顔を寄せてきた。
半分目を閉じた彼女の顔が迫って来たので、慌てて身を離す。
「ちょっと待って!まだ早いから!!高校生だし受験生でもあるから、もっとちゃんと節度を持った付き合いを・・・。」
急に突き放された彼女は、いかにも心外といった感じで不満そうな顔になった。
「え~っ。前の亮くん達は、みんな付き合ってすぐにキスしてくれたよ。それに、夏休みに入るころには、キスよりももっと先まで進んでたし・・・。」
頬に手を添え顔を赤らめながらも、尖らせた口からその言葉が出た瞬間、僕の心にチクリと痛みが走った。
こんな風に前の亮くんの話が出るたびに心の中がもやもやする。
彼女が話している『前の亮くん達』は他でもない僕自身のことだし、そんなのおかしいってわかってるけど・・・。
「・・・・亮くんどうした?不機嫌になっちゃった?」
短い時間だけど、少し考え込んでしまっていたらしい。気づいたら麗華が心配そうな表情で、僕の顔を覗き込んでいた。
「あっ・・・ごめん。でも、こういうのは雑に済まさないで、もっとちゃんとした時にしかるべき場所でって考えてたんだよ。どうかな・・・?」
苦し紛れに思いつきで出た言葉だったけど、彼女の表情が一瞬でパッと明るくなった。
「そうだね!そっか・・・今回の亮くんはちゃんと雰囲気とか考えてくれてるんだ・・・。嬉しい!亮くん、大好き!!」
「えっ、あ~っ、う~ん・・・。」
キラキラした瞳で見つめながらストレートに愛を伝えてくれる麗華がまぶしくて、思わず少し目を逸らしてしまった。
「・・・どうしたの?麗華のことが好きじゃないの・・・?」
それまでずっと笑顔だった彼女が急に不安そうな顔になり、僕は間違えてしまったことに気づいた。
「ち、ちがう。麗華のことは好き。大好きだよ。だけど・・・どうして麗華がそんなに僕のことを好きでいてくれるのかなって不思議で・・・。」
この言葉も思わずはずみで出てしまったものだけど、ずっと考えていたことだ。
4月に初めて同じクラスになり、それまで話したこともなかったのに急に付き合って欲しいと言われ、付き合うことになってからは、尋常じゃない強火の愛情をストレートに表現され続けている。
だからこそ不安になる。僕のどこをそんなに好きになってくれたのか・・・。
「亮くんのことを好きなことは私にとって、息をするくらい当たり前のことなんだよ。だって、私は亮くんと70年以上も一緒にいるんだよ。」
弾けるような笑顔に戻った彼女が、そのまま両手を広げながら胸に飛び込んできたので、路上なのを忘れて思わず抱き止めてしまった。
「・・・・亮くんのいいところは全部わかってるよ。亮くんは男らしくて頼りになるところもあるし、ひょうきんでおもしろいところもあるし・・・それにいつも麗華のことをよく見てくれてて、さりげなく配慮してくれたり・・・。そんな亮くんの全部が大好き。」
抱きしめながら耳元で鈴を鳴らすようなかわいらしい声で僕の好きなところを囁いてくれてるけど、僕は少し冷静になった。
それって全部、僕じゃなくて『前の亮くん』のことじゃないかな・・・。
僕には、前の亮くんみたいに好きになってもらえる自信がない・・・。
ふと見ると、麗華がとろんとした目になりながら僕を見つめていた。
「ねえ~っ・・・やっぱり今日キスしない・・・?」
その言葉に僕の心は揺れた。僕だって男だ。キスもしてみたいし、そこから先にも進んでみたい。
だけど・・・きっと麗華は『前の亮くん』とたくさんキスしてるに違いない。初めての僕が無作法な失態を犯して、それで幻滅されたら・・・。
「こういうのは記念日とかに・・・例えばキスはクリスマスイブで・・・それでそこから先は卒業するまで待つってのはどうかな・・・?」
「え~っ!!そんな先になるの~?」
「うん・・・初めてのことだし、ちゃんと準備したいと思ってる・・・。」
「・・・・今回の亮くんはまじめだね・・・。」
彼女はしぶしぶといった感じで不満そうだったけど、最後には納得してくれた。
手帳を開いてその日にハートマークを書き込んでいる。
・・・僕にとってはどっちも人生で初めての経験だけど、彼女にとってはもう何十回も何百回も経験してて、何の照れもなく手帳に予定を書き込めるくらい手慣れた作業なんだろうか・・・そう思うと、僕の心は浮き立つというよりも、絶対に失敗できないという強いプレッシャーを感じた。




