プロローグ
こんな定年後になるとは、夢にも思わなかった。
もっとキラキラした余生が待っていると思っていた。
40年、真面目に働いたんだ。あとの20年くらいは、趣味に没頭して、そこそこ楽しく暮らせるはずだった。
子供たちもそれぞれ自立した。息子は結婚して世帯を持ち、娘も実家暮らしとはいえちゃんとした企業に就職している。
もう安心、老後は安泰。
せいぜい月に1回のゴルフと、年に1回の温泉旅行。
あとは映画を観たり、ゲームしたり、積んである本を消化したり――。
地味でも穏やかな余生が待っているはずだった。
なにより「解放感」があった。
もう自分を高めなくてもいい。
満員電車の中で、興味もない自己啓発本を無理に読む必要もない。
YouTubeで「部下に信頼されるリーダー術」とか、しょうもない再生リストを消化する必要もない。
これからは「自分がやりたいこと」だけやればいいのだ。
そう思って、心の底からホッとしていた。
――そんな矢先。
「お父さん、話があるの」
テレビを見ていたら娘に呼び出された。
台所に行くと妻まで座っている。
え?家庭会議?家庭は円満だと思ってたけど……。
まさか、娘が結婚宣言とか?いや、それならそれで嬉しいけど。
「お父さん、座って」
「……ああ」
コーヒーを出され、定位置に腰かける。
なんか雰囲気が裁判所の被告席っぽい。
「お父さん、定年おつかれさま」
「ありがとう。まあ、少し失業保険もらって、軽い仕事して、そのうち年金もらえるしな。
まあ、40年も働いてきたんだし、これからはゆっくりしてもいいかななんて……」
次に、にっこり笑った娘が放った言葉に、コーヒー吹きそうになった。
「じゃあ、お父さん、これからは"主夫"ね」
「しゅ、主夫?」
「炊事、洗濯、掃除、ぜーんぶ。よろしく」
「え、いやいや……。手伝うくらいならともかく、全部は無理だろ。お母さんが――」
「お母さん、腰が限界なの。どうせ家にいるんでしょ?」
横で妻がぽつり。
「あなた、自分のことしか考えてないのよ」
娘がとどめを刺す。
「このままじゃ熟年離婚だよ」
――はい、死刑宣告きました。
その日から、ぼくの生活は一変した。
慣れない家事を全部担当。
ゴミ出しひとつでどこのゴミ箱を回収すればいいか分からず怒られ、洗濯物を干せば「シワになるでしょ!」と文句を言われ、料理は「材料費かけすぎ!見た目もひどい!」とダメ出し。
感謝の言葉は、ゼロ。
ただ、一匹だけ感謝してくれる存在がいた。
雑種の茶トラ猫、コヨミ。
それまで全力でぼくを避けてきた猫が、餌やトイレ掃除を担当するようになった途端、距離を縮めてきた。
ごはんの時間になると脚にすり寄ってきて、「にゃー、にゃー」とリズミカルに鳴く。
妻や娘と違って、ちゃんと感謝してくれる。
頭しか撫でさせてくれないけど、ぼくにとっては十分だ。
それ以来、ぼくはコヨミに癒されながら家事を続けていた。
ソファの横に香箱座りしている猫に話しかける。
「こんなはずじゃなかったんだけどな」
「にゃあ」
「もっとワクワクする日々が待ってると思ったんだ。子供の頃みたいにさ」
「……」
無言で見つめ返すその目は、すべて分かっているようで。
「でも、もう歳を取りすぎた。何をやっても楽しめないんだ」
「にゃー」
「そんなことない、か……。ありがとな、コヨミ」
その瞬間。
世界がぐにゃりと歪んだ。
めまい?歳のせい?いや、これは――。
気がついたとき、まばゆい光の中に立っていた。
目の前にいるのは、豪華な服にマントをまとい、頭に王冠を乗せた――典型的なファンタジーの王様。
誰だ、こいつ。と思った次の瞬間。
そいつも、ぼくを凝視して、目を見開いた。
よく見ると、そいつはぼくと顔が同じだったからだ。