07: Looming Emergency
探索は静かに再開された。
初戦闘を終えたばかりのロスは、剣を握った右手にわずかな震えを残しながらも、虚無の大地を一歩ずつ踏みしめていた。
「ロス君、大丈夫かい?」
前を行くマイルが振り返り、柔らかな声で気遣う。その視線は地形とロスの様子を交互に追っていた。
「……少し疲れました。でも、まだ動けます」
「スキルっていうのは、肉体だけじゃなく“精神”からも力を引き出すものだからね。使い過ぎには気をつけて。自覚のないときほど危ないから」
「……わかりました。ありがとう、マイルさん」
マイルの言葉には、知識だけでなく経験に裏打ちされた安心感があった。
「はっはっは! ガチガチに警戒してた割には、よくやったじゃねえか」
後方からクライヴが豪快に笑いながら声をかける。陽気な口調とは裏腹に、彼の目は常に周囲を警戒していた。
「そろそろ“ヘイズ”以外のもんが出てくるかもしれねぇ。マイル、ちょっと説明してやれ」
「うん。ロス君、虚無の個体はね、姿が曖昧なほど低位。逆に、形がはっきりしているほど、高位の可能性が高いんだ」
「……さっきのヘイズは、曖昧なほうですよね」
「そう。ほかにも地を這う“シェルク”、空中から襲ってくる“ハング”なんかがいる。動きや耐性もそれぞれ違うから、よく観察することが大事だよ」
「知能……はあるんですか?」
ロスの問いに、マイルはほんの少しだけ間を置いて答えた。
「基本的には本能的な行動が多いけど、特異個体……“スナッチ”には、意思があると考えられてる。実際、奇妙な行動の報告もいくつもあるよ」
「スナッチ、か……」
そのときだった。
【反応:正面三十度。個体数、三】
サイドが警告を発する。ロスは身構えた。
「接近反応!」
地面の裂け目から黒い影がじわじわと這い出してくる。
片方は甲殻に覆われた“脚”を持つ“シェルク”、もう片方は宙を漂う“ハング”だった。
「……言ったそばから、出てきたね。少し面倒だ」
マイルが即座に位置を確認し、構えを取る。
「うっしゃ、丁度いい!」
クライヴが愉快そうに笑い声を上げる。
「ロス、今回は見てるだけでいい。勉強の時間だ。……いいな、マイル!」
急な指示に一瞬目を丸くしたマイルだったが、すぐに諦めたように息をついた。
「……はいはい。どうせ止めても無駄だしね。ロス君、良い機会だから、僕たちの戦い方を見ててくれるかな?」
「クライヴって、付き添いだったはずでは……」
「戦いたいだけなんだよ。ね?」
マイルが苦笑混じりに肩をすくめる。
――
マイルが剣を抜く音は、風を切るよりも静かだった。
その目が捉えたのは、ふわふわと宙を漂う“ハング”。
鳥のような曖昧な姿と、半透明の翼。そこから射出される鉤爪が、不気味に揺れていた。
マイルは走らない。歩幅を絞り、重心を低く、姿勢を保ちつつじりじりと間合いを詰めていく。
ハングが旋回し、鉤爪が射出される。
マイルは静かに身を傾けてかわすと、そのまま一歩滑らせるように踏み込み、片手剣を振るった。
無駄のない一撃。
刃はハングの核を正確に捉え、影は霧のように崩れて消えた。
マイルは剣を構えたまま、ロスに視線を向ける。
「マイルさん、後ろ――!」
その言葉と同時に、地面から曖昧な影――ヘイズが這い上がってくる。
ロスが声を上げたそのときには、マイルはすでに動いていた。
ヘイズが飛びかかる。
マイルは半身で盾を構え、角度をつけて衝突をずらす。弾かれたヘイズが姿勢を崩すと、剣が即座に振り下ろされる。
的確な一撃。
黒い影は揺らぎ、風に流れるように消えた。
「ロス君」
マイルが落ち着いた声で言う。
「“斬る”だけじゃない。どう動くか、どう崩すか。無駄なく、丁寧に。それが一番、確実なんだ」
ロスは、自分の手に自然と力がこもっていることに気づいた。
「……すごい。あんなにあっさり……」
思わず口をついた言葉。それは驚きと、一見地味そうなこの男がクライヴの様に歴戦を感じるに足る記録者なのだと理解した瞬間でもあった。
だが――その余韻を、破壊的な声が吹き飛ばす。
「おいおい、静かすぎて退屈しちまうだろーが!」
ロスが振り向いたとき、クライヴの両手斧――《グレートアクス》が唸りを上げ、巨大な甲殻体が宙を舞っていた
炸裂音のような衝撃。
砕けた破片が宙に飛び散り、黒い靄が弾けるように消えていった。
「ったく……硬ぇな、こいつは!」
クライヴは斧を担ぎ直し、息を吐きながら笑う。
先ほどのマイルが隙を突く戦いとしたら、クライヴは叩き潰す様な戦いだった。
(マイルさんはともかく、クライヴは真似できそうもないな)
対照的な戦い方を思い出し思わず苦笑いしてしまうロス。
――だが、そのときだった。
空気が変わった。
風が止み、空の灰が濃くなる。気づけば、音のない沈黙が辺りに広がっていた。
「……妙だな」
クライヴが即座に斧を構え直し、マイルもその表情から笑みを消す。
ロスの視線が無意識にスキャナーへ向く。
【警告:異常波長感知。特異個体の兆候あり】
サイドのディスプレイが赤く点滅する。
次の瞬間、世界が――ざらりと揺れ、世界の色が一段階、濃くなる。
「……来るぞ」
クライヴの低い声が響いた瞬間だった。
空間の一点に亀裂が走る。広がり続ける亀裂は次第に割れ始め、そこから滲み出すのは濃密な虚無の波動。波紋のように周囲へ広がるその圧力に、思わずロスが息を呑んだ。
「まさか……!」
マイルが即座に前へ出て、武器を構える。その動きに合わせて、クライヴも斧を構え直し臨戦態勢を取る。
そして“それ”は、姿を現した。
スナッチ――かつて世界の一部だった物――かつて誰かであった記憶の残滓が、虚無に侵され、歪み、定着した存在。
その形は不安定でありながら、どこか人の輪郭を保っているように見えた。だが、その顔はない。ただ黒い靄が、彼らを睨むように渦巻いている。
「反応値、異常に高いよ。クライヴさん、これは単独行動個体じゃない。周囲、呼んでる……!」
【高密度虚無を感知。周囲反応数、増加中】
サイドのディスプレイに複数の警告が走る。
次の瞬間、スナッチの周囲に黒い影が蠢いた。
「ヘイズ……!? こんな数……!」
ロスは目の前の光景に息を呑む。湧き上がる黒い靄の波に、思わず声が震えた。
「マイル、これは単独行動のスナッチじゃねぇ。周囲に個体を呼び寄せてやがる……!」
クライヴが低く唸るように言い、すぐに叫んだ。
「応援信号を送れ! 支部に知らせとけ!」
「了解!」
マイルは即座に腰の端末に手を伸ばし、非常時用のコードを打ち込む。
「……送信完了。だけど、応答には少し時間がかかるかも」
「上等だ。その間、時間は俺が稼ぐ!」
クライヴは地を踏みしめ、グレートアクスを肩から外すと、スナッチに向けて踏み込んだ。
「俺が正面から叩く! お前らは周囲のヘイズを抑えろ! カバーできるなら、援護しろ!」
「「了解!」」
ロスとマイルがそれぞれに頷き、即座に散開する。
――静かだった空気が、一気に戦場へと変わった。
クライヴが大地を踏みしめ、一気にスナッチとの間合いを詰める。
その背を見送りながら、ロスとマイルはすぐさま左右に展開する。周囲では、すでに数体のヘイズがうごめき、こちらへと迫りつつあった――。
ロスは腰の剣に手をかけ、迫り来る影に身構えた。
地面の影が揺れる。ひとつ、ふたつ、みっつ……サイドのディスプレイが赤く点滅しながら、警告を繰り返す。
【敵性反応:通常個体。数:5。位置:接近中】
「マイルさん、来ます……!」
「了解。ロスくんは、自分のペースを崩さないで」
マイルの声は、静かだが力強い。
直後、ヘイズのひとつが地を這うように突進してきた。その影は地形とほとんど区別がつかないほど低く、だが動きは異様に速い。
ロスは剣を構え、ぎりぎりで身を捩った。
(速い……!)
剣が影を掠める。だが、致命には至らない。
「っ、マイルさん!」
「下がって! 任せて!」
マイルが滑り込むように前へ出て、バックラーを構えた。
ヘイズの二体目が斜めから突っ込んでくる。マイルはその軌道を一瞬で読み取り、右足を引いて半身を構えると、盾の縁を押し出すように動かした。
盾に直撃したはずのヘイズの動きが、わずかに逸れる。そのわずかな“ズレ”を逃さず、マイルは片手剣を振り抜いた。
軌道は直線。
だが、正確無比。
刃はヘイズの中枢を的確に捉え、黒い靄がふわりと空へと崩れた。
(防御からの反撃……無駄がなさすぎる)
ロスは思わず動きを止めそうになったが、すぐに意識を切り替えた。
「もう一体……!」
第三のヘイズが、ロスの左方から跳躍する。
ロスは剣を水平に構え、刃の軌道を意識する――
(斬るだけじゃない、無駄のない様に……!)
刃が重さをもって影を切り裂く。
うねる靄が、切っ先に反応して弾ける。
【確認:個体ヘイズ、消失】
「ロスくん、いい感覚だ!」
背後からマイルの声が飛ぶ。
だが、安堵する暇はなかった。
残りの二体が、左右から挟み込むように迫っていた。
「っ、二手……!」
「僕が右を取る!」
マイルが声とともに動く。ロスは即座に反対側へ跳ぶ。冷静な判断と反応。だが、内心は焦りがあった。
(これが、虚無との“戦場”……!)
右手の剣に力を込める。ロスの刃がヘイズの影を横に払う。動きは拙くとも、今のロスには“意志”があった。
刃は敵を裂き、影は空へと霧散していく。
ロスは荒い呼吸を整えながら、剣の切っ先を下ろす。横ではマイルも同じく一息ついていたが、その視線はすでに前方――スナッチの元へと向いていた。
「……クライヴの所に!」
ロスが叫ぶより早く、マイルは駆け出していた。ロスもすぐにその背を追う。
彼らがたどり着いたとき、クライヴはスナッチと激しく斧を打ち合っていた。漆黒の虚無が凝縮されたような人型の影――スナッチは、その身に纏う情報の残滓を波のように歪ませながら、クライヴの攻撃をいなし、打ち返している。
「援護する!」
マイルがそう叫び、すぐに盾を構えて距離を詰める。ロスも反対側から側面へ回り込むように動いた。
「っ、こいつ、動きが読めねぇ……!」
クライヴが吼える。彼のグレートアクスは虚無の肉体をたしかに捉えているはずなのに、刃の通りが悪い。まるで、スナッチの輪郭が絶えず形を変えているかのようだった。
「体が変質してる? 戦いながら再構成されてるのか!?」
マイルが即座に補足する。斬った場所が、次の瞬間には“そこではなかった”ことになる。だからこそ、クライヴの豪快な斧撃でさえ決定打にならない。
「それでも、崩すしかねぇ!」
クライヴが真正面から斧を振り下ろす。スナッチはすばやく後退し、右腕をねじれた“刃”のような腕に変え反撃に転じた。
「クライヴ!」
ロスが叫び、咄嗟に斬り込む。
スナッチの腕がクライヴにぶつかる寸前、その軌道を逸らすように剣を滑り込ませた。重さはない。それでも、確かな“感触”があった。
「ナイスだ、ロス!」
クライヴが踏み込んで反撃を加える。
マイルも横から盾でスナッチの体勢を崩し、タイミングを見て斬り込む。
三人で連携を取りながら、攻防が交錯する。スナッチの動きは異質だが、対応できないほどではなかった。
だが――それは、前触れもなく訪れた。
空気が歪んだ。地面が揺れたわけでも、風が吹いたわけでもない。それでもその場が“軋んだ”のが分かった。
【警告:局所空間に強制的な歪曲反応】
サイドのディスプレイが急激に赤く染まる。
「っ、マイルさ――」
ロスが叫びかけた瞬間だった。
視界が、霧に呑まれた。
クライヴの斧が振るわれる音も、マイルの指示も、何もかもが――霧の向こうへ、飲み込まれた。
目の前にあったはずの背中が、気配ごと、忽然と消える。
「……う、そ……」
瞬きをした、その一瞬で。
ロスは、一人きりになっていた。
手のひらが冷たい。握った剣が、ずしりと重い。
サイドに意識を向ける――
【通信不安定】【探索記録モード停止】【現在位置:測定不能】
機能はしている。だがサイドの報告は不安を募らせる内容ばかりだった。
――この空間は、スナッチが作った“檻”だ。
そう、直感で理解していた。
息を呑む。喉が痛いほど乾いている。
「ッマイルさん! クライヴ! どこだ!?」
名前を呼んでも、返事はない。
沈黙が、圧し掛かる。
空気が濁り、何も見えない。ただ、灰色の靄が広がるだけ。
その中で、ロスは立ち尽くしていた。
(……そんな……嘘だろ!?)
足が震える。呼吸が浅くなる。心臓の音が、やけに大きく響いた。
焦燥と不安と――恐怖。
クライヴとマイルが今の今まで一緒に戦っていたはずなのに。
ロスは剣を強く握りしめ、無理やり足を一歩踏み出す。
霧が揺れた。
【緊急事態につき警戒レベルを最大値に設定】
サイドが静かに告げる。
その声だけが、今のロスにとって唯一の同行者だった。