06: Brushed by the Shadow
探索隊の出発時刻に合わせて、拠点の裏手にある車両ヤードでは小規模な出発準備が進められていた。
ロス、マイル、クライヴの三名が集合場所に揃うと、格納庫の扉が軋んだ音を立てて開き、一台の車両がゆっくりと姿を現した。
「……あれが、探索用の車両?」
ロスの目に映ったそれは、まるで金属の骨組みだけで組まれた簡素な構造だった。
装甲も窓も最小限。代わりに視界を遮るものは何もない。荒れた地形にも対応できそうな大型のタイヤが、ゴツゴツと地面を踏みしめている。
「ああ。アフトキャリアーって呼ばれてる。運搬と警戒、両方兼ねた多用途車両だよ。みんなアフトって呼んでるね」
隣でマイルが説明を添える。彼の口調はいつも通り穏やかだ。
「枠組みが剥き出しなのも、こうやって周囲を常に警戒できるようにするためさ。特に敵の影が潜んでるエリアだと、死角があると致命的だからね」
「まあ、要するに――丸見えで寒いし、雨も防げねえってことだ!」
クライヴが豪快に笑いながら、後部の荷台をバンバンと叩く。
「でも、その分反応は早ぇし、万一何か出てもすぐ動ける。慣れりゃ悪くねえぞ」
ロスはしばらくその無骨な車両を眺めてから、黙ってアフトキャリアーに乗り込む。マイルは運転席で各種の計器類を丁寧にチェックしていた。
「出発ルートは安全圏を通って、既に記録済みの地点まで。そこから先が“探索エリア”になる予定だよ。ロスくんはそのあたりで、サイドとの連携にも慣れていこう」
「了解です」
ゴトリ、と荷台の鉄板を踏みしめる音。
やがて全員が所定の位置に収まり、エンジンが唸りを上げる。
「よし、それじゃ――出発進行」
マイルが静かにアクセルを踏み込み、アフトキャリアーはゆっくりと拠点を後にした。
――――
未舗装の地面をタイヤが跳ねるたび、アフトキャリアーの車体が小さく軋んだ。むき出しの骨組みを風が抜け、遠くの空には薄い靄のような雲が流れている。
ロスは荷台に揺られながら、静かに視線を巡らせていた。
見慣れない景色の中で、唯一確かなものは――自分の背に収められた装備と、腰にぶら下がるスキャナーの重みだけだった。
「……静かだ」
ぼそりと呟いた声が、風にかき消されそうになる。
しかし、運転席のマイルがすぐさまそれに反応した。
「今はまだ安全圏だからね。この辺りはしばらく虚無の侵食がないと記録されてる。だけど――」
「可能性はある?」
ロスの言葉に、マイルは小さく頷いた。
「うん。特に“ヘイズ”って呼ばれてる虚無の通常個体は、地形や空気にまぎれて接近してくることがあるからね」
「ヘイズ……」
聞き慣れない単語に、ロスが繰り返す。
「姿は曖昧で影みたいだけど、実体を持つから武器で対処も可能。ただ、どこにでも潜んでいるし、反応が遅れると危険だよ」
「しかも、あいつら、知性もあるかねぇってくらい執念深いからな」
クライヴが荷台の手すりに腕をかけ、後方を警戒するように目を光らせながら呟く。
「たとえ低位でも油断してると痛い目見んぞ。まぁ、いざって時は俺がぶっ飛ばすがな!」
力強く拳を握るクライヴに、ロスは思わず小さく笑ってしまった。
「頼もしいな」
「だろ? んで、マイル。そろそろか?」
「ええ。もうすぐ既知の記録域が終わる。そこから先が――探索可能域……未記録の地帯だよ」
その言葉に、ロスの表情がわずかに引き締まる。
(未記録の地帯――虚無に侵された、地図にない場所)
アフトキャリアーの進む道の先に、やがて霞のような境界線がぼんやりと浮かび上がる。
それは世界の“区切り”の様だった。
――――
やがて、アフトキャリアーは小さな丘の手前でゆるやかに減速した。そこから先――空気の密度が違うとでも言うように、景色の輪郭が徐々に曖昧になっている。まるで薄い靄が、現実そのものをぼやけさせているようだった。
「ここが境界線かな。」
マイルは運転席から降りながら言葉を続ける。
「この先は、アフトだと厳しい。虚無の波長に触れ続けると、機械はすぐに調子を崩すからね」
「探索可能域って影響が全くないわけじゃないんだな」
ロスも荷台から飛び降りながら、目前の“揺らぎ”に目を細めた。
「そういうこった。アフトは置いてくが、戻ってこれる位置には停めとく。何かあったら、全力でここまで逃げ戻れ」
クライヴが荷台のフレームを叩きながら言う。ロスは思わず口元を引き締め、頷いた。
「……わかった」
「境界の先は、詳細な記録が存在しない領域。だけど、君の記録が、それを塗り替えていくんだ」
マイルが言葉を添える。彼の声は落ち着いていたが、その奥には記録者たる覚悟があった。
ロスは腰元のサイドにそっと視線を落とす。その小さな装置は、無言のまま静かに点灯していた。
【状態:探索モード移行準備完了】
――
靄のような揺らぎを抜けた瞬間、空気が変わった。
色彩が一段くすんだ様で、肌に触れる風はひやりと湿っている。足元の地面は硬質で不安定、何かを焼いた後のような乾いた黒が広がっていた。
「ここから先が、目標地点だよ」
マイルが低く言い、手にした端末でスキャンを開始する。その背中に倣って、ロスもスキャナー《サイド》を構えるように意識を向けた。
【探索モード:起動】
電子音と共に、サイドの視界が広がる。いつもの赤い光ではなく、何かを解析しているのか何色かの光に明滅していた。
「先行して観測班が消えたのは、あの丘の裏あたりだ。慎重に進もう」
「了解、マイルさん」
歩を進めるロスの足音が、虚無に沈む大地に淡く響く。空はどこまでも灰色で、風の音さえ、何かを囁くように耳の奥に残った。
――そのときだった。
「……気配、あるな」
クライヴが視線を細める。すぐさま、サイドがアラートを発した。
【警告:正面方向に反応。虚無個体、接近中】
空気の揺らぎが一層強まる。次の瞬間――
地面の影が、ぐにゃりと揺れた。
そこから這い出るように、漆黒の存在が姿を現す。不定形で、視線を持ち、意思を持つかのようにロスたちを睨んでいた。
「あれが……ヘイズ!」
ロスは思わず一歩後ずさる。喉が乾き、手が微かに震えた。
「落ち着いて。今のは低位個体。姿は曖昧だけど、実体はある。しっかり対処すれば倒せるよ」
マイルがすぐさま声をかける。彼の声は冷静で、ロスの不安を和らげようとしていた。
「影のように見えるけど、動きは素早くて読みにくい。でも、攻撃の前には必ず“揺れ”が来る。見て、タイミングを掴んで」
「まずは僕が――」
マイルが戦い方を見せようと言いかけた言葉をクライヴが遮る。
「戦いの感覚は残ってるんだ。1人でやってみろ」
「ちょっと! クライヴさん!? いくら何でも急すぎます! まずは手本を見せてから――」
まず新人相手にはありえないクライヴの発言をマイルは必死に止めようとする。
しかし。ロスは剣の柄に手をかける。体の奥から沸き上がる、理解できない“記憶”の断片。それに導かれるように、一歩踏み出す。
「了解……なんとなく、こうなるとは思ってたよ」
強張った表情を完全には隠せぬまま、ロスは返す。
ロスは剣の柄に手をかける。
握った手が、汗でじっとりと湿っていた。
(逃げるな。訓練のときも……怖くなかったわけじゃない。でも)
一歩踏み出す。足裏に伝わる、虚無に沈んだ地の感触。
次の瞬間、ヘイズが滑るように動いた。闇の触手のような腕が、地を擦るようにしてこちらへと迫る。
「――っ!」
ロスは剣を振るった。
鋭く、だが浅い。刃先が影を掠め、わずかに霧を裂く感触が走る。
ヘイズが反転し、再び襲いかかってくる。
その動きは液体のように柔らかく、掴みどころがない。
ロスは咄嗟に身を引き、横へ跳ぶ。
地面に剣先を立て、体勢を立て直す。
(速い……こいつ、次は――)
ロスの頭がフル回転するよりも早く、ヘイズがさらに距離を詰めてくる。重心を低くして、斬り上げる。
手応え。だがまだ、足りない。
ヘイズはわずかに後退したのち、ぐにゃりと身をくねらせるようにして再び形を成した。
その眼――虚無の中に生まれた“意志”のような視線が、ロスを射抜く。
息が詰まる。
「ロスくん!」
マイルの声が飛ぶ。
「もう一歩! 切り込める!」
ロスは、叫びに応じて前へ踏み込んだ。だが、剣は届かない。
空を裂いた斬撃が虚しく流れ、ヘイズの輪郭がさらに揺れる。
その時だった。
(……いや)
背中の奥で、何かが囁いた。
訓練のときではない、“もっと前”の記憶。
剣を握るこの手が、知っている感触。
この間合いで、踏み込みで――どうすれば届くかを。
(俺は――)
一度、息を吐いた。
剣を握る手が、自然に力を込める。
次の瞬間、ロスの身体が――自然に、滑るように前へ動いた。
剣を握る手に迷いはなかった。心のどこかに刻まれた、馴染み深い“感覚”が、彼の動きを導いていた。
(――今!!)
「一閃!!」
刹那、空気が静止した。
剣が放たれる。
それはもはや、斬撃ではなかった。
一歩の踏み込み、無駄のない動作、そして疾風のように振り抜かれ――
――その軌跡は、一瞬で虚無の個体を貫いた。
斬撃の余韻も残さぬまま、ヘイズの身体がぱきん、と音もなく裂ける。境界線のように走った白い亀裂が、空気ごと裂いたかのように広がっていく。
その姿はまるで、濃霧が風に散らされたかのように――黒い粒子となって、灰色の空へと消えていく。
【敵性個体の消失を確認】
淡々と告げるサイドの音声と同時に、ヘイズは消失した。
しばし、停止したその空間で、ロスの激しい呼吸だけが、その場に残っていた。
「……やったのか」
呟いたロスの声に、マイルがすぐさま駆け寄る。
「ロスくん、大丈夫? 怪我は?」
「平気……です。けど、体が勝手に……」
その声は戸惑いを含んでいたが、不思議と落ち着いていた。
「上々だな。……初戦闘であそこまで動ける奴は、なかなかいねえよ」
ロスは言葉を返さず、手の中の剣をじっと見つめた。
(初戦闘……か)
目の前で虚無が散った。その感覚は、あまりにも鮮烈で――けれどどこか、既視感を感じていた。
(あれは……たしかに、俺の中にあった動きだ)
(俺は、やっぱり――)
自分でもまだ曖昧な、“何か”の記憶が、かすかに形を持ち始めた気がした。
サイドが静かに光る。
【戦闘ログ:保存済み】
【精神波長:安定】
ロスは深く息を吐き、ゆっくりと背筋を伸ばす。
「……ありがとう。マイルさん、クライヴ」
彼の声には、今までにない重さと、自信のようなものが宿っていた。
マイルは微笑んで頷き、クライヴは豪快に笑い返す。
「礼を言うのは、帰ってからにしとけ。まだ、始まったばかりだからな」
クライヴその言葉に、改めて気を引き締めるロスだった。