01: He Who Has No Memory
雨は止んでいた。
黒ずんだ空の下、鉄と石で築かれた巨大な門が音もなく開く。
そこに広がるのは、拠点都市。この崩れかけた世界において、なお“都市”と呼べる数少ない生き残りのひとつだ。
虚無の侵食が進む中、この都市はかろうじて生き延びている。
各地の小さな拠点や廃村から、まだ人が辿り着く術はある。――少なくとも、今のところは。
門をくぐる者は、日に日に減っている。だが、完全に絶えたわけではない。
その日も、ひとりの男が門を越えた。
ロス=ゲイン。名を知る者はここにはいないが、彼は確かにそこに立っていた。
(……ここが、ネストセイフ)
彼は一歩を踏み出す。
背後で門が音もなく閉じた。
まるで“戻る場所などない”と言われているようだった。
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都市の通りは静まり返っていた。
かつては賑わいを見せたという広場も、今では看板だけが風に揺れている。人影は疎らで、皆が何かを“避けている”ように見えた。
この都市では、誰もが知っている。
――虚無は、足音を立てずに忍び寄る。
だからこそ、記録する者たちが必要だった。
ロスが立ち止まる。視線の先には、石造りの階段を登った先に立つ建物。
その扉には、こう刻まれていた。
《Graphers Guild - 地図技録管理局》
少し躊躇し、彼は扉を押す。
重厚な音が、静寂を切り裂いた。
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中は思ったよりも暗い。けれど、目を凝らせばすぐにわかる。
壁には古びた地図がいくつも掛けられ、床は何度も踏まれて磨り減っている。
受付らしきカウンターの向こうには、誰かがいる気配もあった。
ーーさて、どうするかなぁ。
「えっと、まずは……」
ロスの呟きが、静かな室内に溶けていく。
その声に応えるように、カウンターの奥から柔らかな足音が響いた。
仕切りの向こうから現れたのは、背筋をピンと伸ばした若い女性。金髪をまとめ、制服の襟元にはギルドの紋章が縫い込まれている。
「ようこそ、《グラファーズ・ギルド》へ。あなた、見たところ――新人さん、ですよね?」
「あ、ああ。外から来たばかりなんだ、分からない事が多くて」
「それは大変でしたね、よくご無事で。受付担当のレミ=メノスです。登録希望、でよろしいですか?」
言葉とは裏腹に、彼女の視線は鋭かった。人を見慣れている目だ。
それでも笑みは絶やさず、淡々と対応するその姿に、ある種の“プロフェッショナル”を感じさせる。
「ああ、お願いします」
レミは小さくうなずくと、端末の画面をロスの方へ向ける。
カウンターの上に、一枚の端末が滑らせるように置かれた。表示されているのは、登録フォームらしい。
「では、こちらに記入をお願いします」
【記録者仮登録申請書】
氏名: ロス=ゲイン
所属希望: グラファーズ(地図技録管理局)
適性スキャン:未実施
緊急時連絡先:なし
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「IDはすでに入力済みです。あなたの顔データは入域の際に取得済みですので、後は内容を確認して、親指をここに」
レミが指し示したのは、画面右下のスキャンエリア。淡く青く光っている。
「……その前に、確認事項を一つ」
レミの声色が少しだけ硬くなる。
「一度この端末に指を置けば、あなたは《虚無探索任務》の候補者として正式に登録されます。もちろん、危険な任務です。命を落とす者もいます。――それでも、構いませんか?」
彼女の瞳が、まっすぐにロスを見ていた。
ただのルーティンにしては、あまりに真剣な問いかけだった。
「……構わない」
ロスは端末に親指を置いた。
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「登録は完了です。それではこちらを――」
レミが差し出したのは、黒く細長い装置だった。
一見するとただの金属器具のようだが、表面には生体素材のようななめらかさと、わずかに脈打つ光が走っていた。
「これはスロット端末。スキルを精神に“刻み込む”ための媒体です」
「……身体に、じゃなくて、精神に?」
「はい。戦闘時、意識と直結することで即応性を高めています。これを装着すれば、スキルはあなたの“内側”に記録される形になります」
「壊れたりなんかは?」
「物理的な破損は問題になりません。これから行うスキルスキャンと精神に刻む為の仲介機の様なものなので」
「では、こちらへどうぞ」
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ロスはスキャン室に通された。中には古びた装置と、操作端末がひとつ。部屋そのものは狭く、どこか無機質な雰囲気を漂わせていた。
「これが、スロットスキャン装置です。あなたの精神波長を読み取り、適性に応じたスキルが割り当てられます」
ロスは言われるまま、装置の中心にある黒いパネルに右手を乗せた。
「痛みはありませんが、少し眩しくなるかもしれません。――始めます」
レミが操作を開始すると、装置の内側が淡く光り始める。
次の瞬間、脳の奥に“何かが触れるような”奇妙な感覚が走った。
淡い光が収束し、スキャン装置が静かに動作を終えた。
「……スキャン完了。スキルの割り当てが確定しました」
レミが確認するようにモニターを見やり、続けて読み上げる。
「《一閃》。効果は、素早い斬撃によって対象の動きを一時的に制限する、近接物理系スキルです」
「……近接系かぁ」
そう呟いたロスの表情に、不満というより“実感が湧かない”といった色が滲む。
「どうかされましたか?」
「いや……遠距離系があるなら、その方が安心かな、と」
レミは小さく笑って肩をすくめた。
「人によって遠距離スキル、補助スキルもあったりしますね。でも、それがあなたの精神波長に刻まれていた適性です。使ってみれば、意外と馴染むかもしれませんよ?」
そんなものか、とロスは思う。それに、何より――どこかで、これを“知っている”気がした。
初めてのはずなのに。まるで懐かしい記憶の断片のように、身体のどこかが覚えている。
スロット端末が静かに熱を帯びていた。
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スキャン室を出ると、レミは一つの箱を取り出して渡してきた。
「最後に、これがあなたのマップスキャナーです。拠点内では作動しませんが、探索中は常時装備してください」
渡された箱の中には手のひらほどの球状の装置が収まって、滑らかな金属のような外殻、中心部に窪みがあり。
それはまるで閉じている“目”のようだった。
「この端末は、あなたの精神波長と同期して動作します。初回起動時にある程度の個体差が出ますので、ご注意を」
「……個体差?」
そのうち分かりますよ。笑いながらそう言ったレミの表情には、どこか含みがあった。
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仮宿舎へと続く廊下を、ロスは無言で歩いた。
スロットに刻まれた《一閃》、そして手にしたスキャナー。
仮宿舎の扉を開ける。誰もいない、簡素な部屋。
その中央に立った彼は、静かに右手に視線を落とす。
そこにあるスロット端末と、手の中の球体。
「……さて。これから、どうなることやら」
ぼやきのようにこぼれた声が、静かな室内に溶けていった。