Prologue: A Place Not on the Map
空、雲、木。
生ける物が存在しないその空間に、ただ“揺らぎ”だけが漂っている。
ここは、すべてが沈黙する領域――虚無。
世界から剥がれ落ち、意味も形も持たない純粋な消失。
常人なら僅かな時間で気が狂いそうになるその空間に、一つの足音が鳴った。
その足音の主、一人の冒険者が虚無の境界線を越えて立っていた。
顔を伏せた姿から目元は見えないが、その手に握られた剣と腰に吊るされた球状の物体を携えている。
突如として彼の周囲に、黒い「ヒビ」が走った。何かが現れようとしている。
腰に吊るされた球は警告音の様な音を発し、握られた剣が強張るように向けられた。
そして――
歪んだ音とともに現れたのは、形なき敵。
それは人ではない、獣でもない、言葉にもならないナニカ。
そのナニカは姿を定かにせず、それでいて確かにこちらを見ている。否、それは“見ている”というより“計っている”。
だが、一瞬の逡巡すら命取りになる――そんな空気が張り詰めていた。
ナニカが動く。
地を這うように、気配が殺到する。視界の端で黒いもつれが触手のように伸びる。
腰部に取り付けられた球が危険反応を示す。
「敵性反応、接近中――射程内。反撃推奨」
張り詰めた空気の中、淡々とした音声が流れる。
彼はわずかに息を吸い、そして――
「……一閃」
声と同時に、光が走った。
刃は空を裂き、虚無の中に確かな“線”を残した。
目の前の世界は歪み、何かが崩れ――また、形を取り戻していく。
ほんのわずかに、何かが“戻ってきた”ような感覚。
そのとき、空から――ぽつり、と水音が落ちた。虚無に奪われていた“天の気配”が、静かに戻り始めていた。
その中で、彼は確かに“何か”を思い出しそうになる。
雨が、降っていた。