中
クルス少年は少し離れた位置から、森の中を進んでいく賢者の背中を追う。里から離れてお互い無言のまま、一言も言葉を交わさずただ歩いていくのみ。
森の中を歩き始めて30分ぐらい経過しただろうか……沈黙に耐えかねたクルス少年が口を開く。
「あ、あの……」
声を掛けられた賢者は歩みを止め、その場で振り返り、エルフ特有の感情の読み取れない表情でクルス少年を見据える。立ち止まっただけで返事をするわけでもなく、無言のままだった。
クルス少年は気後れしそうになるが、勇気を振り絞り、声を出す。
「あの……! ぼ、僕はこれからどうなるんでしょうか?」
「精霊術を宿すのだ」
それだけ言い放つと、賢者はまた森の中を進もうとしたが、
「ま、まって!」
再び引き留められてさすがに怪訝な顔をしている。が……相も変わらず賢者からは何も喋らない。
「え、えっと……食べ物とか、着替えとか……どうするんですか……?」
「心配いらぬ」
「あ、う……」
それ以降、何も言えなくなってしまった。
クルス少年の胸中は不安や恐れなど、黒い感情で渦巻いているが、賢者は素知らぬ顔で、温かい言葉はおろか、ろくな説明もないときている。これで納得して着いて来いという方が無理がある。
クルス少年とて馬鹿ではないので、これからどうするべきかはわかっている。いるが……不安なものは不安なのだ。
その不安を少しでも晴らすべく、何とか賢者の口から情報を引き出そうとするも、当の賢者はほとんど口を開かない。
質問しても返ってくる答えは最小限のことばかり。結局クルス少年は賢者からの説明を諦め、始めと同じように森には再び静寂が戻った。
「なーにが賢者よ。ぜんぜんこんなの賢者じゃ無いじゃない。こんなやつをなんて言うんだっけ……おろか……えーと……あ! ぐしゃ! そう、愚者よ!」
実のところ賢者はクルス少年の歩く速度に合わせていたし、声をかけたり、振り返りこそしないものの……歩きやすい道を選んだり、小枝などが引っかからないよう精霊に頼んでおき、後ろを気にかけながら歩いていたのだ。
前回と同じく一度本を置くと、飲み物、杯、軽食を手早く用意する。
今日は木苺のジャムサンドだ。ジャムは木苺の形が残る程度に煮て、味を引き締め、色鮮やかになるようレモンの果汁が添加されている。
ジャムは甘すぎず、酸っぱすぎず、挟んで食べるのにちょうどいい。
大きな口で一口かじると、パンの後ろからジャムが零れ落ち、ドレスのスカートへと飛び込む……邪悪な笑みを浮かべながら。
クルエーティラはそのことにまったく気づいておらず、手がべたつくのが嫌で、一所懸命ジャムサンドを平らげている。
気づいたところで「あっ」と一言漏らすだけで、気にも留めないだろうが……。
このことが洗濯係から、母親の耳に入って叱られるわけだが、屋敷の中で彼女を止められるものは存在しない。
たった一人だけ存在するのだが……彼女はまだ幼く、非力ゆえ、数年後には……だけどそれはまた別のお話。
クルエーティラは食べ終わると、
「一段と腕をあげたわね」
得意げな顔で言った。これも母親の真似である。
実際ジャムサンドを作ったのは料理人だが、ジャムを煮たのは趣味でやっているメイドだ。
クルエーティラは当然料理人が全部やったと思っている。母親のように料理人を褒めたつもりで、賞賛されていようとはメイドも夢にも思うまい。
無事手を汚さず食べ切った後は、果実水を一気にあおり、口の中を空にする。
「ふう」
一呼吸置き、パンくずを両手で払うと再び本の世界へと戻ってゆく……。
『この時は本当に参ったよ。
「始祖様」に悪気がないのはわかるけど、僕としては、ね?
でも今だからこそわかることもある。
「始祖様」なりに僕のことを気遣ってくれていたのを。
そういえば、いつまでも「賢者様」や「始祖様」じゃ不便だったので、名前を尋ねてみたんだ。
賢者様には名前が無かった。正確には失われた……かな?
本人曰く「久しく名を呼ぶものが居ない」ため忘れてしまったそうだ。
だから僕は心の中で名無し……「名無し」と呼ぶことにした。
だけど、ある時寝ぼけてて、本人に「レムス」と呼び掛けてしまったんだ。
そうしたら「好きに呼ぶがよい。ふむ……どうせならば今日から私は『レムス』と名乗ろう」だってさ。差して興味なさげにね。
ふふ、変な感じだよね。何百年も生きているらしい人物の名付け親が僕なんて』
賢者レムスの住処は千年樹と呼ばれる巨大な樹だ。入口には小さな階段がついており、上がって扉を開けると、木の中芯をくり抜いたかのように空間が広がっている。中は外から見るよりはるかに広かった。
円形状に広がった広間の壁にはいくつかの扉があり、各部屋へと繋がっている。
そして中央には大人の膝下ぐらいまである、大きな丸い切り株がテーブル代わりに置いてある。
どこからか陽光が差し込み、明かりを灯さなくても十分な明るさだった。
「うわぁ……」
クルス少年は中へ入ると、幻想的な光景に感嘆の声を上げた。
「好きな部屋を使うがよい」
レムスは、相も変わらずの無関心な表情と口調でクルス少年に話しかける。
「いいんですか?」
レムスは何も言わず静かにうなずく。
この時ばかりはクルス少年も不安や恐れを一時忘れ、ただただ、これから自分が住まう場所に見惚れるばかりであった。
普通の人間ならばこうはいかなかっただろうが、そこは小さい時から里で暮らし、自然に囲まれ、彼らに教えを受けた、エルフとの生活が彼を変えたのだろう。
見惚れていると、突然大きな音がクルス少年のお腹から聞こえてきた。
「あっ……」
自分のお腹の音に気付いてしまったクルス少年は、恥ずかしくてうつむいてしまった。
「自然なことだ。恥じる必要はない」
そう言うと、レムスは植物が芽吹いたような鮮やかな萌黄色のローブのどこからか、桃に似た果実を取り出し、クルス少年に差し出す。
「一つで満たされる。残れば明日食べればよい」
「あ、ありがとうございます」
朝から右も左もわからず歩き詰めで疲労していたし、緊張が緩んだこともあり、すっかりお腹が減っていた。
果実を受け取り、一口かじる。果実はもぎ立てのように瑞々しく、口の中に甘い果汁が流れ込んでくる。たった一口で、腹が満たされていく感覚に包まれる。
「おいしい……」
桃に似た果実……千年樹に生っている実なのだが、ただのうまい果実ではなかった。
果実を食べることになったこの瞬間から、クルス少年の運命は大きく変わる。クルス少年も……さらにレムスですら、予見できなった。
「術は明日からでよかろう」
「なら家を探検してもいいですか?」
「思うがままにせい」
「はいっ」
何も知らない二人は分かれていく。
レムスは千年樹の道すがらとは違い、ゆったりとした足取りで奥へ入って行き、クルス少年はまるで大人の秘密基地のような家を思う存分探索した。
埃こそかぶっていないが、長らく使われた形跡がない調理場、倉庫らしき物置部屋や……寝具が揃っている部屋など、すべての場所を探検した。一つを除いて。
最後に訪れたのがレムスが入っていった場所だ。
「し、しつれいしまーす……」
小声で用心深く扉を開けると……そこには壁一面に天井まで届くほど並ぶ本棚と、大量の書物が収められていた。
書庫と呼ぶには大きすぎるこの場所は、さながら小さな図書館であった。
大きな切り株のテーブルがある居間と同じく、部屋の中心には書架に囲まれるよう小さな切り株テーブルが置いてあり、側らには椅子が三脚ほど。
中央の椅子にレムスが本を開いて腰かけている。
部屋の作りは似ているが、一つだけ違うのは部屋全体が薄暗いだろうか。
レムスの周りに白い小さなビー玉ぐらいの光が、いくつかたゆたっている。小さな光が明かりの代わりをしているわけだ。
「きれい……」
クルス少年の声に気が付くと、レムスは一瞥する。が……そのまま何事もなかったようにまた本へと目を戻す。
クルス少年も以降は口を開かず、その光景を眼に焼き付けるように、立ち尽くすばかりだった。
『あの光景を見た時には不安なんか吹き飛んじゃったなぁ。
これが「精霊術」なのか……って。
里でも「精霊術」を見たことはあったけど、普通に火をおこしたり、水を瓶に出すとか、「暮らしの一部」といった感じだったからね。まあ……だからこそ「精霊術」が使えない僕が居て、皆が困っていたわけだけど。
だけどレムスの元で学べば、同じように出来るんだ、って考えたら嬉しくならない? 僕は少し変わった考えの持ち主らしいから、僕だけかもね』
「あたしも見てみたいな……」
思わず漏れ出た言葉だった。クルエーティラ本人は意識していなかったため、口に出たことすら気づいていない。
「『精霊』かぁ。本当にいるのかな?」
疑っているというより、居て欲しい……「願望」のほうが強い。この世界には魔法も存在するが、実用レベルまで使える人間のほうが珍しいのだ。
魔法自体は100人に一人ほど使えるのだが、大抵は……例えば水魔法なら一日一回、手を濯げる程度だ。それならば井戸や川へ水を汲みに行ったほうがよほど早い。
逆にエルフの精霊術はかなり強力である。精霊の存在有無や意思に依存するとはいえ、敵を焼き尽くすこともできるし、飲み水を魔力が続く限り、生成することも可能だ。それゆえにエルフは恐ろしく……強い。
なおかつ森でのエルフは「他に並ぶ者無し」といっても過言ではない。
こんな逸話がある。
とある国がエルフを傘下に収めようと、軍を率いて攻め入った。軍は森の手前に陣を敷き、様子を見るため先遣隊を出発させた。森へ足を踏み入れた先遣隊はどれほど待っても誰一人戻らず、指揮官は森に「火をつけろ」と部下に命令したが……火はつかなかった。
火種を用意し、燃えやすい枝などに移してもすぐに消えてしまう。そのうち軍のいる頭上にだけ雨が降りしきる始末。
業を煮やした指揮官は全軍を森へ進ませた。結果は……誰一人とて帰ってこなかった。近隣には恐怖に支配された叫び、すすり泣く声、命乞いなどが木霊し、数時間続いたという。
それ以降エルフの住まう森へ侵略する者は、誰も居なくなった。
「墓穴を掘りたくなければエルフに手を出すな」
国家間での共通認識である。
これでエルフの領域を侵すものが居なくなった……わけではない。見目麗しいエルフが高く売れるという理由だけで欲に目が眩んだ人攫い、無知な密猟者など悪意を持った人間は枚挙に暇がない。
だからこそいまだに彼らは、己が身、そして愛すべき神聖な森を守るため、牙を研ぎ続けるからこそ、精霊術と森を合わせたエルフは唯一無二の強さだ。
「あたしも愚者レムスに弟子入りして、強くなりたいっ。精霊術を覚えたら、どーん! のバーン! よ!! 悪い奴なんて退治してやるんだから!」
クルエーティラの評価が変わり、「愚者」から名がついて「愚者レムス」に格上げされたようだ。
自分が愚者と思っている者へ弟子入りを志願するとは可笑しな話だが……これはクルエーティラが素直なのか、それとも何も考えていないだけなのか……わからない。
一つ確かなのは、切り替えの早さが彼女の持ち味と言えよう。クルエーティラは興奮冷めやらぬ中、頁をめくる。
「まず、聞かせてもらおう。精霊術とはなんだ?」
「自分の魔力を糧に、精霊に力を貸してもらうことです」
「里で教わったようだな。では……精霊とはどんな存在だ?」
「え、えーと……いろんなものに宿る……精霊?」
「彼奴らめ……肝心の部分を教えておらぬではないか」
レムスには明らかに落胆している様子が見て取れる。
「ご、ごめんなさい……」
自分に言われていると勘違いしたクルス少年は謝る。
「いや、其方に言っておるのではない。里の者とて、異種族に教えたことがないのだ。是非も無し」
「ぜひ……もなし?」
「……それより、先に進むが構わぬな?」
「……はい」
「精霊とは、万物に宿る理である。神代から存在しうる数多の存在で……」
「???」
クルス少年は、レムスが何を言っているかまったくわからず、話についていけない。頭の上にクエスチョンマークが飛んでいるのが、ありありと見えるようだ。
結局のところレムスとて人間族に教えた経験がないのだから、うまく伝えれないのだ。
しかし彼は里のエルフ達とは一味違った。伊達に賢者とは呼ばれていない。
クルス少年の様子に気づき、
「今の話ではわからぬか?」
「は、はい……全然わかりませんでした……」
「ふうむ……」
黙ると、思量し始めた。その間、クルス少年はレムスが再び口を開くのをじっと待っている。
正直なところどうしていいのかわからないのだ。声をかけるべきなのか? それとも待っている方がいいのか……あれこれ悩んでいるうちに……。
レムスは考えたがまとまったようだ。
「精霊には意思がある」
「意思?」
「そうだ。有り体に言えば、我らと何ら変わらぬのだ。彼らにも好悪があり、好まざる者には力を貸さぬし、愛とし子の其方には、望めば途方もない力を貸すだろう。我らとの違いは、森の民以外には姿を見ることも、気配を感じることもできぬ。さらに司る属性の力を持ち合わせていること。この2点だ」
「僕たちと変わらない……」
「心地よい風を肌で感じぬか? 大地に触れ、ぬくもりは? 火を見て心が安らぐことはないか? 水を浴び、飲めば体が潤うであろう? 其方が見ておらぬ、感じておらぬだけだ。彼らは常に我らと共にあらんことを望んでいる。目に見えるもの、聞こえるものだけがすべてではない」
「でも僕にはどうしたらいいか……」
「明日から毎日、空を見上げるがよい。……さすれば自ずと道は開かれよう」
「空を見上げる?」
「感じるのだ。自然を。そして、傍らには精霊がおると」
『あの頃、僕はまだ子供で意味がまったくわからなかった。毎日空を見る意味も、精霊が傍にいるっていう事実も。でも、レムスのおかげで今の僕がある。精霊術を使えるようになったし、精霊と対話することもできるようになった。彼が居なければ、僕が精霊術を会得することは叶わなかっただろう。……ただエルフたちと違って、精霊の姿形まで見えるわけじゃないけどね』
クルエーティラはそこで本を閉じ、なんとはなしに空を見上げる。まだ陽は落ちておらず、周りは明るい。
この日、クルエーティラが再び本を開くことはなく、時折飲み物を手にし、夕暮れまでぼんやり過ごした。
次の日からあいにくの雨続きで、数日間、外に出ることは出来なかった。街の子供たちはこういった時、大抵親や家の手伝いをさせられる。
女の子は人形遊びや、何人かで集まっておままごとなどもできるが、男の子ともなるとそうはいかない。
室内で遊べる事も限られているし、暇なのだ。
さて、肝心のクルエーティラはどうしているかというと……部屋の中でカビのようにジメジメと、ベッドにこびりつく様に横たわっていた。
彼女の場合、手伝いをする必要もなく、かといって普通の女の子と違って、室内遊びも好きではなかった。
なぜ彼女は怠惰な日々が許されるか?
オスタリア伯。国内でも有力な貴族のご令嬢だからだ。
王国の最東端に領地を持ち、入国するにはこの地に足を踏み入れるしかない。いわば王国の玄関口であり、要所でもあった。
当主はクルエーティラの父親ではなく、母のアンバーローズだ。アンバーローズの生家は王家の遠縁で、建国から続く由緒正しき公爵家である。
アンバーローズの父……クルエーティラにとって母方の祖父・エドガーは、王の信頼も厚く相談役を引き受けているが、政治からは手を引き、半隠居している。
エドガーは公明正大、誰にも与することなく、その中立性、采配から『天秤』の異名を持つ。
それゆえ王だけではなく、国内の貴族からの相談も頻繁に舞い込むほどだ。どの派閥にも属さず、思想も偏っておらず、なおかつ自分の意見を押し付けたり、恩を売ったり、地位や権力を笠に着ない。これほど安心な相手は居ないだろう。
偉大な父を持つアンバーローズが、伯爵位を賜ったのには理由があった。
アンバーローズは父から領土と爵位を与えられ、オスタリア伯爵として封ぜられる。
家族……娘を直臣にすることにより、公爵家の力をより強固にし、家門の結束力を高め、外敵から守る盾を増やしたのだ。
専守防衛、エドガーの基本理念である。しかし、力無き者に守る権利も、術もないことをよく弁えていたので、力を蓄えることを疎かにしなかった。
娘のアンバーローズは中央の権数や政治とは距離を置き、その代わり社交界に力を注ぐと頭角を現し始めた。
彼女がまず初めに手に付けたのは、服装である。公爵家には古い文献も残っており、王国の最古まで調べ上げ、ひらひらのレースやフリル、煌びやかで派手に着飾る流行とは真逆へ進み、厳かで、上品かつ、穏やかな色合いのドレスを身に着け、徹底的に動作や仕草まで古典に徹した。
同年代からは「年代もののすえたワイン」「カビの生えたチーズ」と揶揄されたが……歴史や古い仕来りを好む者、古き王国の記憶を懐かしむ年配者から多大な評価を得る。
そして彼女にはもう一つ武器があった。
アンバーローズは名の如く、薔薇のように美しかった。
親は由緒正しき公爵家にして、彼女自身も爵位を持ち、老齢の高位の貴族たちからも覚えがめでたい前途有望な女性だ。婚姻を結べれば、公爵家との直接的な繋がりも持てる。
金、権力、美貌の3拍子揃ったアンバーローズを男性陣が放っておくわけがなかった。
それに貴族のうら若き令嬢たちが嫉妬、憎悪、羨望、怨嗟、様々な感情を抱き、渦巻く中心に居たのが、アンバーローズである。
これにより当時の社交界は様々な事件が起こったが、アンバーローズは八面六臂……とまで言わないが、社交界で戦い抜き、父の期待にも応えた上で、我が身の地位を確固たるものにしたのである。
そんな中、彼女を射止めたのが現夫のケイだ。しがない子爵家の三男坊で、どちらかといえばぱっとしない青年だった。
正確には射止めたのは彼ではなく、アンバーローズがケイをものにしたのだが……。
娘のクルエーティラが安穏の日々を過ごせるのは、アンバーローズの苦労の賜物といってよい。
雨は2日間、降りしきると、3日目には止んだ。
だからといって、すぐに丘へ行くことはできなかった。地面が乾ききっておらず、ぬかるんでいたからだ。
いい加減屋敷に籠ってばかりで、うんざりしていたクルエーティラは雨が止むと、朝から外へ飛び出した。
街の子供たちと久々に合流し、遊びまわる。子供たち……特に男の子は家の手伝いや、外で遊べないことに鬱屈していたので、鬱憤を晴らすように駆けめぐる。
クルエーティラは忘れていた。なぜ最近男の子たちと遊ばなくなっていたか……。
途中まではよかった。以前のように一心不乱に遊んでいるだけだったから。ある勝負で負けた男の子は「女のクセに……」とつぶやいた。
別に本心で言っているわけではない。クルエーティラはどちらかと言えば、好かれているが、気恥ずかしさだったり、見栄だったり、思春期特有のものだ。
いつの頃からか、こういう言葉や態度が増えていった。
クルエーティラは何とも言えぬもやもやを抱え、気分が晴れないことが多くなった。
そんな時に読み始めたのがC=W=Hの手記だ。おかげですっかり忘れていたし、街の子供たちと遊ぶ機会も徐々に減っていたのだ。
この日も男の子たちの態度が変わり始めると、足早に屋敷へ戻った。
自室にこもると、いつものようにベッドへ乱暴に飛び乗り、枕に顔をうずめ、唸りながら足をばたつかせている。
しばらくして、今度は大の字に仰向けになると大きなため息を一つ。水を飲もうとサイドテーブルに目をやると、いつかの日のように、水差しと一緒に手記が置いてあった。
コップ1杯の水を飲み干した後、本を手に取る。
彼女が丘以外で本格的に読み始めようとしたのは初めてだ。それは本を見つけてから、2か月が経過した風の強い午後だった。
時折強い風が窓を叩きつける。
『空を眺めたり、時には大地に横たわり一夜を明かしたり、自然を感じるために毎日過ごした。もちろんレムスとの勉強も欠かさなかった。
5年……精霊を感じとれるまでかかった時間が5年。何度も言うようだけど、年数は曖昧だからその点を考慮しておいてほしい。やっと彼らの存在を感じれるようになったんだ。
精霊には司る属性があるのだけれど、主に火、水、土、風の4属性に、光と闇の2属性が加わって、全部で6属性存在する。あくまで大まかだから、細かく言えばもっと多い。
書庫で見たレムスの精霊術は、光の精霊が力を貸していたんだ。あの光景が忘れられなくて、真っ先に明かりを灯そうとした結果……これがとんでもない大失敗』
大樹の広間で、座っているクルスの前にレムスが立っている。
「今日から精霊術を行使していく」
「はい!」
「使いたい属性や術の希望があれば、言うがよい」
「書庫でいつも使っている光の玉がいいです!」
「ふむ……光の精霊術か……。少々扱いが難しいが、構わぬか……」
クルスは共に暮らす内に、レムスが精霊術を行使する姿を何度も見た。
どう言えば、精霊が力を貸してくれるのか? かつては精霊を感じることも、術を行使することも出来なかった彼が、精霊の存在を認識し、彼らと対話できることをその身で知った。術を使うための条件は整った。
逸る気持ちを抑えきれず、クルスは指を立て、唱えた。
「光の精霊よ、明かりを灯したまえ」
閃光。
クルスの指先から放たれた光は、千年樹を覆い尽くすほどのまばゆい光。
間近で直視すれば失明は免れぬ巨大で強烈な光は、里からも視認できるほどだった。
「眼を閉じよっ!!」
レムスはクルスの詠唱に気づき、咄嗟にクルスの目を手で庇う。それと同時に本人も瞬時に目をつぶる。レムスが手で覆うのが一瞬遅れ、強い光を一部浴びてしまう。
「うあぁっ」
「くっ、馬鹿者!」
霧のように徐々に光が消え、晴れていく。『水の精霊よ』レムスがそう唱えると、水弾が空中から現れ、クルスの両目を覆い冷やす。
先ほどのまばゆい光と違い、水はしっかり制御されているのがよくわかる。
レムスほどの実力者ならば、精霊に言葉をかける必要すらないのだが、この時ばかりは慎重を期して、しっかりと口にして唱える。
「うう、目が……」
クルスはあまりに強烈な光だったので、目を閉じていてもまるで太陽を見てるかのような感覚に襲われている。
「精霊と対話もせず術を行使すれば、加減がわからず暴発する。其方が並の魔力ならば、こうはならなかったろう。……良い教訓となったな。今日はこのまま冷やし、横になっておれ」
「はい、すみません……」
レムスは目の見えないクルスを抱え上げ、寝床へ連れていく。その細く、柔い腕はとても優しかった。
『これが僕が初めて使った精霊術にして、失敗例。2日ぐらい寝込んだかな?
はは……。こんなことまで書いて、誰かに見られると考えると……ちょっと恥ずかしいね。我ながら舞い上がってたんだろうなあ。
その後は注意深く気を付け、レムスにしっかり教わりながら学んでいったよ』
精霊術とは簡単に言ってしまえば彼らの力を借り受けることだ。
ならば威力は? 規模は? どのぐらいで、どの程度使い、どのようにして使うのか?
そこで大事になってくるのが、精霊との対話だ。
生物といっていいのかはわからないが、レムスが語ったように精霊には明確な意思が存在する。
クルスは精霊と対話を行う前に術を使ってしまったため、精霊たちがこぞって力を貸し、暴発したのだ。
常人では大した規模にならないが、魔力が人一倍多いクルスだからこそだった。
数年の歳月を経て、彼らの存在を感じられるようになったため、行使できてしまったのだ。
クルエーティラは人差し指を立て「光よ!」と唱えてみたが、何も起こらない。
「なーんてね」
いつもとは違い本を放り出すのではなく、静かにベッド脇に置き、大の字に寝転がる。
(精霊かぁ……あたしも話したりできるかなあ……。でもクルスだって、5年かかったって言ってたもんね。そんな簡単じゃないよね……)
「んんっ?」
何かを思いつき、がばっと突然起き上がる。
「もしかして先へ進めば、楽々覚えられる方法がのってるかも! しかもこれ昔の話だし、精霊術の本とかほかにもあるはずよね!」
訳知り顔で、両腕を組みながらしきりにうなずいている。
「今度お父様にねだってみよー。はっ! 本ならお母様でもいけるかも……。あたしってあったまいー!」
この日の午後はああでもない、こうでもないとねだる計画をひとりごちながら練り、夕食の時間以外は自室で過ごし、早々に床についた。
おかげで街での一件などすっかり忘れ、胸のもやもやも晴れ、健やかに、ぐっすりと寝た。
後日。本をねだられるという前代未聞の行動に両親は動転していまい、「医者を!」と危うく呼びだすところだった。
正気に戻ると今度は「新手のいたずらか?」と疑った。
それほどクルエーティラと本という存在はまったく縁遠いし、頭の中で結びつかなかったのだ。
何とか誤解は解けたものの、この件をあとで知った姉二人はまだ懐疑的だった。しかし、両親は大変喜んだ。これを機に、少しでも淑女らしくなってくれれば、と。
雨が止んだ数日後、午前中からクルエーティラは今や何度も足を運んだ丘へ行く。
目的はもちろん読書をすることだ。
馴染みの場所を陣取ると、空を見上げる。
雲一つ無い快晴。時折小鳥のさえずる声が聞こえる。大木に羽休めに来ているのだろう。
(良い天気だなあ……小さな先客もいるし……)
以前のクルエーティラならば、そんなことすら気に留めない……いや、気が付かなかったろう。
体重を大木に預け、しばしの間、ゆったりとした時間が流れる。
クルエーティラが満足したころに、本を開く。
『いつも無表情で、感情を感じさせないレムスが、血相を変えて僕の心配をして、怒ってくれたのは嬉しかったな。
そういえば、無表情で思い出したけど、レムスにもただ一つ苦手なものがあってね。
長い間、食べ物と言えば初めにくれた甘い果実だったんだけど、稀に無性にお肉を食べたくなることがあってね。
里の皆もお祭りや祝い事の時ぐらいで、普段から好んで食べないんだ。
僕はどちらかと言えば好きな方かな。
レムスは授業を除けば、日がな一日読書しているだけだし、僕は遊ぶといっても相手も居ないし、道具もない。
一人遊びも限界があるし、やることもないから、狩りの真似事を始めたんだ。ちょうどお肉も欲しかったしね。……もちろん失敗の連続。だからレムスの書庫に行って、狩りに関する書物を読み漁った。
それを実践しながら、試行錯誤を重ねて、鳥や鹿ぐらいなら獲れるようになった。
獲ってきた獲物を解体し、調理場で焼き始めてしばらくすると……レムスが飛んできた。
「一体何の臭いだ」と聞いてきた時の顔は、なかなか忘れられない。
だって、あのレムスが苦虫を噛み潰したような顔をしているんだもの。
狩りのことを伝えると「私に近づくな」だってさ。
レムスは獣臭がダメだった。
だからたまーに、嫌がるレムスを後目にお肉を食べていたよ。
口からも臭いを感じるらしくて、食べてからしばらくの間は避けられてたなぁ。
そうした可笑しくも楽しい生活をしてる内に、精霊術を初めて使った日からさらに7年。彼と出会ってから13年目。
精霊との対話、術の制御、読書、たまに狩りをして、レムスに勉強を教わりながら、僕はついに精霊術を体得した。
この頃、僕にもやりたいことが出来て――』
一応賢者……編?
あと残り2話です。