第3話:鬱蒼
森の中は木々が鬱蒼と生い茂り、空からの日差しが十分に届かず、昼間だというのに薄暗い。
救いなのは、そこが完全な未開の森ではない事だ。随分前に人が往来していたのか荒れてはいるが道があった。
ただ、そうは言っても、何十年も手付かずの森は元の姿を取り戻そうと木々は道を塞ぐかのように枝を伸ばし、道を埋めるかのようにたくさんの草が行く手を阻む。
「以前は人がいたのかもしれないね、この島」
森の状況を観察しながら歩く粼が言った。
「そうだね。つまり、今は人はいないって事か……」
粼の隣を歩くカンナは辺りを見回しながら答える。何事もなく歩いているように見えるカンナだが、その彼女特有のエクセルヒュームの能力により、野生動物の氣を探りながら互いが出会わないように慎重に感知を続けてくれている。
そうしてひとまず島の中心を目指して歩みを進める2人だが、30分近く歩いてもひたすらに森は続いていた。
「ずっと気になってたんだけど、粼くんさ、ネフィスじゃないよね」
「え?」
不意にカンナが投げかけた質問に、粼は思わず足を止めカンナの顔を見た。
「ごめん、何でもない。忘れて」
すぐに答えを返さなかった粼を見て、カンナは愚問だったと思ったのか、粼を置いてまた歩き出す。
「待ってよ、カンナ。何で俺がネフィスじゃないって分かったの?」
粼が逆に質問を投げかけると、カンナは再び立ち止まり振り返った。
「ネフィスとアーキタイプは体内にある『氣』の性質が違うんだよ」
カンナの答えに粼は思わず自分の胸の辺りを意味もなく触る。
「覗いたわけじゃないよ? 見ようと思わなくてもその人に近付くと勝手に分かっちゃうんだ。ほら、匂いみたいなものだよ。ごめんね、キモいよね」
冷たい表情でカンナは視線を落とす。
しかし、粼は首を横に振った。
「いや、凄い能力だよ! 俺は確かにアーキタイプだ。だからそんな素晴らしい能力はない。羨ましいとは思っても、気持ち悪いなんて思わないよ。キミのその能力のお陰で、野生動物を避けながら進めるし、マジで助かってるんだからさ」
さぞ嬉しそうな粼を見て、カンナは目を見開いて固まっていた。
「どうした? カンナ」
「私、アーキタイプの人とこうして話すの久しぶりで……普通に接してもらえる事に結構驚いてる」
カンナの水色の綺麗な瞳に寂しさが浮かんでいる。ゆらゆらと湖面のように揺れて、今にも溢れ出しそうだ。
粼はそんなカンナを見て、僅かに逡巡するとまた爽やかな笑顔を見せる。
「そっか。じゃあ俺から1つだけ言わせてくれ。過去にキミがどんな奴らに出会ったかは知らないけど、俺はそいつらとは違う」
粼はそれだけ言うと、1人また森の奥へと歩き出す。
カンナはただ茫然と立ち尽くし、歩き出した粼の背中を不思議そうに見つめている。
「早く行こーぜー、日が暮れる前にこの森抜けよー。熊もそうだけどオバケ出そうだよ、この森」
いつまでも歩き出さないカンナに、振り返った粼は優しく呼びかける。
するとカンナは小走りで粼のもとへ駆け出した。
「確かに違うね、粼くんは」
太い木の根が道に張り出した足場の悪い道を軽快に飛び越えて、カンナは粼の隣に追い付いた。
「ちょっと元気出た?」
「え?」
「ようやく笑ってくれた」
粼の指摘に、カンナは頬を染め思わず口元を押さえる。彼女の綺麗な黒髪と後頭部に流した髪を結う水色のリボンがフワッと揺れた。
「笑ってないよ」
「照れるなよー」
ニヤニヤしながら揶揄う粼をカンナは頬を膨らませて小突いた。
少しだけよろけた粼は、まだケラケラと楽しそうに笑っていた。
♢
森に入ってから3時間。正確な時間はスマートフォンで確認が出来るが、バッテリー残量は着実に減ってきている。
カンナの生き物の氣を感知する能力は、野生動物だけではなく人間の氣も感知出来る。しかし、未だに人の氣は感じられず、飲水すら手に入らない状況で、次第に2人の体力は奪われていく。
蔦の巻きついた大きな木を見付けた2人は、その根元に腰を下ろした。この絶望的な状況に辟易し、ダラりと大木の幹にもたれ掛かった。
「カンナ、氣の力で水は見つけられないかな。この森、予想以上に深いし何も無い」
「無理だよ。水は生き物じゃないから氣はないんだ」
「そっかぁ」
粼は頭上を見上げながら気の抜けた返事をする。
大木の太い枝が空を覆い、数え切れない程の緑の葉っぱが森を抜ける柔らかな風に音を奏でて揺れている。
「こんな状況じゃなきゃ、心地いいんだけどなぁー」
「ねぇ粼くん。さっきの話の続きなんだけどさ」
「さっきの話?」
「どうしてアーキタイプの粼くんが、ネフィスの延命治療施設行きのクルーザーに乗ってたの?」
「ああ、その話か」
粼は頭上の緑を見たまま1つ息を吐いた。
「俺の幼馴染のつかさって奴がネフィスでさ、1年前にフォーミュラの延命治療に当選して施設に行ったんだ」
「へー、そうなんだ」
「でも、半年で戻るはずだったのにアイツは帰らなかった」
「え? 何で?」
「分からない。だから俺はフォーミュラの東京本部に乗り込んでどうなってるのか聞いたんだ。そしたらさ、治療が長引いてるだけだから問題ないってさ。けど俺は、つかさに会うまでは信じられないって言ってやった」
「え……それでその幼馴染に会う為にクルーザーに乗ったの??」
「正解! あ、心配しなくてもちゃんと許可は貰ったよ? クルーザーに乗る事に関しては」
「ネフィスしか乗れないクルーザーに乗せてもらえたんだ。でも、粼くんの行動力なら納得」
「あーあ、あんな事故がなけりゃ今頃つかさに会えてたのになぁ」
「いいなぁ……私も……」
何かを言いかけたカンナだったが、何かに気付いた様子でそっと耳に手を添えた。
「どうした? カンナ」
「聞こえる。水の音。こっち!」
カンナはそう言うと一目散に水の音のする方へ走り出した。道から外れてしまうがカンナはそんな事はお構いなしの様だ。
「あー、ちょっと待って! 俺はもう走れないっつーの」
カンナの信じられない体力を目の当たりにしたが、粼はネフィスの底知れない体力と運動能力は幼い頃から嫌という程知っているので驚く事はなかったが、走り去るカンナの後ろ姿に、つかさの影が重なった。
♢
「見て! 小さい滝!」
カンナが指さした先に、確かに小さな滝があった。落差は2m程で水流はさほど強くない。滝壺は極めて浅く足首が浸かる程度だろう。
その水をカンナは両手を器にして汲むと、目視で水質を確認し、不純物がないと見るとすぐにその水で喉の乾きを癒した。
「うん、大丈夫! 冷たくて美味しいよ」
粼は遅れて滝までやって来ると、カンナと同じく両手で水を掬い一息に飲み干した。
「くーー!! 生き返るねーー!!」
冷たい水が、粼の喉を潤し、身体中の細胞に水分を浸透させる。
2人は満足いくまで無我夢中で水を飲んだ。
一息ついて粼がそろそろ出発しようと言って立ち上がると、カンナは粼の腕を掴み無理矢理座らせた。
「待って。身体が海水でベタベタするから洗わせて。10分もあれば終わるから」
「ああ、そうだね。もう少し休んでるから好きにしていいよ。俺ちょっと離れてるよ」
そう言ってまた立ち上がろうとした粼をカンナは再び腕を引き座らせる。
「ここに座って向こう向いてて」
「え、滝の水で身体洗うんだよね? 俺こんな近くにいない方が良くない?」
「私の視界の範囲外に居られると、覗かれても気付けないからさ。貴方の背中を見てた方が安心出来るでしょ」
「なるほどね。俺まだ信用されてないんだな。悲しい」
「まあ、私はそういうの気にしないから別に見られたって平気なんだけど」
「その発言は……俺以外の男の前ではしない方がいいな」
「やっぱり、粼くんは違うね」
カンナは紳士な対応の粼に少しだけ笑って見せた。普段クールな表情だからなのか、カンナの作り笑いはぎこちない。
粼は言われた通り、素直にカンナと滝に背を向け胡座をかいて座った。
代わり映えのしない森の木々しか視界には入らない。そんな中で、背後ではカンナが服を脱ぐ気配を感じとる事が出来る。
カンナの選択は正解だったかもしれない。ここにこうしているように指示されなければ、口だけは紳士に対応出来た粼だが、その一糸まとわぬ彼女の姿を覗き見ようと下心が働いたかもしれない。
平常心を保つ為、粼は無心で大自然の緑を見るように努めた。
「冷たっ!」
その声と共に、滝の水流が滝壺に落ちる音から人の身体を打つ音に変わった。
じゃぶじゃぶとカンナが全身に水を被り、身体を撫でる音が聞こえる。
その音のせいで、粼はカンナの裸を想像してしまう。きっと綺麗な身体に透き通る水が滴り、水滴に日の光が反射してキラキラと輝いているに違いない。
そこまで想像してしまった粼だったが、必死に無心を維持しようと、視界に映る木の枝に止まった小鳥を見つめた。
あまり馴染みのない鳥だ。白くて雀ほどの大きさの鳥。名前はもちろん分からない。
そんな風に無理矢理バードウォッチングをしていたが、いつの間にかカンナの身体を打つ滝の音はなくなっていた。
ただ滝壺に水が落ちる音しか聞こえない。
「終わった?」
振り向かずに粼が声を掛けるが、何故かカンナから返事がない。返事はないがカンナの気配はある。
「どうしたの? カンナ」
粼の呼び掛けに何故か答えないカンナ。その裸足で草を踏む足音がゆっくりと背中に近付いて来る。
そして、粼のすぐ後ろで止まった。
あまりにも不審なカンナの挙動に、いても立ってもいられず、粼はとうとう振り向いてしまった。
「おわっ!?」
目の前には想像していた裸のカンナがちゃんといた。想像を遥かに超えるセンシティブな光景。視界の中央にはヘソ。その周りには鍛えられた腹直筋が薄らと浮かび上がっており、滴る水滴が股の方へと流れて、地面に青々と生い茂る草の中に消えていく。
数秒、目が釘付けにされたが、カンナは怒るどころか無反応なので、粼はそのまま首を上に上げる。視線がカンナの顔に到達する前に、形の良いバストを必然的に経由し、ようやくカンナの表情が窺えた。
水色のリボンを解き、髪を下ろしたその姿も、普段とはまた違った魅力がある。だが、それよりも、カンナが何かの気配を感じ取って警戒しているような強ばった表情をしている事を見過ごす事は出来ない。
「何かいるの? 熊?」
「違う」
小声で問い掛ける粼に対し、視線だけで辺りを見回しながらカンナも小声で答える。
「じゃあ何?」
「人。それもかなり大きな氣を持ってる。こんな人、今まで見た事ない。多分エクセルヒュームだ」
「マジ? 距離は? その人何してるの?」
粼がさらに問うと、カンナは粼に視線を向けた。
「ここから20mくらい先の私の右手側の木の上。多分私達の様子を見てる」
粼はその者がいる場所は見ずに、カンナとだけ視線を合わせる。
「めちゃくちゃ正確に分かるんだね。下手に刺激しない方がいいと思うから、とりあえず気付かないふりしてようか。この島の原住民かもしれない。無人島じゃなかったんだね」
「そうだね。気付いてないフリして自然に振舞おう。粼くん、悪いけど、1回叩くね」
「何で?」
粼の疑問を解消しないまま、カンナはいきなり粼の頭に威力のない見せかけだけのゲンコツを食らわした。
「ちょっと! こっち見ないでって言ったでしょ! 何堂々と見てるの!?」
裸のまま大声でわざとらしく怒り出すカンナの意図を察した粼も咄嗟に演技に付き合う。
「いってーな! 男なんだから見ちゃうよ! ごめんて!」
するとカンナは急に明後日の方向に首を向けた。
「今度はどうした?」
「動いた。追いかけよう! 街があるかもしれない」
カンナはそう言って、まだ身体も濡れたままだったが急いで服を着る。
「走るのか、まあ仕方ないか」
やれやれと粼は立ち上がり、足を伸ばしたりして準備運動を始める。
「こっち! 急いで! 結構早い! 500m以上離されたら見失っちゃうから!」
「あー、そっか! 索敵範囲500mだったね!」
服を着終わったカンナは粼を先導しながら、得体の知れない者の氣を追い掛け、また森の悪路を走り始めた。
いつの間にか日差しはオレンジ色に燃えていた。