第2話:邂逅
「すみません! 私の声が聞こえますか?」
聞き覚えのない女性の声。
だが、とても心地よい好きな感じの声色だ。
波の音も聞こえる。
そして何だか温かい。
「あぁ……大丈夫……聞こえてます……」
無意識にそう呟いた粼 馮景は、突如として意識が覚醒した。
目の前には黒髪の女性が粼の顔を心配そうに覗き込んでいる。その瞳は澄んだ水色で美しい。
両手と後頭部には熱を持った砂の感触。どうやら粼は砂浜に倒れているようだ。
「良かった、息してなかったから焦りました」
黒髪の女性は大きく息を吐き、無表情ではあるがホッとした様子で胸に手を当てた。女性の顔が粼の顔の上からズレると、隠れていた日差しが直接粼の顔に突き刺さり、あまりの眩しさに思わず目を細める。
「えっと……ここは……」
手で日差しを遮りながら上体を起こした粼だったが、急に喉に違和感を覚えゴホゴホと咳込んだ。
すると、目の前の黒髪の女性が隣に回り込み優しく粼の背中を摩る。
「あー、海水飲んだから」
「え、海水? ん?」
まだ何が起こっているのか理解が追い付かない粼の様子を見て、黒髪の女性が隣に腰を下ろし膝を抱えた。何故か髪も濡れていて、インナーのグレーのTシャツも白いホットパンツまでびしょ濡れだ。彼女の足下には同じく濡れたデニムのジャケットと、青いスニーカーと白い靴下が脱ぎ捨てられている。
そこまで確認してようやく自分の服も濡れている事に気付いた。ただ、浜辺を焼く日の光のお陰でだいぶ乾いてきている。
「ネフィスの延命治療施設行きのクルーザーが途中で爆発事故を起こしたんです。貴方はそこから何とか脱出したみたいですが、救命用の浮き輪にしがみついたまま海に浮いて気を失ってました。覚えていないですか?」
女性の話を聞き、徐々に粼の記憶が蘇る。
「あー! そうだ、クルーザーが爆発して、俺は浮き輪を持って海に脱出したんだ……で、キミが助けてくれた?」
「はい」
記憶が繋がってきた事で、粼は状況を整理しながら、隣に座る全身びしょ濡れの黒髪の女性をまじまじと見る。見覚えのある黒髪の若い女性。髪型はハーフアップで、後頭部に流した髪を水色のリボンで結っている。
「そっか、ありがとう。命の恩人だよ……あれ? キミ、クルーザーに乗ってた?」
「はい。今回の施設行きは私1人って聞いてましたが、貴方も一緒だったんですね。災難でしたね……」
抱えた膝に額を付けて黒髪の女性は落ち込んだ感じで答えた。
「俺は粼 馮景。助けてくれてありがとう。キミは?」
「澄川カンナです」
「澄川さんか。まず状況を整理したいんだけど、ここはどこ?」
「分かりません。景色から推測するに、どこかの島のようです」
「そっか……助けは呼んだ?」
「スマホ……使えませんでした」
「じゃあ俺が連絡してみるよ。俺のスマホは防水だから多分使える。119番でいいのかな、こういう場合」
無表情で淡々と答えるだけのカンナとは対照的に、粼はすぐに状況を飲み込み最善の行動を模索していく。水難事故で得体の知れない島に漂着した人物とは思えない肝の据わり方だ。或いは単なる楽天家なのかもしれない。
粼はポケットにスマホが入っているのを確認して取り出し画面をスクロールして壊れていない事を確認したが、すぐにその行動が無意味だと気付いた。
「圏外……」
「だから言ったじゃないですか、使えないって」
冷めた声色でカンナは呟く。
先程からカンナは助けを呼びに行こうとする素振りもみせず、途方に暮れているように見える。
「なら、近くの街に助けを呼びに……」
言いながら背後を顧みた粼は、目に飛び込んできた光景に言葉を失う。
「……森じゃん。めっちゃ森じゃん」
「はい。めっちゃ森です。だから助けを呼ぶにしても、その森を抜けないといけないみたいなんですよね」
カンナが途方に暮れている理由が分かり、粼も深呼吸して腕を組み、眼前に広がる大海原の水平線を見つめた。
海には大陸や島のようなものは確認出来ない。左右を見てもビーチの端は森。カンナの言う通り助けを呼びに行くには森を抜けなければならない。
粼は砂浜に置いたスマホの圏外マークを見つめる。
「圏外って事は、もしかして」
「この島は無人島の可能性がありますね」
相変わらず冷めた様子でカンナは答える。
「ここで助けを待つつもり? 澄川さん」
「森に入るんですか?」
顔を上げて粼を見るカンナ。眉間に皺を寄せて粼の選択を訝しむような視線を送る。
「ここで待ってても助けが来るか分からないじゃん。もしこの島に人がいるなら助けを呼んでもらえるかもしれないし。一緒に行こうよ」
「ここで待ってれば助けが来るかもしれないけど、森に入れば迷って抜け出せなくなるかもしれないし、人がいる保障はないですよ」
カンナは絶望しながらも、冷静に状況を分析していた。しかし、粼の意見もカンナの意見もどちらも一長一短はあれど、どちらかを選択する必要がある。
「分かった。じゃあ俺は森に入る。澄川さんはここで助けが来るのを待ってなよ。もし助けが来たら俺の事も伝えといて。もしこっちで人を見つけたら知らせるからさ」
粼は立ち上がりニコッと微笑むと、カンナに背を向け、砂浜の砂をザクザクと踏み鳴らしながら鬱蒼と生い茂る森へと向かって歩き出した。
「あー、ちょっと、森は危険ですよ!」
しかしカンナは慌てて粼を呼び止める。
「大丈夫だよ。迷わないようにテキトーに目印付けながら進むから」
足を止めた粼は笑顔を崩さず得意げに親指を立てて言った。
「そうじゃなくて、その森には大型の動物がいるみたいなんですよ。熊とかそのくらいのサイズ感の」
すると、粼の笑顔が消えた。
「何でそんな事分かるの? 俺が気を失ってる間に森に入ったとか?」
「あ、いえ、違います。私は貴方が目を覚ますまでずっと浜辺にいました」
「ん? どういう事?」
カンナは粼の質問への回答に少し迷ったのか、僅かに逡巡する素振りを見せるとゆっくりと立ち上がり粼のもとへと歩いて来た。
「私、『エクセルヒューム』なんです」
「え! エクセルヒュームって、ネフィスの遺伝子が突然変異する事で特殊能力を身に付けた超人的な人の事だよね?」
「超人って程では……あ、それで、私が身に付けた特殊能力の1つが生き物の生命エネルギーである『氣』という力を感じとる事なんです」
「へー! そうだったんだ。だから森に入らなくても野生動物の存在が分かるんだね」
「はい」
「え? じゃあさ、澄川さんのその力でこの島に人がいるかどうかって分からないの?」
「この場所からでは無理です。私の氣の感知範囲は広くなくて、せいぜい半径500m程度。この場所から500m以内に人はいませんでした」
「なるほど、もう調べたってわけか。しかし、便利な力だね、それ」
粼はその力を誇るわけでもなく、むしろあまり人に話したくないような、終始控え目なカンナに興味を抱き始めた。先程は混乱していた事もあり分からなかったが、よく見ると顔もスタイルも中々良い。
ただし、その美貌はネフィスとして生まれながらに設計された存在故の産物だ。ネフィスという人種は人間の卵細胞を遺伝子レベルで操作し、ある程度親の好みの容姿や性格、知能に運動能力と設計が出来る。それが倫理的にどうなのか、という議題は永遠に拭えないが、少なくとも日本は積極的にネフィスプログラムを導入し、ネフィスの出生を促進させる事で深刻な少子化を回避しようとした。
その結果、確かに少子化には歯止めが掛かったが、新たな問題が発生した。
その1つが旧人類からの新人類への嫉妬による迫害である。
生まれながらに遺伝子操作を受け、優れた容姿と能力を兼ね備え、さらには病魔をも克服した完璧な存在であるネフィスに、アーキタイプの人々が羨むのは当然の心理だ。日本ではネフィスという事がバレると虐めや差別の対象となりかねない。故にネフィスは大抵自身がネフィスである事は隠したがるし、アーキタイプとは社会生活を共に営めないという感情を抱く者も少なくない。
つまり、アーキタイプとネフィスは犬猿の仲とも言えるのだ。
しかしながら、アーキタイプの粼にとって、相手がネフィスだろうがそんな事は全く問題とはならない。
幼い頃より、ネフィスの幼馴染である斉宮つかさと共に過ごし、友情を深めてきた経験は、ネフィスが自分と同じ人間である事に何ら違いない事を知っているからだ。
「この能力、気持ち悪いと思わないんですか?」
突然、カンナが呟いた言葉に粼の笑顔は硬直した。
何を尋ねられたのか、一瞬理解出来なかった。
カンナの美しい長い睫毛と水色の瞳がそこはかとなく寂しさを醸し出している。
「あ、ごめんなさい。何でもないです。あの、森へ入るなら私も一緒に行きますよ、粼さん」
何か返事を返そうとした粼を待たずに、カンナは話題を変えた。相変わらず表情は変わらない。
「どうしたの? 急に。森には入りたくなさそうだったのに」
粼の質問に、カンナは目を逸らし、サイドの髪を指先で弄りながら口を開く。
「貴方が行くなら行きます。1人じゃ怖いじゃないですか、熊とか……。だから1人で森に入るのが気が進まなかっただけです。実際、
ここで助けを待つより島を探索した方が人がいる可能性高そうですし」
「へー。そう」
「何でニヤついてるんですか? 気持ち悪いですよ」
少し眉をひそめたカンナだったが、すぐに浜辺に脱ぎ捨てたデニムジャケットを羽織り、足の裏の砂を払って靴を履いた。
「いや、ごめん、何でもない。澄川さん、俺についてくるなら敬語はやめてくれない? よそよそしいの好きじゃなくてさー。同い年くらいでしょ? 俺たち」
「私普段から敬語なので、それはちょっと……」
「こんな無人島で上下関係なんてないよ! さ、行こう、カンナ!」
「……うん」
常に前向きで自信に満ちた粼に流されるように、カンナはその後に続いて深い森へと足を踏み入れた。