第13話:安息
部屋に戻った粼 馮景は、廃墟の学生寮の一室でベッドに背中から倒れ込んだ。月希が風呂を準備してくれるらしいので、粼は寝ずに待つ事にした。部屋に置いてあるランタンに灯りを点ける気力もない。
「あー疲れたー。昨日から色々あり過ぎた」
もう1つの空のベッドが寂しさを誘う部屋で、粼は呟いた。その呟きに返事をしてくれる者はここにはいない。とても静かな夜だ。
昨日からトイレ以外はずっと一緒だったカンナは、向かいの月希の部屋で寝るらしく、今夜は完全に離れ離れになる。あまり喋るタイプではなかったが、カンナの雰囲気や距離感は粼にはちょうど良かった。同い歳だからなのか、気を遣わない友達のような感覚だ。ただ、森の中の滝での水浴びの光景を思い出すと、いまだにカンナの裸体が目の前に蘇ってしまう。
「まずい……」
粼はカンナに欲情してしまうことに罪悪感を感じ、寝返りを打つと今日の出来事を振り返った。だが、今日の出来事と言えば、響音の吐息が耳にかかったことや、月希の揺れる胸、まりかの柔らかな胸の感触ばかりがフラッシュバックしてきてしまう。
20代前半の男である粼の反応は、健全なものではあるのだが、こんな命の危険のあるサバイバル生活の中で欲情している場合ではない、と粼は無理やり眠る為目を閉じた。
「粼くん、お風呂できたけど入る?」
部屋の扉を叩くノックの音と共に、カンナの声が聞こえてきたので、粼はベッドから飛び起きた。淫らな妄想のせいで、危うく寝るとこだった。
「そうだった! 入る。2人はもう入ったの?」
「うん、私たちはもう入っちゃったから入るならどーぞって、榊樹さんが」
「分かった。今行く」
粼はベッドから立ち上がると、すぐに部屋を出た。
「行こ」
迎えに来てくれたカンナは青いオシャレなバスローブを着て、下ろした髪がまだ濡れており、身体からは湯気が出ている。
「この島、バスローブなんてあるの? しかもそんなオシャレなやつ」
「うん、なんか、浜辺で見付けた箱に入ってたんだって。榊樹さん達がこの島に来た時に沈没したクルーザーから流れてきたのかも、って言ってた」
「なるほどな。案外使える物が揃ってたんだ、フォーミュラのクルーザー」
「私たちがこの島ですぐに野垂れ死なないように、敢えて使えそうな物とかをたくさん積んでたんじゃない? もしかしたら、私たちが乗って来たクルーザーの荷物も、あの浜辺に流れ着いてるかも」
「そうだね。今度探しに行ってみようか」
「うん、斑鳩さんに相談してからね」
カンナはそう言ってニコッと微笑んだ。
色っぽい姿のカンナに息を呑みながら、粼は平静を装いつつ、2人は寮の階段を下りた。
♢
カンナに案内されてやって来たのは、寮の裏手のちょっとしたスペースだった。ボロボロの石畳の横に広がる枯れて茶色になった芝生。長年放置された為、雑草が混じってしまっているが、ある程度手入れされているので荒れ放題というわけではない。その芝生の上に、湯気を立たせた青いドラム缶風呂が1つ、存在感を放ちながら鎮座していた。そのドラム缶の足もとには、コンクリートブロックで組まれた竈があり、薄黄色のバスローブを着た月希が薪を焚べている。
「へぇ〜、風呂ってドラム缶風呂なんだ! 俺初めて入るよ」
「私もここに来るまでは入った事ありませんでした。是非入ってみてください! 星空の下のドラム缶風呂は最高に気持ちいいですよ〜! ……本当は電気があれば寮の広い浴場を使えるんですけどね……」
普段の明るいブロンドの髪のサイドに作られたお団子ヘアーを解き、カンナ同様に髪を下ろした月希はやはり普段と違い艶がある。薪を焚べる為にしゃがんだ太ももに挟まれた大きな胸がひしゃげ、粼の目を釘付けにする。
「2人は一緒に入ったの?」
「別々だよ。私は一緒に入っても良かったけど、榊樹さんの胸が大き過ぎて私が入るスペースなかったの」
「そ、そんなに大きくないですよ、澄川さん!
粼さんの前で変な事言わないでくださいよー」
恥ずかしそうに頬を染めて、月希はカンナに抗議する。
「ごめんごめん、変なこと聞いて。じゃあ俺は入るけど……」
「あ、タオルとバスローブは粼さんの分もありますよ! 服は洗濯して良ければ、そこのカゴに入れてください!」
月希の指の先を見ると、ドラム缶風呂の脇に洗濯物カゴが置いてあった。
「ありがとう……でも、洗濯は自分でやるよ、男のパンツとか触りたくないっしょ?」
一笑に付して粼が言うと、月希は首を横に振った。
「そんな事ないですよ。私はそういうの気にしませんから。まあ、粼さんが嫌なら無理にとは言いませんが……」
「榊樹さん、粼くんのは私が洗濯しますよ。榊樹さんみたいな可愛い女の子に洗濯させるのは申し訳ないし」
「いやいや、カンナに洗濯させるのも俺としては申し訳ないから、洗濯は自分でやるよ。ありがとう。で、2人はずっとここにいるの? 俺、服脱ぎたいんだけど」
服の襟元を引っ張りながら質問する粼に、月希はキョトンとした表情で小首を傾げた。
「え、いますよ。ここでのルールはドラム缶風呂に入る時は安全性を考慮して必ず2人以上で交互に入浴する事! 火加減も見ないとぬるくなっちゃいますし。それに、澄川さんに火の調整の仕方とか教えておけば、いつでも好きな時に入れますからね」
その話からすると、そもそもカンナは月希と一緒に入浴は出来なかったという事だ。
ドラム缶風呂利用時のルールまでしっかりと制定されているという事は、パイドパイパーの社会的基盤はだいぶしっかりしているようだ。
「あー、なるほどね。じゃあ、カンナもここにいるってことか。なら、服脱ぐ時は2人とも向こう向いててくれよ」
「もちろん! 見ないから安心してください!」
月希は立ち上がって敬礼すると、回れ右して粼に背中を向けた。
カンナも同様に粼に背を向けた。
2人が背中を向けたのを確認すると、粼はようやく上着を脱ぎ始めた。
「脱いだ服は一旦そこのカゴに入れていいですよ」
言われた通り、粼が近付いて中を確認すると、すでに脱ぎ捨てられたカンナと月希の服や下着が無造作に入れられていた。
「……一緒に入れていいの?」
「問題ありません! 洗濯をご自分でするなら、帰りに持って帰ってもらえれば! あ、あと、ちゃんとお風呂に浮いてる簀子を踏んでくださいね。ドラム缶の底は熱いから火傷しちゃうので〜」
背を向けたままの月希がソワソワとした様子で言った。
「了解」
粼は脱いだ上着をそのカゴに入れると、今度は靴と靴下を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、そしてパンツを脱ぐと、とうとう大自然の廃墟の中で素っ裸になった。暗闇が多少目隠しになりはするが、ネフィスの美女2人がすぐそばにいる状況で、まさか全裸になるシチュエーションが来るとは夢にも思わなかった。
粼は裸足で芝を踏み、ドラム缶の後ろに回り込むと、コンクリートブロックが階段のように積まれていたので、それを踏み台にして、ドラム缶の縁に手を掛けた──だが──
「え!!?? 裸の男!!??」
「何だ!? 女の子?? うわっ!!??」
突然、カンナでも月希でもない女の子の声が聞こえたので、驚いた粼は足を滑らせブロックの階段から転げ落ち、裸のまま尻もちをついた。
「痛ってぇ……け、ケツが……」
「粼くん!? 大丈夫!?」
真っ先に駆け寄って来たのはカンナだ。裸の男にもお構いなしに駆け寄り手を差し出し起こしてくれた。それはありがたい事だが、カンナの視線はしっかりと粼の下半身を捉えている。にもかかわらず、その表情は動かない。
「大丈夫、ありがとうカンナ。でも、平然と見るなよ」
粼が苦言を呈すると、カンナはクールな表情のまま言う。
「私は見られるのも、見るのも平気だから」
カンナはそう言ったが、クールな顔は頬が赤く、視線は粼のモノから離れない。そんなカンナを粼は鼻で笑った。
「平気とか言いつつ、興味津々みたいだけど?」
「興味がないとは言ってないよ。ネフィスの女の子なら普通の反応。粼くんが私の身体を見てしまうのと同じ」
「平然と正論を並べやがって……」
カンナの堂々とした態度と返しに、粼はぐうの音も出ない。あまりにも視線が刺さるので、粼はカンナに背を向けた。
「ごめんなさい、粼さん、驚かせちゃって。お怪我は?」
心配してくれる月希。ドラム缶が壁になって月希の方からは見えないはずだ。
「大丈夫だよ。それより、その子は?」
月希の隣には黄色い肩までのボブヘアーの見知らぬ小さな少女がこちらを見て立っていた。
怯えたように月希のバスローブの袖をぎゅっと掴んでいる。もう片方の手には弓が握られており、背中には矢の束が入った矢筒が背負われていた。
「この子は私のペアの浅黄ミモザちゃん。普段は別の居住スペースに居るんですけど……。魅咲ちゃんと叶羽ちゃんもお当番だっけ? 今日」
「うん、だから榊樹さんのところに泊まろうと思って来たんだけど……」
「そっか。大丈夫? ……その、あの男の人の……見えてない? ミモザちゃん」
「うん……暗くて見えなかった……」
月希の問に残念そうな少女ミモザ。粼がドラム缶風呂に入る瞬間を待っているのか、ずっと裸の粼を見つめている。ネフィスの性欲はアーキタイプの倍以上という研究結果があるので驚く事はないが、幼気な少女にわざわざ猥褻なモノを見せるのはまずい。
「粼さん、ごめんなさい。気にせず入ってください」
月希はそう言ってミモザを前から抱き締めて、その大きな胸に顔を埋めさせて視界を塞いだ。粼に早く入れと、視線で急かしてくる。
「ねぇ、榊樹さん! ちょっと……何も見えないよ〜」
「ミモザちゃんにはまだ9年早いからねー」
月希は優しい声でミモザを諭す。
「粼くん、早くお風呂の中に入ってよ、あの子にも見られちゃうよ」
カンナにも急かされたので、月希がこちらを見ているのが気になるが、粼は再びブロックの階段を上り、湯に浮いていた簀子を踏んでドラム缶風呂へと入った。
「おおー! いい湯だー!」
ようやく湯に浸かれた粼は幸せな声を上げる。それと同時にミモザは月希から解放された。
「ああ〜もう! 榊樹さんだって見てたくせに! むっつりスケベ〜」
「見てないよ!! 何言ってるのよ!! 仮に見たとしても、私は大人だからいいの!」
顔を真っ赤にして月希はミモザの頭をチョップでパスンと叩いた。ミモザは不服そうに頬を膨らませる。
月希は歳下のミモザに揶揄われて恥ずかしがりながらドラム缶の下の竈に薪を焚べる。カンナはその様子をしゃがんで熱心に見学し始めた。
「ミモザちゃんはご飯食べてきた?」
「食べてきたよ。お風呂とベッドだけ貸してもらえれば大丈夫!」
「あー、お風呂はこのお兄さんの後に入ればいいけど、私の部屋のベッドは今日空いてないんだよね……」
「え? 何で? 響音さんもお当番だからベッド空いてるでしょ?」
「今日から新しく澄川さんと粼さんがこの寮で暮らすんだけどね……」
月希はミモザに状況を説明すると、響音のベッドを使う予定だったカンナが口を挟む。
「なら私が粼くんの部屋で寝るから、浅黄さんは榊樹さんの部屋で寝てください」
「え? いいの? カンナ」
「問題ないよ。別に私はどこでも。粼くんは嫌?」
「全然問題ない!」
粼は風呂の中から笑顔で親指を立てる。
カンナの提案と粼の快諾を聞いた月希は、少し迷いながらもその提案を承諾する。
「澄川さんがいいならそれでお願いできますか? ミモザちゃんと粼さんを一緒にするのはちょっとアレだし……それに、私がミモザちゃんと一緒に寝てあげるのが一番妥当かなと思いますので」
確かに10歳にも満たない少女と見ず知らずの男が一緒の部屋で寝るのは、紳士な粼といえど、避けるべき状況だ。ミモザは月希とは親しいのだろうから、月希とミモザが同室になれば何の問題もない。粼自身、カンナと同室になる事には抵抗はないのだから。
「俺もそれがいいと思う」
「じゃあ、すみませんがお2人とも、それでよろしくお願いします」
「なんか、私のせいですみません」
ミモザは礼儀正しく、カンナと風呂の中の粼に頭を下げた。礼儀正しい月希の指導の賜物だろうか。
「いいよいいよ、後から来たのは俺たちの方だしね。それにしても、この風呂気持ちいいね」
「そうでしょ〜、私も初めて入った時は感動しました〜」
ミモザは初対面の粼に対しても臆する事なく応対する。月希に似てかなり社交的なようだ。
「ミモザちゃんは弓を使うんだね。今度俺にも教えてよ」
「私も教わる身だから、弓を教わりたいなら魅咲と叶羽を紹介しますよ。めっちゃ弓上手くて可愛いですよー」
「へー、それは楽しみだな」
新たな仲間との触れ合い。
月希と出会って以降、水音や光希そして、まりかなどの癖の強い女の子としか出会っていなかったが、ようやく穏やかな女の子との出会いに粼は内心ホッとしていた。
過酷なサバイバル生活を覚悟していたが、本当に過酷だったのは今のところ、島に来た初日だけだ。パイドパイパーに来て心強い仲間たちに出会い、まともな生活を送れている。
粼はドラム缶風呂から、3人の女の子が楽しそうに薪を焚べたり、竹筒で火に息を吹きかけたりする光景を眺めながら、ほんのひと時の幸せを感じていた。
だが、粼は実感する事になる。この安寧は本当に刹那の時間に過ぎなかったという事を。