第10話:夕焼
すっかり陽も傾いた頃、ようやく粼とカンナの暮らす部屋が片付いた。もう一部屋空けるつもりだったが、あまりに物が多く、汚れも酷い上、床が腐っているなど致命的な問題があったので、結局この学生寮のアパートで空けられた部屋は一部屋だけとなった。
滲みが出来て見栄えが悪い床や壁、そして天井。窓はベランダ側の大きなものだけで、劣化しヒビが入っているのをガムテープで応急処置している。家具は色褪せたベッドと机が2つずつ。どうやら2人部屋のようだ。ベッドの上には月希が運んで来てくれた洗濯された綺麗な布団が置かれている。
廃墟の中の部屋なのでこれだけ整っていればいい方だろう。見栄えを気にしなければ機能性も衛生面も問題はない。
「ごめんな、2人とも。他の居住スペース探してもいいけど、あたしこの後見張り当番だから仮眠させてくれ。明日以降探すよ」
響音は部屋の片付けと掃除にかなり疲弊した様子で額の汗を拭いながら言った。
「いえ、広めの部屋を開けてもらえて助かりました。ありがとうございました。ところで、見張り当番とは?」
粼の疑問には疲れているはずなのに、そんな感じを見せない月希が口を開く。
「ほら、夜はノクタルスが動き出すので、留守番組は3日交代で東西南北の入口を見張るんですよ。そのうちお2人にも当番のシフトに入ってもらいますよ」
“ノクタルス” という言葉を聞いて、粼とカンナに恐怖心が再燃した。
不安そうな顔をしているカンナの代わりに、粼が月希に質問を投げ掛ける。
「そのノクタルスだけど、パイドパイパーの砦までやって来るの?」
「いえ、来た事は一度もありません。探索班のメンバーが探索中に目撃するくらいで、ここは今のところ安全ですよ!」
「今のところは……?」
「はい、ノクタルスの生態は分かっていませんし、そのうちここにも現れるようになるかもしれません」
カンナはゴクリと唾を飲んだ。
「それは怖いですね。そうなる前にこの島から脱出しなきゃ」
「そうですね、澄川さん! 皆で力を合わせて頑張りましょう!」
月希が元気良く握り拳を頭上に掲げると、その大きな胸がブルンと揺れた。
「さーて、それじゃあ、月希。2人にカフェテリアの使い方教えがてらパイドパイパーのルールとか諸々教えといてよ。あたしは……寝る」
大きなあくびと伸びをしながら響音は部屋を出たが、何かを思い出したのか、また部屋を覗くように顔を出した。
「あ、カンナ。とりあえず今夜はあたしの部屋のベッド使いな。月希と相部屋だけど、そこで粼と寝るよりはいいでしょ?」
「あ、色々とありがとうございます」
カンナが軽く頭を下げると、響音はまたあくびをしながら手を振って部屋を後にした。
「よし、じゃあお腹も空いたしカフェテリアへ行きましょうか!」
「行こう行こう! 俺腹ぺこだよ〜。アップルパイとかある?」
「あー……りません! そんな、美味しそうなもの! やめてくださいよー粼さん! 食べたくなっちゃうじゃないですかぁ!」
「贅沢な事を言う粼くんはほっといて、早く行きましょう、榊樹さん。ちなみに、私は冷やし中華が食べたいです」
「ないですよ!! 仮にあったとしてもまだ3月ですよ!?」
カンナの本気か冗談か分からない注文に、月希のキレのあるツッコミが炸裂した。きっと普段からテキトーな響音にツッコミを入れているのだろう。
そんな2人を見て粼はケラケラと笑うと、月希も釣られて笑い出す。その楽しげな雰囲気に、カンナのポーカーフェイスにも笑みが浮かんでいた。
♢
外は夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の日の光に照らし出される廃墟は昼間見るものとはまた違った美しさを演出している。
粼とカンナの間をニコニコしながら歩く月希はパイドパイパーのルールについてあれこれ説明してくれた。
真面目に説明してくれているのだが、歩く度に月希の大きな胸がゆさゆさ揺れているので、粼の視線はその動きに目を奪われる。幸い、月希の向こう側を歩くカンナも揺れる大きな胸が気になるのか、チラチラと月希の胸を見ているので、粼の視線はカンナには気付かれていない。
粼は、昨日からずっと持ち歩いているかつてスコップだった長い棒を片手にボロボロの石畳を進んだ。カンナもそうだが、他にこれといった荷物はない。持ち物といえば、月希が腰に白い鞘の刀を佩いているだけだ。月希はこの刀を常に持ち歩いている。日本ではもちろん、日本刀などの刃物は厳しく規制されているので、装備して持ち歩いている人を見られるのはかなりレアな光景だ。
「榊樹さん、この砦の中って、夜になると真っ暗なの?」
「電気はないですからねー。基本的には夜は皆ランタンを持って出歩きます。まあ、月が出てればランタンもいらないくらい明るいですけどねー」
夕焼けの空を見上げながら月希は言った。その白く美しい彼女の肌は、今は夕焼けに当てられてオレンジ色に照らされているが、夜になれば、今度は月明かりに照らされて、また別の美しさになるのだろう。
月希の視線に釣られて、粼とカンナも空を見上げると、そこには既に薄らと月や星が見え始めていた。
「今夜は明るいかな?」
「明るいと思います!」
月希は粼のどうでもいい質問にも満面の笑みで答えてくれる。そのサービス精神はまるでアイドルのようだ。
「粼さんは普段何をしている人なんですか?」
不意に月希は話題を変えてきた。キラキラの水色の瞳がとても美しい。
「俺はしがない大学生だよ。もう単位も取り終えて4月から院に行くんだけど、大学は春休みに入ったからこうして東京から遥々つかさを探しに来たってわけ。だから1ヶ月くらいなら時間はあるんだよ」
すると空を見上げながら歩いていたカンナが粼を見た。
「粼くんも大学4年生? 私と同じだ。同世代だと思ってはいたけど、同い歳だったとは……留年とか浪人してなければ」
「現役だよ。そっか、カンナも同じか〜。まあ、お互い色々あると思うけど頑張ろうぜ!」
「いいですねぇ〜お2人とも共通点があるなんて、だから仲良しなんですね〜! お2人は何の勉強をされているのですか?」
興味津々な様子で月希は粼とカンナの顔を交互に見ながら尋ねる。
「私は政治を……」
先に口を開いたのはカンナだった。
「お父さんが国会議員でね……そういう関係の仕事しようかなって思ってたんだけど、私、絶対議員とか向いてないでしょ? だからお役所で裏方の仕事ができる官僚になろうかなって思ってる」
「お父さん国会議員なの?? そうだったんだ。でも確かに……カンナが演説とか答弁とかしてるところ想像出来ないな」
「でも素敵ですよ! 日本を良くする為に働かれるって事ですよね!」
日本の政治や経済はネフィスが誕生してから変わり始めた。生まれながらに有能な新人類であるネフィスは、社会に出ると大企業、官公庁、政界にて重宝され、重要ポストに就けられるようになった。そのため、旧人類であるアーキタイプの人々は高位の役職に就く事は難しく、職場では差別待遇が常態化するようになり、アーキタイプの人々はネフィスや社会に対して怨嗟の念を抱くようになった。
しかしながら、ネフィスの寿命が30年弱という事が話題になると立場は逆転。長期で働けるアーキタイプを若いうちから育てようと、あらゆる場所で雇用の変化が起こった。もちろん、その変化はこれまで優遇されてきたネフィス達の反感を買う事になり、アーキタイプとネフィスは常に対立構造が崩れない。
「粼さんは何を研究なさってるんですか? 大学院にまで行くなんて、相当熱心に研究されている事があるんですね?」
水色の綺麗な瞳をキラキラさせる月希のその質問に、粼は一度空を仰ぐとまた月希へ顔を向けた。
「俺の事なんかより、榊樹さんの事教えてよ! そのネイル、ずっと気になってたんだけど、めちゃくちゃ可愛いよね! そういえば響音さんも凄い可愛いネイルしてたな」
「え! 分かりますー? これ自分でデコってるんですよ! 響音さんのネイルも私がデコりました!」
月希の爪は黄色のネイルチップが施されており、それをベースにキラキラとしたネイルストーンが散りばめてデコレーションされている。
「マジで? プロ並みに上手だね! めちゃくちゃセンスある!」
「ありがとうございます! 凄く嬉しいです!
実は私、将来ネイリストになりたくて、美容の専門学校で勉強してたんです! まだ1年生ですけど、ネフィスの延命治療に選出されたので……休学してここに来たんです」
初めこそキャッキャとしていたが、言いながらどんどん声が沈んでいく月希。自分でデコったネイルを見ながらショボンとしている。
夢を叶える為に入った専門学校を1年もしない内に休学し、延命治療と称した無人島でのサバイバル生活を強いられているのだから、落ち込むのも当然だ。しかも、延命治療が本当に存在するのかも分からず、この島から脱出できるるかも分からない絶望的な状況である。明るく振舞っているのが凄い事だというのは誰の目にも明らかだ。
カンナも月希の気持ちは痛い程分かるのだろう。月希の声が小さくなると悲しそうな表情をしている。
「あ! ごめんなさい! 落ち込まないように、敢えて大好きなネイルと向き合おうって、こうやって毎日ネイルデコってるんですけどね……」
「謝るのは俺の方だ、辛い事思い出させちゃってごめん」
「いえいえ! 粼さんは悪くありません! 悪いのは全部フォーミュラですから!」
「あ、うん、そうだよね……」
気まずそうに粼は無理やり笑顔を作る月希から顔を逸らした。
「とにかく今はさ、ここにいるメンバーで力を合わせて島を抜け出す事だけ考えよう。お互い、過去の事は一旦忘れてさ! な! カンナ!」
「そうですよ、榊樹さん。私も協力しますから」
カンナはぎこちない笑顔を作り月希を元気づける。それに応えるかのように、月希はお手本のような本物の笑顔をカンナに返した。
「ありがとうございます! お2人とも! とっても心強いです!」
「え〜?? そうかなぁ〜??」
どこからともなく、月希の言葉に割り込む女の声が聞こえた。
聞き覚えのある、あまり印象の良くない女の声。
3人が声の聞こえた前方を見ると、道の脇に生えた大きな木の上から、2つの人影が枝を揺らし飛び降りて、3人の前に着地した。