連載 第3話
美弦の話を聞いた私の胸に、何かの感情が湧き起った。ビールを呷って、それが鎮まるのを待った。そんな私の様子を、美弦はちらと横目で窺い、続けた。
「私の母が、どれだけ感謝したか、分かるでしょう?」
「そうだな。俺には正直、信じられない思いだ」
亡くなった母の横顔が、束の間現れ、霞のように消えた。
「その母を裏切ったのが、俺たちの父親、そして……」
「そうよ、母よ、私の。一つ屋根の下で暮らすうち、二人はいつしか愛し合うようになった」
俯いた美弦をぼんやり眺めた。目、鼻、口と。血の繋がった妹。私に似た部分が、少しでもあるのだろうか。
「俺の父親の事も聞かせてくれ。一体どんな男なんだ?」
「父は私にとって、とても良い父。結果的に、あなたのお母さんが家を出ることになったけど、そこにどんな経緯があったのか、父にはとても訊けない。でも、母がいつかこんなことを言ってた。父は音楽家で、家でいつもピアノの練習をしていた。両親と離れ、塞ぎ込むことの多かった母の、唯一の慰めが、そのピアノの音色だったそうよ。父の練習している姿を、眺めているのが好きだった。それだけだったのに。途方に暮れたような顔で、母は何度もそう言っていた」
「そんな話を、俺は一度も聞いたことがない」
「何も聞いていないの?」
美弦が驚いた顔を向けた。
「ああ、何もだ。どんな事情で別れたとか、一切聞いたことがない。一間きりの安アパート。それが俺と母の生活の全てだった。俺に対して口うるさくはあったが、世間に対しても、他の何かに対しても、恨むようなことは言わなかった」
鼻孔をくすぐる匂いを放ち、おでんがぐつぐつと煮えている。美弦はその湯気の向こうを透かすように、何かを見ていた。
「そういう人だったのね。あなたの養育費も受け取らなかったのよ」
「相当、意地っ張りな女だったんだな、俺の母親は。養育費くらい貰ってれば、俺も、もう少し贅沢出来ただろうに」
「その方が良かったと思う?」
美弦が訊ねた。心なしか責めているような口調に感じた。
「うん‥‥。それがさ、正直言うと全然思ってないんだ。おかげで貧乏暮しに慣れてるから、今の生活も快適に過ごせている。どちらかというと、感謝したい位だ」
大根を一口食べた。辛子をつけすぎたと後悔した。鼻が詰まり、目に涙が滲んだ。
「何が不満なの、言ってみなさい」
唐突な母の声が響いた。隣近所に筒抜けじゃないか。子供の私が危惧するほどの声だった。
「別に不満なんかないよ」
自堕落な態度で天井を見上げていた私は、しぶしぶと身体を起こした。
「嘘言いなさい。分かるわよ。帰ってから、ずっと拗ねた顔してるじゃない。何があったの?」
「グローブ持ってたら野球のチームに入れてやるって言われたけど、あんな下手くそな奴ら、俺の方からお断りだって言ってやったんだ。それだけだよ」
「グローブって、野球のグローブのこと?あればいいんだね?いいよ、買ってやるよ」
あっさりとした言い方に、私の方が慌てた。
「だって、たかいんだよ。知らないんだろ、母さん。そんなお金ないくせに」
買えるわけないよ。そんな思いが顔に出たのだろう。頭から叱りつけるような、母の声だった。
「生意気言うんじゃない。お金のことなんか、子供のお前が心配することじゃないよ」
押しつけるように渡された紙幣を持って、夕方の買い物客で賑わう町に出た。スポーツ用品店の前を何度かうろうろしたが、結局入ることはなかった。そのまま足が自然と、河川敷にあるグラウンドに向かった。土手を登ると、バットとボールがぶつかりあう音とともに、歓声がひときわ高く上がり、四角いベースラインを駆け回る人影が見えた。
私は、離れた場所からその光景をしばらく眺めていた。グラウンドから歓声が届くと、知らず知らずに、ポケットの中の紙幣を握りしめていた。握りしめるたびに、少しずつ胸がつまった。その価値が痛いほどよく分かっていた。夜遅く帰った時の母の長い溜息。その溜息の代償が、ポケットの中にある。
暮れかかった空に、高くフライが上がった。目測を誤った外野手が、ボールを取り損ねて落した。
「下手くそ」
私はそう呟くと、踵を返した。アパートに戻り、渡されたお金をそのまま母に返した。
「どうしたの?」
不思議そうに、母が私を見た。
「気に入ったのがなかった。この前見た時はあったんだけど、もう誰かが先に買っちゃったんだ」
「そう」それ以上母は何も訊かず、黙って夕食の支度を始めた。
数日後の朝、目覚めると同時に匂いでそれが分かった。私は寝床から起きずに、寝そべった姿勢のまま枕もとを手で探った。手が触れると引き寄せて、顔の上にかざすようにして眺めた。想像した通りの、黄色い真新しいグローブだった。
「どう、気に入った?」
私の起きた気配に、母が弾んだ声をかけた。
「うん。すごく気に入ったよ」
自分でも驚くほど嬉しく、興奮していた。色々な角度から眺め、革のつなぎ目や細かな部分を手で触り感触を楽しんだ。ほれぼれするほどいいグローブだと思った。
「やっぱり欲しかったんだね。この間は気を使って、わざと買わなかったんだろ?」
「そんなことないよ。あの時は本当に良いのがなかったんだ」
私は照れ臭くなって、グローブを顔に被せた。強く革の匂いがした。
「意地っ張り」
軽やかな笑いを含んだ、母の声が届いた。
「何考えてるの?」
我に返った。不思議そうに、美弦が覗き込んでいる。
「うん。意地っ張りの血は、俺にも遺伝しているのかもしれない。そう考えていた」
「ふーん」
「ところで、住む処もなくて、この先どうするつもりだ?」
「私のこと、気にかけてくれるわけ?」
「まあな。放っとけないだろう。身内ということになれば」
美弦が、身を強張らせた。
「そんな風に思ってくれるの?」
「正直言えば、戸惑っているのは確かだ。君のような妹がいただなんて、思いもしなかったからな。しかし現実なら受け入れなければ。精々、頭を切り替えるように努力するよ」
「だって……」
俯いた美弦が言った。
その時、どういうわけか、彼女の丸い肩が視界を占めた。
「私の言ったこと、聞いてなかったの?私を産んだ母は、あなたのお母さんを……」
「その話はもういいよ」私は遮った。
「君から聞いて、俺は自分の母親が背負っていたものを初めて知った。母からは聞かされてなかったことばかりだ。驚いたし、混乱した。出来ることなら、今からでも母の心の内を知りたい。ちょっと無理だとは思うけどな」
美弦のグラスは、ほとんど減っていない。瓶に残ったビールを、全て私のグラスに空けた。
「だけどさ、苦しい生活を続けながら、俺に何も伝えなかった。恨みごとの一つも言わなかったというのは、それ自体が母の心情を表わしていると、そんな風に俺は解釈する。過去のしがらみを全て切り離して、子供と二人で全く別の人生を始める。だから君の両親からは援助の類を一切受けなかった。多分、色々葛藤はあったのだろうが、母はそういう道を選んだ。俺はその息子だ。親の意思は尊重するよ。つまり、君と俺の間には恨みも憎しみも存在していないんだ」
美弦は黙っている。俯いたままで、表情は読めない。ぼんやりと彼女の肩を眺めていると、唐突にひらめいた。私の母と同様に、彼女もこの華奢な丸い肩に何かを背負って生きている。その思いが急激に私の胸に溢れた。
ふうっと、小さく息を吐いて、美弦が顔を上げた。
「なんだか、変に緊張して疲れちゃった」
笑顔を向けた。無理につくったような笑顔だったが、それでも私の心をほのぼのとさせるには充分だった。
「私、もう帰る」
「帰るって、一体どこに帰るつもりだ。あてはあるのか?」
「どこか探すわ。暖かくて、じっとしていられる処」
「しかし……」
俺の部屋に泊まるか、という言葉を呑み込んだ。妹だと分かっても、殆ど面識のない彼女を誘うには抵抗がある。
「大丈夫よ。もう慣れてるから」
美弦が明るく言った。きっと私の顔色を見たのだろう。
「色々と御馳走様でした」
そう言って、彼女は立ち上がり、ぴょこんと頭を下げた。
言うべきことは、山ほどあるはずだ。だが、こういう時に限って、咄嗟に言葉が出てこない。
「なあ」
私は声をかけた。我ながら情けないような声だったが、彼女は立ち止った。
「また、会いに来いよな。必ず」
驚いた美弦の顔が、徐々に晴れやかになった。
「嬉しい。そう言ってくれて」
「何かあったら、相談してみてくれ。もっとも、あまり頼りにはならないかもしれないけどな」
彼女は微笑みを残して去って行った。引き留めるべきだったかもしれない。後悔が私を包んだ。ほんの短い関わりだったのに、彼女がいなくなってみると、ぽっかりと心に隙間を感じた。
地下街の外れにその映画館はあった。扇情的な映画のポスターが壁に数メートルにわたって貼られている。そのポスターの列が途切れた辺りに入口があった。派手に明滅するランプの下にチケットの売り場があり、紙幣を差し出すと、内側が窺えない小窓の下から手だけが出て、釣り銭と入場券を寄こした。
中に入ると、目つきの鋭い中年男が入場券を受け取り、ちらと窺うような目つきをして、黙って半券を返した。館内には安っぽいオーデコロンのような匂いが満ちている。天井には剥き出しの空調用のパイプが伸びていて、そこだけ見ると倉庫か工場のようだが、コンクリの床に置かれた合成皮革のソファーがどぎついピンク色をしていて、ここがどういう場所であるかを示している。
あの日以来、美弦の訪問が絶えて三日経った。後悔が心を占めている。彼女に携帯電話の有無も訊ねなかった。
仕事を終えてアパートに戻ると、ドアに画鋲で貼り付けられた白い封筒が目に入った。宛先の住所はない。『耕輔様へ』と丸みを帯びた字だけが表にある。すぐ脇には、プラスチック製のポストがあるのに、こんなことをするのは誰の仕業か、見当がついた。その場で開封すると、やはり美弦からの手紙だった。ほほえましさを感じたのは、しばらくの間だけだった。




