第七十話 未来の話に笑う鬼。じゃあ、過去の話を笑うのは?
目を開けると、心配そうな表情でこちらを見つめる幼馴染の顔があった。なんだか、何処かで経験した様なそんな感覚を覚えていると、心配そうだった顔を少しだけ緩めた幼馴染が桜色の唇を開いて言葉を紡いだ。
「……良かった。ようやく起きたね、浩之ちゃん」
「……涼子」
「本当だよ! ヒロ、全然起きないから……心配したんだよ!」
「……智美」
……あれ?
「……なんで居るの?」
本当に。なんでお前ら、此処にいんの?
「秀明に呼ばれたから」
「秀明?」
「『何時まで拗らせてんですか。そろそろ、前に進んだ方が良いんじゃないんです? 俺が手本を見せてあげますよ』って……秀明君からメッセが来たの。私と智美ちゃんに」
……あいつ。
「……迷惑掛けたな」
「本当だよね」
そう言って苦笑を浮かべた後、涼子が優しい笑顔に変えて言葉を継いだ。
「でも……なんかちょっと、懐かしいね?」
「懐かしい?」
「覚えて無いの? アンタ、木登りしてたら木から落ちて気絶した事あったじゃない!」
「……ああ」
確か……小学校二年か? そんな事もあった様な気がするな、うん。
「そうそう! あの時も今みたいに浩之ちゃん、中々起きなくて。二人で心配して顔をずっと覗き込んで」
「今考えたら、直ぐに大人を呼びに行くべきなのにね?」
「うん。でも、全然その時は思い寄らなかった。浩之ちゃんの傍に付いていないと! って」
「そうそう! なんかヒロと離れたら、そのままヒロが死んじゃうんじゃないかって……それが心配で……怖くて」
「……んな簡単に死ぬかよ。木から落ちたって言っても精々、自分の背丈よりちょっと高いぐらいだぞ?」
「そんな高さの木から落ちただけなのに気絶するから、心配したんでしょ!」
「……そりゃそうかもだけど……」
「そうだよ、浩之ちゃん。大体、浩之ちゃんは昔っからそそっかしい所があるんだから! 心配になるんだよ、こっちも!」
「そうそう!」
「……勘弁してくれよ」
少しだけ、肩を竦めて見せる。そんな俺の仕草に、幼馴染二人は笑う。
――とても、とても、優しい笑顔で。
「……」
「……」
「……」
「……さっき、ね?」
どれくらい、沈黙が流れたか。
「……ああ」
唐突に口を開いた智美に、頷いて見せる。
「……秀明に……告白された」
……そっか。
「それで? 返事は?」
「断ったよ、勿論。気持ちは嬉しいけど……秀明とは、付き合えないって」
「弟としてしか見れないか?」
「……そうだね。それも……あるね」
でもね、と。
「――私はやっぱりね? 今まで通り『三人』が良いよ、ヒロ」
「……」
「涼子に言われた。『智美ちゃんはズルい』って。ヒロを縛って、ヒロの逃げ道を奪って、そのくせヒロの隣でずっと笑っているのは……凄く、ズルいって」
「……んな事は、ねーよ」
「ううん。私自身もそう思う。私は、ヒロの負担になってるって」
いいえ、と。
「……この言い方もズルいよね? こういえば、きっと優しいヒロは『そんな事はない』って言ってくれるって……信じてるから」
「……」
「……分かってるんだ。自分でも、ズルい事は。でもね? それでも、止められない。何時かは離れて行くかも知れないけど……それでもやっぱり、私はヒロの傍に居たいんだよ。涼子とヒロと、私の三人が良いんだよ。少なくとも、今はまだ」
「……それは」
「――まあ、それは無理じゃないかな~」
言い掛けた俺を、制す様に。
「……涼子」
「いつまでも三人、なんて無理だよ、智美ちゃん」
涼子が口を開いた。
「……まあね? 私も悪かったよ。三人で居るのが居心地が良すぎて……それで、智美ちゃんにあんまり厳しい事、言って来なかったからね。そこは幼馴染として反省する。何時までもこの『ぬるま湯』を形成していた一端は、間違いなく私にもあるから」
そう言って肩を竦めて。
「――大人になろうよ、智美ちゃん。私と一緒に」
「……」
「いつまでも、子供のままじゃ居られないんだから。私たちは女の子で、浩之ちゃんは男の子。どうしたって、いつかは絶対、二人と一人になるよ。それとも何? 『今じゃない』って言い続けて、ずっと一緒に居て……三人で老人ホームでも入る? 誰ともお付き合いもせずに、誰とも結婚もせずに? ま、私はそれでも良いけど……浩之ちゃんにそこまで強いるの?」
「そ、そんな事は言ってないじゃん! そりゃ、いつかはそうなるかも知れないけど……なんで、今ここでその決断をしなくちゃいけないのよ!」
叫ぶ智美。苦しそうに、切なそうに、その胸の内を吐露する智美に、涼子はなんでもない様に。
「そりゃ、桐生さんが居るからだよ」
断罪するかのよう、冷たい声音で。
「浩之ちゃんには許嫁が出来た。智美ちゃんだって分かるよね? 彼女が出来た男友達に、今までと同じお付き合いを出来ないのは。それと一緒だよ。許嫁なんて彼女よりも繋がりが強いんだよ?」
「そ、それは……で、でも! 二人が許嫁なのは、ヒロと桐生さんの意思じゃないじゃん! ヒロのおじ様と桐生さんのお父さんとの間で決まった事でしょ!!」
「ま、許嫁なんて基本親同士が決めるモンだしね」
でもね、智美ちゃん? と。
「――なんで桐生さんは浩之ちゃんの事、好きじゃないって思うのかな?」
「な、なんでって……」
「一緒に暮らして、仲良く話す二人を見て……それでも、思わないの? もしかしたら、桐生さんは浩之ちゃんの事を好きかも知れないって」
「……」
「まあ、私は桐生さんじゃないから分かんないよ? 本当に桐生さんが浩之ちゃんの事が好きかどうかは。でも、今までの浩之ちゃんとの関係性の中で、私たちを除いて一番、浩之ちゃんの傍に居るのが桐生さんだと私は思う。きっと、今いる誰よりも、浩之ちゃんに近いのは桐生さんだと、そう思うんだ」
「……」
「だからね、智美ちゃん?」
――『三人』なんて無理なんだよ、と。
「……涼子は」
「うん?」
「涼子は……それで良いの? 今まで通り、三人で居られなくて良いの? 私はイヤ! 今まで通り、三人で過ごしたい!」
「……そうできれば、それが良いかもね。でもね? それはもう、無理なんだよ。このままじゃ、必ず皆がバラバラになるから」
だから、と。
「私は進むね、智美ちゃん」
ごめんね、と、智美に頭を下げて。
「……好きです、浩之ちゃん」
「……」
「好きです、浩之ちゃん。いつからなんて、そんなの思い出せないぐらい、ずっと、ずっと前から、私は――賀茂涼子は」
――貴方が、好きです、と。
「……」
「……本当は……この言葉をあの時に言っておくべきだったんだ。浩之ちゃんが、智美ちゃんの事を好きかもしれないって私に言った時に……浩之ちゃんが、三人の関係を進めようとしてくれた時に、私はこの言葉を貴方に伝えるべきだったんだ」
そう言って苦笑を浮かべる。
「でも、私は臆病だったから。本当に……本当に、大好きだったから。だから、貴方が智美ちゃんを選んだ時、凄く辛かった。なんで私じゃないの? なんで? って、そう思った。私の方が傍に居たのに、私の方が長い間一緒に居たのにって、そう思って……それでも、貴方が幸せなら良いって、そう思いなおして……自分に、嘘をついて」
でも、と。
「智美ちゃんは歩み出さなかった」
「……」
「凄く……凄く、妬ましかった。それだけ浩之ちゃんに愛されてるのに、そんな浩之ちゃんの手を掴もうとしない、折角浩之ちゃんに選ばれたのに、それを受け入れない智美ちゃんが」
「……」
「同時に、凄く有難かった。だって、二人と一人になったら、きっと今まで通りでは居られないから。だから」
――間違っているのは知っていたのに、私はそれに乗った、と。
「……だからね? 私もズルいんだよ、浩之ちゃん。別に智美ちゃんと浩之ちゃんだけがダメなワケじゃない。皆、少しずつ、間違えたんだよ。誰も悪くないし……そして、誰も正しくない」
だから、と。
「――やり直そうよ、今、此処で。いつか『あの時の私たちは、とっても格好悪かったね』と笑える未来を迎える為に」
――間違いだらけの『過去』を変えよう、と。
「進もうよ、皆。いつか、過去の話を笑い話に出来る様に。来年の話は鬼が笑うって言うでしょ? だから、私たちは過去の話で大笑いしようよ? きっと、私たちにはそれが出来るから」
だって。
「私たちは――いつも、いつでも一緒にいた『幼馴染』だから」
視線を智美に向けて。
「私は進むよ、智美ちゃん。貴方はどうするの? このまま、此処で立ち止まるの? それとも――前に、進むの?」