第六十九話 もう、逃げない。
既に夕闇迫った公園で秀明と対峙する。秀明はバッグからバスケットボールを取り出すと、くるくると指の上で回して見せた。
「……じゃあ、勝負しましょうか、浩之さん」
「……勝負になるかよ? 俺とお前で」
そう言って鼻で笑って見せる。当然、楽勝って意味じゃねえ。こっちのが分が悪いって意味だ。
「そうでしょうね。あの頃は負けっぱなしでしたが……今は、負ける気がしませんから」
「……聖上のベンチメンバーだもんな。そりゃ、自信も付くか」
そう言いながら俺は上着を脱いで軽くストレッチ。屈伸をして、アキレス腱を伸ばす俺を見て、ほんの少しだけ秀明が驚いた顔をして見せた。
「……そうは言いながらやる気満々じゃないっすか」
「んな事はねーよ」
別にやる気なんてある訳では無い。無いがしかし。
「……このままじゃ進めないしな、俺も……お前も」
「……」
「……」
「……智美さんには勿論ですが、浩之さん。俺は貴方にも感謝しています」
「……そりゃありがとよ」
「俺にバスケを教えてくれたのは浩之さん、貴方です。聖上でベンチ入りまで出来たのも……浩之さんのお陰です」
「……んなワケねーだろ。お前の努力の成果だ」
「そうでも無いですよ。俺は、一度も浩之さんに勝った事がありません。いつも、いつも……負けていました。それが悔しくて、ずっと貴方の背中を追ってましたから」
「……」
「だから、この場で……俺は浩之さんに勝ちます。バスケも――恋愛も」
そう言って、ボールをこちらに放ると、リングの前に陣取り手を広げて腰を落とす秀明。
「――ルールは簡単です。ワンオンワンで俺を抜いて、一本でもシュートを決めれば浩之さんの勝ち。出来なければ、俺の勝ち。時間無制限、どちらかの体力が尽きるまで」
「なんだよ? 随分余裕じゃねーか」
「ハンデですよ。さあ――」
どこからでもどうぞ? と。
真剣な眼差しになる秀明。マジの勝負……って訳か。
「――ははは」
無茶だろうな、と俺も思う。
向こうは、名門聖上でベンチ入りした男。対してこちらは帰宅部。
バスケをずっと続けた男と、バスケから逃げた男。
身長だって、二十センチ近く違う。勝てるわけがねえ。
「……」
……逃げ出すのは簡単だよな。
「……上等だ!」
でも、だからこそ――俺は秀明に向かって走った。
◆◇◆
……どれくらいの時間が立っただろうか。
「甘いっす!」
ゴール下から抜きにかかり、レイアップシュートを決めようとした俺を、秀明がブロックする。かわそうと思って無理に体をひねったのが災いしたか、俺の体は地面に叩きつけられた。
「……かは!」
肺から空気が漏れる、そんな音を聞きながら。俺は秀明を睨みつける。
こちらは汗をかき、息も絶え絶え。対して秀明は、悠々とゴール下に立っている。
「……もう、終わりっすか?」
「……」
侮蔑の視線を送る秀明に、俺は両の足に力を入れて立ち上がろうとして……盛大に転ぶ。
「……限界っすか?」
「……ははは。バカかよ、お前」
こんなもの、限界でもなんでもねーよ。
「――行くぞ。勝負はこれからだ!」
「……ははは。昔のまんまっすね!」
震える足を励まし、もう一度ドリブル。左右にフェイントを掛けて抜きに掛かるも、簡単に追いつかれてディフェンスされる。秀明の威圧感を感じながら、ゴールを背にして。
「……なんで、そこまでやるんっすか?」
そんな秀明の声が、背中越しに聞こえて来る。
「……」
「もう、いいじゃ無いですか。浩之さん、足もガクガクだし、これ以上やったら体壊しますよ」
「……」
「そもそも……なんで『外』からシュート打たないんっすか? 一本取れば浩之さんの勝ちっすよ? 外から打てば一本ぐらい、シュート入るかも知れないじゃないっすか。それを馬鹿正直に……なんで、わざわざ内を攻めるんっすか? もしかして……勝つ気、ないんっすか?」
……秀明の言う通り。
幾ら秀明との身長差があるとは言え、流石に全てのシュートを止められる事はない。俺だってそうは言っても素人ではないし、アウトレンジからのシュートだって得意な部類だ。だから、秀明の言う通り、外から打てばシュートの一本や二本、簡単に決めれるだろう。
――でもな?
「……んなしょっぱい勝負が出来るかよ」
真正面からぶつかって来た秀明に対して、アウトレンジのシュートで姑息に勝ちを拾うなんて。
「――お前、それで納得できるのかよ? 外からシュート打たれて、まぐれで決められてはい、負けましたで、納得できるのか?」
「……勝負は勝負です」
「そういうのは試合に勝って勝負に負けたって言うんだよ」
そうだ。
それじゃ、今までと――色んなことから目をそらし、三人で『ぬるま湯』の関係を……『今』を逃げ続けていたのと、何にも変わらないじゃないか。
「……ともかく……真剣勝負の最中だ。黙ってろ」
「浩之さんには言われたくない――っすよ!」
くるりと体を回し、鮮やかに……とは言わないまでも、秀明を抜き去る。
「……だから、甘いんっすよ!」
シュートモーションに入った俺の後ろから、ファールにならないようにボールだけを叩き落とす。畜生、今のでも無理か。
「っぐ!!」
着地の衝撃に、どうやら俺の体は耐えられなかった様子。俺の体はもう一度、盛大に地面に叩きつけられた。
「……」
もう一度、立ち上がる――否、立ち上がり掛けて、盛大に転ぶ。
「ちょ、浩之さん! 大丈夫っすか!」
慌てて駆け寄ろうとした秀明を手で制す。足もがくがくで、力なんか入りやしないが……両手を膝に付いて、俺は体を起こして秀明を睨む。
「……もう逃げねぇよ」
「……」
「面倒くさい事や、辛い事や、しんどい事や」
――何よりも。
「何より、自分自身に、もう逃げねぇんだよ!」
そのままの勢いで、俺はドリブルで突っ込む。秀明も腰を落とし、ディフェンスの構え。
「……負けるかぁ!」
右に一瞬動き、秀明の注意を逸らす。こんなもんで巧く行くなんて思っちゃいねえ。案の定、秀明は一瞬視線を動かすだけ。
「貰った!」
左に抜きかけ、ドリブルを止めてシュートモーション。流石は聖上のベンチメンバー、全然疲れてないと思ったが……そうでも無いみたいだ。秀明の体は左に流れている。
「させないっす!」
それでもさすが現役。体を捻り何とか持ちこたえた秀明が、俺を止めるためにジャンプする。
……ダメか。
「ヒロ!」
「浩之ちゃん!」
――智美と涼子の声が、聞こえた気がした。
「負けるな、ヒロ!!
「いけー、浩之ちゃん!!」
その言葉に、飛び上がり掛けた膝を無理やりたたむ。秀明の体が目の前を横切り、地面に着いた。
その体と入れ替わる様に、俺は体を中空に投げ、最高到達点でボールを手放して。
――綺麗な放物線を描いたボールは、吸い込まれるようにリングに収まった。
「……」
「……」
「……俺の……勝ちだな?」
「……そうっすね」
負けたというのに、何故かすっきりした顔をする秀明。リングの下に落ちているボールを拾い、鞄に納める。
「……負け犬は去ります。それじゃ」
「秀明!」
「……なんっすか?」
「……お前、最後……手、抜いたろ?」
「……」
「どうなんだ?」
「馬鹿っすか、浩之さん?」
そう言って、少しだけ呆れた様な表情を見せて。
「――手なんか、ぬいた事無いっすよ? 全力っすよ。バスケも、恋愛も……いつでも、ね」
手をヒラヒラさせながら公園を出ようとする秀明。
「ヒロ!」
「浩之ちゃん!」
「……あ……れ? なんで居るんだ、お前ら?」
幻聴かと思ったが……そうでは無かったのか? 俺の傍に駆け寄ってくる見慣れた幼馴染の姿を視界に納め。
「智美さん! 俺、負けちゃいました! 後は―――――――」
秀明が、何か言ってるが……良く聞こえない。まあ、もうどうでも良いや。
……終わったんだな? もういいよな? 俺、勝ったんだな?
安堵と、疲れの中で、俺はゆっくりと意識を手放した。