えくすとら! その百七十 追撃の涼子
「……疲れた」
「……お、お疲れ様です、浩之さん」
「……おう」
「ひ、浩之さん!? 笑顔が死んでますけど!!」
玄関先で『やめて! 浩之のライフはもうゼロよ!』となった俺の肩にポンと手を置く秀明に、薄い笑顔を浮かべる俺。いや、もうね? 流石に疲れたよ、俺。あれ? カレー食べに来たんだよね、俺? もう結構色々お腹いっぱいなんだけど? ちなみに桐生は『萌え袖?』の指摘に顔を真っ赤にしてリビングに逃げて行ったよ、エエ。
「……もう帰りたいんですけど」
「ま、まだカレー食べてないじゃないですか! さ、早く靴脱いで! ほら、凄く美味しそうな匂いしてますよ! う、うわー! お腹空いたな~!」
背中を押されながら玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く。リビングが近づくにつれ、カレーのいい匂いが鼻腔を擽る。そうなると俺の意思とは裏腹、腹の虫が『ぐー』と鳴った。そんな俺に秀明が苦笑を浮かべて見せた。
「現金っすね、浩之さん」
「まあ、涼子のカレーだからな。仕方ねーよ。しかも二日目だしな」
「ですね。俺はそんなに食べる機会無かったですけど……涼子さんのカレー、マジで美味いですもんね!」
苦笑をにこやかな笑みに変える秀明。そんな秀明の姿を見ていると、横からごくり、と生唾を呑む音が聞こえてきた。北大路だ。
「お前も楽しみか、北大路?」
「へ? あ、ああ、すんません! いや、あんまりにエエ匂いやったからつい……」
「謝ることはねーが……ああ、北大路? 最初に聞いておくべきだったが、アレルギーとか好き嫌いとかねーか?」
「あ、どっちも無いです。っていうか、むしろカレーは大好物っすね!」
にかっと笑って見せる北大路。そんな北大路に俺と秀明は視線を見合わせて、少しだけ憐憫の表情を浮かべて見せる。
「な、なんすっか?」
「いや……可哀そうだな、と」
「そうっすね。可哀そうだな、北大路」
「か、可哀そう? え? 賀茂さんのカレー、めっちゃ旨いんっすよね? それで可哀そうって……」
はてな顔を浮かべる北大路。そんな北大路に苦笑を浮かべ、俺は言葉を継ぐ。
「いや、涼子のカレーはマジで美味いんだよな。美味いんだけど……美味すぎてな?」
「涼子さんのカレー食べると、学校の給食のカレーとか物足りなくなって食べられないだよ。ああ、別に食べれないって喉を通らないとかいう意味じゃないけど……なんていうか……」
「物足りない、だろ?」
俺と秀明の会話に割って入った藤田。そんな藤田に、秀明が頷いて見せる。
「ああ、そうですね、藤田先輩。それが近いっす」
「俺も賀茂のカレー食わせてもらってから、他でカレーを食ってもなーんか物足りなくなってさ? 自分ちで真似して作って見たんだが……なんか違うんだよな~。レシピ教えてくれねーかな、賀茂?」
「カレーのか? いや、涼子はカレーに限らず、料理のレシピを誰かに教える事はしねーぞ? 俺も教えて貰えなかったし」
俺もカレーのレシピは教えて貰った事ない――というか作るのに二日がかりの料理を作るのは流石に億劫なんでそもそも聞いたこともないが、クッキーのレシピとかは教えて貰えなかったしな。
「『賀茂家一子相伝』のレシピかなんかなのか、賀茂のカレーって?」
「……残念ながら賀茂家の料理道は涼子からスタートだな。開祖だよ、アイツが」
涼子のお母さんである凛さんは残念な事に非常に家事能力というか生活能力の低い人だからな。涼子のお祖母ちゃんは出来るかも知れんが……あいつの師匠は料理本と料理系の動画だよ。
「そうなのか。折角、あの秘伝のカレーを学ばせて貰おうと思ったのに……残念だな」
「ま、いいじゃねーか、フランス料理屋の息子には必要ない知識だろ?」
いずれこいつが実家を継ぐ……かどうかは知らんが、飲食店の息子としてレシピ増やすのは悪くないと思う。まあ、フランス料理屋にはあんまり必要ない知識だと思うけど。そう思う俺に、藤田は苦笑を浮かべて。
「店で出そうとはおもっちゃねーけどよ? たまには振舞ってやりたいじゃねーか。有森とかに」
「……出来た彼氏め」
いや、ホント。有森、藤田のこういう所が好きなんだろうな。そんな藤田に肩を竦めることで返すと、北大路が少しだけ不安そうな顔でこちらに視線を向けてきた。なんだよ?
「いえ……今の話やったら、賀茂さんのカレー食べたら他のカレー、もう喰われへんって事ですよね? 俺、さっきも言いましたけどカレー大好物なんですよ。それが喰われへんって……」
「食えないとは言ってねーよ。物足りないって言っただけで」
「……同じやないですか、それ? 地獄なんですけど……」
「まあ、地獄の前に天国があるからな」
「なんの慰めにもならへんのですけど……」
北大路の落とした肩をポンポンと叩いてリビングのドアを開ける。室内から、まるで匂いの暴力の様なカレーの強烈な香りが鼻を刺激する。カレー独特の刺激臭、だが決して不快ではなく、むしろ食欲をそそるその香りに俺は頬を緩めて。
「あ、浩之ちゃん! いらっしゃ――じゃなかった! お帰りなさいませ、ご主人様!」
ホワイトブリムをつけ、ミニスカメイド姿の涼子がそこに立っていた。
「……あー……うん、まあ、そうだよな」
「……あれ? なんか反応が薄くない?」
「いや、反応が薄いもくそも……予想通りというか」
瑞穂、西島、茜、有森、そして桐生と来てるからな。明美も『皆着る』って言ってたし、ある程度耐性は付くに決まってんだろ。そんな俺の反応が不満なのか、涼子がぷくーっと頬を膨らます。
「……なんかちょっとふまーん。私だって恥ずかしいけど頑張って着たのに……浩之ちゃん、ドキドキしてくれないの?」
「ドキドキって」
いや、涼子だって大概美少女だと思うよ?
「まあ、順番が悪かったな」
そもそも、俺が涼子にドキドキしたら色々不味いだろ。桐生にぶっ飛ばされるわ。
「……むぅ」
そんな俺の態度が更に気に食わないのか涼子がますます頬を膨らます。が、それも数瞬、涼子は口の端をニヤリと歪めて。
「――ま、浩之ちゃんのその態度を崩してこそ、だよね? 覚悟してて、浩之ちゃん! メロメロにしてやんよ~!!」
そういって腰に手を当ててビシっとこちらを指さした。ええっと……勘弁してもらえませんかね? そしてそろそろ、平和にカレーを食べさせてもらえないでしょうか……?




