えくすとら! その百五十五 涼子ちゃんのカレーは、幼馴染の味!
今回は桐生さん視点です。
玄関のドアを開けると、美味しそうなカレーの匂いが鼻孔を擽る。隣にいた西島さんも同じように鼻をひくひくさせて――なにやら満足そうな顔をしているところを見る限り、恐らく私と似たような感想なのだろう。そんな私たちの前に、パタパタとスリッパの音を響かせて明美様が姿を現した。
「お待ちしておりました、彩音様、西島さん。さあ、どうぞ上がってくださいな」
二足のスリッパを出しながらにっこり笑う明美様に笑顔を返し、靴を脱いでスリッパに足を通す。と、隣の西島さんが丁寧に腰を折って頭を下げた。
「あ、あの……今日はお招き頂きありがとうございます。その、詰まらないものですけど……」
そういって持っていた鞄の中から取っ手のついた白い紙箱を差し出す。ケーキ屋の様なその箱に首を捻ると。
「その……マドレーヌ、焼いたんです。賀茂先輩はお料理得意って聞いていたので、今からお手伝いしても邪魔になるでしょうし……女子会なら、夜はお喋りするのかな~って。なので、お茶請けにでもして貰えれば……」
そういって紙箱を差し出す西島さんに少しばかり驚いた顔をして見せた後、明美様は綺麗に笑んで見せた。
「……お気遣い、ありがとうございます。そこまで気を遣われなくても宜しかったのですが……でも、ありがとうございます。これは後で、皆様で頂きましょうね? では、上がって――彩音様? なんですか、その顔?」
「い、いえ……な、なんというか……その、すみません。私は何も用意していなくて……」
なんたる失態。そう、西島さんが此処まで気を回しているというのに、私は手ぶらだ。くぅ……な、なんというか、物凄く恥ずかしいわ!
「……そんなに気を遣われなくても結構と申したでしょう? それを持って非礼だなんだと騒ぐつもりは無いですよ」
「で、でも!! 流石に少し――」
「それに……彩音様から頂いておりますし」
「――はずか……え? い、頂いている?」
な、なに? 何を持って行ったの、私? っていうか、そんな記憶は無いんだけど……?
「……正確には彩音様、というか浩之さんからですが。『あいつ、昨日はテンション高く興奮してたから、きっとそこまで気が回ってないだろうけど……これでまあ、勘弁してやってくれ。普段はちゃんとしてるやつなの、知ってるだろ?』と、ケーキを差し入れして頂いています」
「……え? なにそれ、好き」
「……なに人の家の玄関で惚気てくれてやがりますか。だらしない顔をして」
じとーっとした目を向ける明美様の視線に、私は自身の頬をぐにぐにと揉み解す。だ、だって! ひ、東九条君、そんなに私の事に気にしてくれてるって……そ、そんなの、う、嬉しくなっちゃうじゃない!!
「……まあ、『……あいつ、友達の家に遊びに行くって経験も少ないから、多分手土産自体頭に無いんじゃないか?』って憎まれ口を言ってましたけど」
「……否定は出来ませんね」
否定は出来ない。確かに私は友達の家に遊びに行った経験はないし、手土産なんて頭から吹き飛んでいたのは間違ってはいない。いないが。
「……どうしましょう、明美様。本当に東九条君、大好きなんですけど」
だってそれ、絶対照れ隠しじゃないの! 心配してるのバレたら恥ずかしいから、ちょっと照れてるだけじゃないの! え、なに? 東九条君、どれだけ私に惚れさせれば気が済むの? 言っておくけど、もう結構どうしようもないくらい、貴方にズブズブよ、私!!
「だから、人の家の玄関で、それも恋敵前に惚気るのやめて貰って良いですか!! 顔!! だらしない顔になってます!!」
明美様の声で慌てて現実に戻る。隣でじとーっとした目を向けてくる西島さんの視線が痛いわ。
「……はぁ。それで、明美さん? 私、もう上がっても良いでしょうか?」
「……ええ。そこの色ボケした女性は置いて、さっさと上がってください」
「あ、明美様!?」
「冗談です。彩音様もさっさと上がってくださいな」
つんっとそっぽを向く明美様と心持ぐったりとした顔をしながらそれに続く西島さんの後ろを遠慮がちに私も続く。先ほどまで漂っていたカレーの香りがどんどんと強くなっていく事に比例するよう、私の心も高まってくる。
「……良い匂いしてますね、桐生先輩」
「……ええ。涼子さんのカレーは本当に美味しいの。この間も家で作ってくれたんだけど……比喩じゃなく、ほっぺたが落ちるんじゃないかってくらい美味しいのよ」
「……そ、そんなに?」
「私も……まあ、成金だけどそこそこ食生活は豊かだと思っていたのよね? でも、涼子さんのカレーは本当に美味しいの」
ごくり、と西島さんの喉が鳴る。意識せず出たのであろうそれを恥じるよう、西島さんの頬が朱に染まるが……仕方ないわよね? だってすでに香りだけで『美味しい』を主張してるもの! 喉だってなるわよ!!
「はぁ……まあ、涼子さんのカレーが美味しいのを認めるのはやぶさかではありません。ありませんが……カレー、ですからね……」
憂鬱そうにため息を吐く明美様。あら? 明美様、もしかしてカレーお嫌い?
「カレー、お嫌いなんですか、明美様?」
「いいえ。まあ、さして好き……というより、あまり家で出る料理ではありませんのでそこまでの好き嫌いも無いですが。実家は和食中心ですし。ですがまあ、涼子さんのカレーに関しては別ですね」
「そんなに凄いんですか、明美さん? お店で食べるような……お金が取れるレベルとか?」
そんな西島さんの言葉に、明美様はにっこり微笑んで首を振る。
「もし、涼子さんが『カレー屋始めようと思うんだ~。明美ちゃんも食べに来てね~』と言われれば、食べに行くどころか頼み込んで出資させて頂くレベルですね。お金が取れるの前提、むしろ出資できれば確実に儲かるでしょう。負ける勝負はしませんし、私」
横に。そんな明美様に、西島さんが愕然とした表情を浮かべて見せる。
「そ、そんなにですか?」
「ええ。まあ、好みがあるのでアレでしょうし、美味しければ売れるなんて単純に考えてはいませんが……まあ、出資云々はともかく、少なくとも今日来るメンツで一度でも食べたことがある人は皆、楽しみにしているでしょう」
違いますか? と問う明美様に首肯で返す。
「ええ。私も楽しみにしてきましたし。ですが……先ほどの表情では明美様、さほど楽しみでは無かったようですが……もしかして、涼子さんにはもっと得意な料理がある、とか?」
「涼子さんの料理はどれも平均的に美味しいです。ですが……カレーは別です」
「……」
「涼子さんのカレーは本当に美味しい。美味しいですが……良いですか? 私が先ほど言った通り、一度でも食べた人間が楽しみにする料理なのですよ? そして、その料理を恐らく誰よりも食べ続け、その成長を共にし――そして、最も楽しみにしているだろう人、誰だと思います?」
「……あ」
私の表情の変化に満足したように頷き――そして、煤けた表情を浮かべて。
「――『あー、やっぱ涼子のカレー、すげーうめー!! 天才だよな、涼子!!』なんて子供の様な表情ではしゃぐ浩之さん見せられたら……私にとっては麻婆豆腐イタリアンですが……浩之さんにとっては、涼子さんのカレーが『幼馴染の味』なんですよ。なんて言うんでしょう? その関係性を、こう……まじまじと見せつけられると……」
一息。
「――正直、心が折れそうです」
……で、ですね。それは……ちょっと、耐えられないかも知れない……




