第百七十話 甘やかしてあげたい人
「……っごほ……申し訳ございません、浩之さん」
「……気にすんな。別にお前のせいじゃねーよ」
我が家のリビングにて、俺は桐生が作った昼食をもぐもぐと頬張りながら、目の前で小さくなる明美を見やる。なんで居るかって? 桐生が、『一人も二人も一緒だから、明美さんも我が家で看病しましょう』と、隣の家から呼んできたのだ。
「……まあ、お互い良かったじゃ無いか。ただの風邪で」
朝一、明美と共に病院に直行して診察してもらったが、医者の先生曰く『ただの風邪』とのこと。安静にしてしっかり栄養を取れば直ぐに治るとの事だ。
「……彩音様も申し訳ございません。すっかり迷惑を掛けて」
「気になさらないで下さい、明美様。それに、二人も一人も一緒ですわ」
お玉を振りながら、『おかわりは?』なんて問いかける桐生に黙って首を左右に振る明美。
「いえ、大丈夫です。その、本当にありがとうございました」
「もうよろしいので? それではお薬を飲んで寝ましょうか。私のベッド、使って下さい」
「そ、そこまでは!」
「お願いですから。私が不安なので」
桐生の言葉に困った様に視線をきょろきょろと動かす明美。その姿を見やり、俺は小さくため息を吐く。
「……甘えておけ」
「……で、ですが……」
「良いんだろ、桐生?」
「勿論よ」
「だってさ。お前が隣でうんうん唸ってると思うと落ち着かねーんだよ、俺も桐生も。だからまあ、お言葉に甘えて置け」
「……分かりました。彩音様、済みません。ありがとうございます」
丁寧に腰を折る明美に桐生がにこやかに微笑み、そのまま視線を俺に向ける。
「明美様はだいぶ体調も戻ったみたいだけど……東九条君は今日一日、寝ていないとダメよ? 今は解熱剤の影響で熱は下がっているみたいだけど、そんなの一時的なモノだからね?」
「……おかんか、お前は」
「今日の私はお母さんです。明美様もですよ? ちゃんという事を聞いて下さいね?」
右手に持ったお玉を上げながら、左手を腰に当ててそう宣う桐生。何とも言えないそのコミカルな姿に、思わず明美と二人で見合わせてどちらからともなく噴き出してしまう。
「笑い事ではないのだけれど……まあ、良いです。ともかく! 二人とも食べたらしっかり寝て下さい!!」
「「はーい」」
桐生ママの『お小言』にもう一度二人で視線を合わせて苦笑をし、俺は茶碗に入ったご飯をかき込んだ。
◇◆◇
「……ん……」
カーテンの隙間から漏れる日差しに瞑っていた目を開ける。壁に掛かった時計に視線をやると時間は午後の三時。
「……三時、か」
頭は若干重いも、朝に比べれば随分マシだ。軽く頭を振って起き上がるとリビングに足を向ける。
「……おはよ」
「あら、おはよう。どうしたの?」
「……ちょっと喉が渇いた。水でも飲もうかと」
「お茶があるわ。冷たい方が良い?」
リビングのテーブルで本を読んでいた桐生が立ち上がり冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いでこちらに出してくれる。小さく頭を下げて礼を言い、俺はそれを一息で飲み干す。
「……旨い」
「おかわりは?」
「ちょうだい」
『はいはい』とコップにもう一度注ぐ桐生。今度は半分ほど飲んでテーブルにコップを置いて俺は桐生の前に腰を降ろした。
「明美は?」
「平熱になったから一旦家に帰られたわ。明日は京都に帰る予定らしいし、準備もあるって」
「……大丈夫なのかよ?」
「もうちょっとゆっくりしてからの方が良いとは私も思うけど……何時までも学校を休むわけにも行かないでしょう? それに、御実家の方が落ち着くのは落ち着くでしょうし」
「……ま、そりゃそうか」
距離的に不安は感じないでは無いが……そうは言っても何時までも此処にいる訳にもいかねーだろうしな。
「貴方はどうなの? 熱、下がった?」
「朝よりは随分マシだな。体感だが、八度は越えてない感じ」
「それでも本調子じゃないのでしょう? お茶を飲んだら寝なさい」
「いや、流石に寝れねーんだが」
朝からずっと寝っぱなしだしな。テストまでもう二週間切ったし、そろそろ勉強に励もうかと思ったんだが……
「……ちょっと勉強しようかと思うんだが」
「……なに馬鹿な事言ってるの。そんな状態で勉強しても覚えれる訳無いでしょう? こういう日はさっさと寝るに限るの」
「いや、まあそうなんだろうけど」
言ってることは分かる。こんな状態で勉強しても身に付かないだろうなって事は理解しているんだが……
「……若干不安なんだよな」
「……」
「なんつうか……勉強していないと落ち着かねーっていうか……気持ち悪い?」
この半月ほど勉強をしない日は無かったからな。平日も家に帰ってからは寝るまでずっと勉強してたし、休日は休憩挟みながらではあるが、それでもずっと勉強していたから。なんというか、歯磨きせずに寝るみたいな微妙な気持ち悪さがある。
「……気持ちは分からないでも無いけど……でも、ダメよ。今無理して勉強して体調が更に悪くなったら元も子も無いじゃない。こういう日はゆっくり休んで体調を整える事にしなさいな」
そう言って、何を思ったか桐生は立ち上がって椅子に座った俺の頭を優しく撫でる。
「……なに?」
「寝れないって言うから」
「寝れないって言うと頭撫でるの?」
「こう、『よーしよし』って頭撫でるとぐずってる子とかって眠りに付いたりしない?」
「……赤ちゃんか、俺は」
しかも背中じゃね、それ? 頭も……まあ、効果があるのかも知れんが。
「……」
「……なんだよ?」
「いえ……今まで何度なく貴方に頭撫でて貰ったじゃない?」
「……まあ」
「でも今まで貴方の頭を撫でる機会なんて無かったから……なんとなく、『お姉ちゃん』っぽいというか……ちょっと『もにょ』っとするわ」
少しだけ照れ臭そうに、それでいて嬉しそうにそんな事を言う桐生。口元がちょっと緩んだその表情に俺は。
「……さよけ」
……そこはかとなく恥ずかしいんだが。
「……うん。こういう時間もあっても良いのかもね」
「……」
「……ずっと貴方に甘えてばっかりだったから……今度は、私が貴方を甘やかしてあげたいわ」
「……結構甘えてる気がするけどな、俺」
「私の甘え量に比べれば全然よ。もっと私に頼ってくれても良いのに。言っておくけど、頼って貰えないのも寂しいんだからね? なんでも自分でされてしまっては、私が隣にいる意味が無いじゃない」
「……そういうつもりは無いんだが……でもまあ、うん。お前がそう言うなら、今後はちょっと気を付ける」
「……そうして」
名残惜しそうに俺の頭から手を外して。
「……さあ、それじゃこれからも隣にいる事が出来る様に、貴方はさっさと寝なさい! それで、テストを頑張って……」
すっと、私の隣に居てね、と。
「……一杯、甘やかさせてね、私に」
「……了解」
蕩ける様な顔で笑う桐生に苦笑を返し、降参の意味を込めて両手を上げてみせた。