第百六十七話 こんな状態で勉強できるほど、浩之君のメンタルは強くない。
開けた玄関の先で倒れているいる明美。目の前のそんな光景に一瞬、意識が飛ぶ。
「明美!!」
が、それも一瞬。直ぐに明美の傍に駆け寄ると、潤んだ瞳のまま明美がゆっくりと顔を上げた。
「あ……浩之……さん? どうして……?」
「どうしてじゃねーよ! お前こそどうしたんだ!!」
「ちょっと……食べるもの、家に無かったから買い物に行こうかと……」
目の焦点が合ってないまま、そんな事を喋る明美。一瞬躊躇するも、俺は右手を明美の額に当てた。
「……あ……ひんやりして、気持ちいい……」
「……熱あるな、こりゃ」
触っただけで分かる。完全に風邪ひいてるだろ、これ。
「……無茶ばっかりしてるからだよ」
毎週毎週、京都と此処を往復だもんな。明美の話によれば生徒会執行部もやってるらしいから、学校でも普通に忙しいんだろう。そりゃ、熱も出るわな。
「……誰のせいだと……」
「悪かった。俺のせいだよな。ほれ、立てるか?」
「……足に力が入りません」
「……」
……しゃーない。
「……苦情は受け付けねーぞ?」
「なにを……って、きゃ!」
背中と膝裏に手を回して抱き上げる。俗にいう、『お姫様だっこ』ってやつだ。
「ひ、浩之さん!?」
「立てねーんじゃしかたねーだろうが。そもそもこんな所で何時までも寝っ転がってる訳にも行かねーだろ? 部屋まで運ぶぞ? 良いか?」
「い、良いですけど……」
そう言いながら、恥ずかしそうに身を捩る明美。うお! あぶねえ!
「動くな! 落としちまうぞ! どっか掴まってくれ!」
「ど、どこかって……そ、それじゃ……」
おずおずと俺の首に手を回す明美。最初は軽く、徐々に強めに首に手を回す明美。
「……浩之さん?」
「なんだ?」
「……この体勢、キスできそうですね? しても?」
「良い訳ねーだろうが。つうか結構余裕だな、お前?」
笑おうとして、それでもしんどいのか顔を歪める明美。
「……しんどいならアホな事言ってないで寝てろ」
明美を落とさない様に慎重に明美の部屋の扉を開ける。室内は綺麗に整頓されていて、明美の几帳面な性格通りの部屋だった。まあ、京都の自宅もこんな感じだったし、別段の違和感は無い。
「……ベッド、寝かすぞ?」
「……はい」
「薬とか体温計は? あるか?」
「……その……」
「……無いんだな。家から持ってくる。病院……は、今日日曜日か。救急外来もあるけど……」
「……きっと風邪です。流石に救急に行くほどでは……」
「風邪は舐めたら怖いぞ?」
「……ですが……」
……まあ、一理あるが。救急も結構遠いし、歩いて行ける距離ではないしな。
「……取り敢えず今日一日様子見るか。腹は減ってるか?」
「……恥ずかしながら、少し」
「お粥ぐらいは食えるか……分かった、ちょっと待ってろ」
そう言って部屋を出ようとすると、後ろから明美の声が掛かった。
「あ、あの、浩之さん? だ、大丈夫ですよ? 体温計と風邪薬だけお借り出来れば、後は自分でなんとかなりますので! 浩之さん、勉強しなくちゃいけないでしょうし……」
振り返った俺の視線に入ったのは何処か申し訳無さそうな表情を浮かべる明美の姿。そんな明美に、俺は盛大にため息を吐いて見せる。
「……あのな? お前の事放っておいて勉強なんて出来ると思うか? 幼馴染で親戚だぞ? そりゃ、こっちにお前のお母さんとか居れば話は別だけど……頼る人間、居ねーだろうが?」
「……はい」
「なら、俺に頼っておけ。つうか、俺が心配で勉強なんて出来ねーよ」
本当に。隣の家で熱でうなされている又従姉妹放っておいて勉強できるほど俺、メンタル強くないし。つうか明美、俺の事どんだけ薄情なヤツだと思ってやがるんだ。
「……すみません、浩之さん」
「気にすんな。悪いと思うならさっさと治せ、馬鹿野郎」
「……野郎じゃないです」
「そんだけ軽口叩ければ大丈夫だな」
手をひらひらと振って明美の部屋を後にする。そのまま玄関を出て、さっき出て来たばかりの自宅に戻る。
「……風邪薬と体温計と……プリンとかなら食えるか? 流石にモンブランは厳しいよな?」
右手で冷蔵庫の中を漁りながら、左手でスマホをいじる。目当ての電話番号を出して電話を掛けるも……
「……繋がらないか」
カラオケ行くって言ってたしな、桐生。歌の最中じゃ気付かないだろうし……あいつの持ってた『カラオケの作法』って本じゃカラオケ中にスマホいじるのはNGだったから、真面目なアイツの事だ。カバンの中に放り込みっぱなしなんだろう。『明美が風邪引いたからプリン貰う』と短くメッセを送り、冷蔵庫の前で腕を組む。
「……ふむ」
飯を作ったり薬を飲ましたりはともかく、流石に体を拭いたりだったりの接触系は異性の俺では厳しいモノがある。桐生か涼子、或いは智美に頼むのがベストなんだが……全員カラオケ組だもんな、アイツら。
「……仕方ない、か」
あんまりこういうお願いはしたくなかったが……まあ、緊急事態だ。二人は知らない仲でもないし、良いだろ。
「……よし」
スマホをもう一度いじりながら俺は目当ての電話番号を呼び出し、そのまま通話ボタンを押す。二回、三回とコールが続き、五回目のコールで目当ての相手が電話に出た。
『もしもし? どうしました~? 珍しいですね、浩之先輩から電話なんて』
「あー……そっか?」
『そうですよ! もっと愛しの後輩に電話を掛けて来ても良いんですよ?』
「誰が愛しの後輩だ、誰が。まあいい。今、何してた?」
『今ですか? 家でゴロゴロですね~。練習も出来ないんで暇で暇で……NBAのDVD視てました』
「……っていうことは、予定はないって事だな?」
『? そうですけど……はっ! まさか、デートの誘いですか!? 行きます! 万難を排して必ず行きます!』
「排すほどの難はねーだろうが、DVD見てたくらいじゃ。つうかデートじゃねーよ」
『なーんだ。デートじゃ無いんですね。じゃあ、何の用ですか?』
詰まらなそうな電話口の声に、若干の申し訳なさを感じながら。
「……その……なんだ? ちょっと俺んち、来てくれないか? 今、誰も居ないし」
『……』
「……」
『……』
「……あれ? どうした?」
電話口で黙ったままの相手――瑞穂の行動に訝しんだ声を上げた俺の耳に。
『――っ!? ええええええええええええええええーーーーーーーーーーーぇぇーーーー!!!!!』
瑞穂の絶叫が響き渡った。あれ? 俺、なんか変な事言った?




