第百六十四話 フキゲンとゴキゲン
笑っているのに目は笑ってない、という器用な事をしながら俺を睨みつけていた明美だったが、それも数瞬、呆れた様にため息を吐いて俺の腕を引く。
「……まあ、今更浩之さんにそう言った事を期待しても仕方無いですので良いですが……それにしても、デリカシーが足りないのでは無いかと思います」
「……済みませんでした、ハイ」
「謝るぐらいなら最初からしないで下さい」
なんとなく、理不尽なモノを感じながらも『すまん』ともう一度謝ると盛大にため息を吐きながら明美が微笑んだ。
「……まあ良いです。それより、行きましょうか。遅くなりますし」
「そうだな。この時間はちょっと込むだろうが……」
まあ仕方無いか。そう思っていると明美が楽しそうに笑ったままで口を開く。
「良いですよ。待ち時間も浩之さんと一緒なら楽しいですし」
語尾に音符が付きそうなくらい機嫌を良くした明美はそのままスキップでも出来そうな軽やかな足取りで手を引いてエレベーターへ向かう。待つことしばし、上がって来たエレベーターに乗り込むと階下へ向かいそのままエントランスを抜けて外に出る。
「こちらはやはり暑いですね。まだ夏前なのに」
「京都は違うのか?」
「さして違いは無いですが……なんでしょう? 朝夕は若干肌寒い日もありますよ」
「……この季節に?」
「京都は盆地なので底冷えしますしね」
そうなの? そう思う俺に、明美は苦笑を浮かべて見せる。
「まあ、そもそも私が冷え性気味だと言うのもありますが。低血圧ですし」
「朝、弱いもんな、お前」
「最近はそうでも無いですが……それでも、そうですね。生徒会執行部の仕事もありますし、忙しいのは事実です」
そう言って小さく欠伸をして見せた後、俺の視線に気付いて恥ずかしそうに頬を染めた。
「も、申し訳ありません……は、はしたない所を」
「別にはしたなくはねーだろうし……つうか、今更じゃね?」
こいつの小さいときなんて寝相も悪かったしな。腹出して涎垂らして寝てる姿も見てるからまあ、欠伸くらいではなんとも思わんが。
「……まあ、そうなのですが……乙女として、殿方の前で欠伸は少しばかり恥ずかしいのです」
「そうか? 智美なんて結構してるぞ?」
「智美さんは『乙女』ではないでしょう?」
「……遠慮ないよな、お前」
まあ、こいつらも幼馴染といえば幼馴染だし……分からんでも無いが。
「にしても、大変だなお前も。毎週毎週京都とこっち、往復するのも大変だろう?」
「……」
「……なんだよ?」
「いえ……随分、他人事だな、と。誰のせいだと思っているのですか、誰の。折角往復しているのに、浩之さんは遊んでくださらないし……往復損じゃないですか、私」
「……済みません」
そうですね。俺のせいですね。
「……冗談です。確かに浩之さんのお目付け役も兼ねていますが、当然それだけではありません」
「……そうなの?」
「東九条の本家の事業は資産運用と言ったでしょう? その一環で、地方都市の物件を幾つか狙っていたのですよ。この街は浩之さん達の分家もありますし、何かあれば助けにもなれるでしょうし」
「……資産運用の一環であの部屋買ったのか?」
「ええ」
「……なんで?」
いや、マジで。俺の勝手な推測だが、何を好き好んでこんな片田舎にマンション買わなならんのだ。それだったらお前、もっと良い所にねーか、物件? それこそ東京とか大阪に。
「無い訳では無いですが……でもですね? むしろ今はこういう所の物件が狙い目なのですよ」
「……そうなの?」
俺の言葉に頷いて。
「――知りませんか、浩之さん? もうすぐ、未来の世界の狸型ロボットが開発されるんですよ?」
「……」
「……」
「……」
「……冗談ですよ?」
「……だよね?」
良かった。わざわざ溜めてまで何を云うかと思えば……未来の世界の狸型ロボットって。
「つうか、アレだって開発されるのまだ百年ぐらいあるんじゃね? 何処がもうすぐだよ」
「東九条の更に本家は八百年続く家ですよ? 百年なんて充分『もうすぐ』ですよ」
「……流石、京都」
アレだろ? 京都って百年続いた店でも『老舗』っていうと白い目で見られるんだろ? 『百年ぐらいで何処が老舗だ!』って。
「まあそれはともかく、今は働き方改革などでリモートワーク、つまり在宅勤務を導入する企業が増えています」
「……聞いたことはあるな、それ」
「在宅で勤務が出来るとなれば、無理に家賃や物価が高い東京や大阪に居を構える必要はありません。インターネットでなんでも買える時代ですしね。それに、こういう所の物件は総じて安いので、借入をしなくても自己資金の範囲で買えますので」
「まあな」
そう言われて見れば確かに。家で勤務が出来る時代になれば、別に東京や大阪に住む必要ねーのか。結局、通勤の為に住んでるって意味もあるしな、ああいう所って。
「そういう訳で、地方都市の物件を常々狙っていたのですよ。いい機会ですので私が来ましたが……なのに、浩之さんは全然、遊んで下さらないですし!」
「……悪かったよ」
「……まあ、今は一生懸命勉強を頑張っていらっしゃるので仕方無いですが……それで? 学業の方はどうなのですか? 順調に進んでいますか?」
少しだけ心配そうにこちらを見やる明美。
「……なんだ? お前的には失敗してくれた方が良いんじゃねーのか?」
「馬鹿にしないで下さいますか? 個人的には許嫁を認めていませんし、認めるつもりもありませんが」
一息。
「一生懸命頑張っている人間を貶めたい、とは思っていません。浩之さんの成功を願っていますよ、心から」
「……わりぃ」
「本当です! そもそも邪魔をするつもりなら、毎日毎日、夜討ち朝駆けを仕掛けて勉強なんかさせません!」
「マジで勘弁しろよ、お前!」
「しませんよ。そんな事をしたらはしたない処の話ではありませんし。ただ……私はやる時はやる女ですよ?」
「……此処でその情報は要らないんだが……まあ、なんだ。勉強か? その……お陰さまでまあ、そこそこ調子が良い」
「あら。そうなのですか?」
「今までしてなかったからちょっと理解しただけですげー理解した気になっているのはあるが……でも、出来て来ているって実感はあるな」
「……なるほど。成功体験を重ねる事で自信につながっていますか」
「そんな大げさな話じゃねーが。まあ、そんな感じである程度成績は取れると思うが……」
「懸念事項が?」
「……日本史がな」
「日本史……」
「他の教科は涼子が予想問題とか作ってくれているからアレだけど、日本史だけはどうしようも無くて。選択が俺だけだし……まあ、テスト範囲にある年号と単語を丸暗記かな、とは思っている」
大学試験とか実力テストでは無理だろうが……定期テストの中なら、なんとかなりそうだし。
「……あまりお勧めできる方法では無いですね、それは」
「……分かってるよ。でもまあ……時間も無いしな」
「試験範囲は?」
「奈良の後半から平安時代」
「……」
「明美?」
腕を組んで考える様な仕草を見せる明美。それもしばし、明美はうん、と一つ頷くと俺に視線を向けた。
「ねえ、浩之さん? 今日のラーメン、奢って貰えませんか?」
「ラーメン? そりゃ……まあ、別に良いけど」
そもそも俺のせいでこっちに週末通うようになっているし、その癖全然相手にもしてやれてないしな。飯を奢るくらいはやぶさかでは無いが。
「ありがとうございます。では、浩之さん? お礼に私が日本史を」
――教えて上げましょうか、と。
「……まあ、『この方法』で出来るかどうかは浩之さん次第ですが」
そう言って明美は楽しそうに笑った。