第百六十二話 この夢を叶えるのは、貴方。
んー、と大きく伸びをする。目覚まし時計は八時半を指し、何時もなら『ヤバい! 遅刻!』と焦るも……今日は土曜日、そんな事もなくゆったりとした目覚めを迎える。くわぁ、と欠伸をひとつ、腹をポリポリと掻きながらリビングへ。リビングからはコーヒーの良い匂いが漂っていた。
「……おはよ」
「おはよう、東九条君。お寝坊さんね?」
クスクスとそう笑って桐生が『コーヒー、飲む?』と聞いてくる。そんな桐生に俺はこくりと頷いてリビングの椅子に腰を掛ける。
「……早いな?」
「早く無いわよ。今日は十時から涼子さんと智美さんとお出かけだから、そろそろ起きて無いと不味いでしょ? 女の子には出掛けるのに準備がいるんです」
「お出かけ?」
「言ったでしょ?」
そんな桐生の言葉に記憶を探っていくと……おお。
「服買うって言ってたっけ?」
「服に限った話じゃないけど……まあ、何か良いモノがあれば購入を考えているわ。部屋もちょっと殺風景だし、何か潤いのあるものでも買おうかしら?」
「潤い、ね~。アイドルのポスターとか?」
「……私が部屋にアイドルのポスター張ってたらどう思う?」
「……キャラに合わないとは思う」
「でしょ?」
『そんなものは潤いにはなりません』と苦笑を浮かべて言って、桐生がリビングの椅子から立ち上がる。どうした?
「もう準備するのか?」
「流石にまだ早すぎるわよ。朝食、要るでしょ?」
「……作ってくれるの?」
「作るって言っても目玉焼きとベーコンを焼いてトースト出すくらいだけど……それでも良ければ」
「充分。さんきゅーな」
「これぐらいはね」
隣の椅子に掛けてあったエプロンを着ながら、エプロンのポケットに入ったヘアゴムを口にくわえて、髪を一纏めにしてポニーテールにする桐生。その姿を見ながら。
「……なんか、良い」
「へ? ……! な、なに馬鹿な事言ってるのよ!!」
ポロっと漏れた俺の言葉に、桐生が顔を真っ赤にして言葉を発す。い、いや、ちゃうねん!
「い、いや、違うくて! ち、違わないんだけど……こう、今お前がやったその仕草ってのはなんというか、その、男の憧れ的なモノがありましてですね!!」
……好きな人、多いと思うんだけどな。先生、怒らないから言ってみな? 咥えゴム、好きだよね?
「……も、もう……こ、こんなのが良いの?」
「……なんだろう。良く考えたらすげーどうでも良いシチューエーションの気もするんだが……なんか良いんだ」
「哲学?」
「多分、違う」
正直、何が良いのか全然分からない。分からないんだが、『なんか良い』んだよ。
「……はあ。まあ良いわ。ちょっとは可愛い……のかな? 良いって思ったって事でしょ?」
「ちょっとどころかだいぶ」
「……あぅ。そ、それじゃ許してあげる。う、嬉しいし。さ! それじゃ朝食、食べましょう!」
いそいそとキッチンに向かう桐生。怒らした、或いは気持ち悪いと思わせたかと少しだけ不安になったが……口元がもにょもにょしている辺り、そこまではネガティブでは無いのだろう。
「お待たせ。出来たわよ」
程無くして、桐生が皿に乗ったベーコンと目玉焼き、同じく別皿に乗ったトーストを持って席に着く。目の前に供された食事に俺の腹が『ぐー』となった。
「お腹、空いてたの?」
クスクスと笑う桐生に頭を掻きながら頷き、両手を合わせて『頂きます』のポーズ。そのままベーコンを口に運ぶ。
「……ん。旨い」
「ありがとう……と言いたいところだけど、ベーコンと卵、焼いただけだから。ほら、『焼く』は私が持ち合わせた唯一の料理スキルだったでしょ?」
「最近、なんでも出来る様になったしな、お前」
「そうでもないけど……でも、お料理もやってみると意外に楽しいのよね。新しいモノが作れるようになると嬉しいし……」
それに、と。
「……『美味しい』って言ってくれる人が居ると……張り合いにもなるし」
少しだけ恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに笑う桐生。そんな桐生に微妙に気恥しくなり、俺は視線をついっと逸らす。
「……照れてる、東九条君?」
「……まあ……若干。ちなみにお世辞じゃないからな? 最近、本当に美味いし」
……いや、よく考えれば最初に出て来たステーキも腹が立つくらい美味かったが……そういう事では無くてだな?
「ふふふ。最初の料理がステーキだったからね。それに比べれば随分成長したわ。掃除も洗濯も出来るし……どう? こんな私は?」
「……顔良し、頭良し、性格良しで家事も出来るんだろう? 優良物件じゃね? 良い奥さんになれるぞ」
俺の言葉に、再び桐生は嬉しそうに笑い。
「――いいわね。なりたいな、お嫁さん。夢だな~」
悪戯っ子の様な視線を俺に向けて来る。あー……
「な、なれるんじゃね?」
「本当? 本当にお嫁さんになれるかな、私? 一生独り身とか、いやだよ?」
「……その……なんだ。が、頑張る」
こう言うしかない。そう思い、髪をくしゃくしゃと掻きむしる俺に、桐生は楽しそうに笑って口を開く。
「……うん。頑張って。無責任だと思うし、勝手な事言ってるのは百も承知だけど」
――貴方じゃないと、私の夢は叶えられないんだからね、と。
「……任せとけ」
「うん! 任せておく! 大船に乗ったつもりでいるから……お願いね、東九条君!」
そう言って笑う桐生は今まで一番、可愛く見えた。