第百六十一話 勉強会終わりのこの若妻感。
涼子との勉強会が終わり、家路に着く。心地よい疲労感と、なんとなく『理解した』と思える高揚感のまま家のドアを開けると中から良い香りが漂って来る。
「ただいま」
「お帰り、東九条君。今日はクリームシチューよ。すぐに出来るからもうちょっと待って。あ、お出迎え出来なくてごめんね」
長い髪をリボンで結び、エプロン姿の桐生がお玉を振りながらこちらに笑顔を向けて来た。その姿に、思わず息を呑んでしまう。
「? どうしたの?」
「……気にするな」
……なんとなく、漂う『若妻感』にぐっと来たなんて言えない。そう思い、俺は無理矢理に作った笑顔を浮かべて見せる。
「……つうか悪いな、ここ最近いっつも晩飯作って貰って」
「それこそ気にしないで。私に出来る事はこれぐらいですもの」
笑いながらそう言って小皿に入れたシチューを味見。『ん、上出来!』と嬉しそうに微笑んで、桐生はコンロの火を止めて鍋に向けた視線をこちらに戻す。
「出来たわ。バケットを買って来てるから、今日はシチューとパンで良いかしら?」
「勿論。すげー腹減ったし、直ぐ食べたい」
「はいはい。分かりました」
笑顔を苦笑に変え――それでも嬉しそうにシチューを皿に注ぐ桐生。『手洗いとうがい、してきなさい』とまるで母親みたいな言い草に俺も苦笑を浮かべて素直に指示に従う。洗面台でうがい、手洗いを済ましてリビングに戻ると、そこには皿に注がれたシチューとバケットの盛られた皿が鎮座ましましていた。
「……旨そうだな」
「美味しいわよ! 本当はサラダでも作ろうかと思ったんだけど……ごめんなさい、ちょっと時間が無くて」
「何がごめんなさいだ。こちらこそごめんなさいだろ? いつも済まん」
「それは言わない約束ですよ、おとっつあん」
「誰がおとっつあんだ、誰が」
クスクスと楽しそうに笑いながら、『さあ、召し上がれ』という桐生に頷き、俺は椅子に座って手を合わせる。バケットと共に食べても良いが、まずはシチューからと口を付けて。
「……うめー」
「ふふふ。ありがとう。自信作……と言いたいけど、涼子さんのカレーとは違って、ルーは市販のものだから。失敗なんてする方が難しいわよ」
「この間まで『焼く』しかスキルが無かった癖に」
「それは言わない約束だってば。でも、涼子さんに教えて貰ってちょっと開眼したの。『彩音ちゃん、実験は出来るでしょ? 料理は実験と同じだよ?』って」
「……なに? 爆発するってこと?」
「そうじゃないわよ! そうじゃなくて……正しい分量を、正しい手順で、正しい時間をかけて作れば失敗しないらしいわ、料理って」
「レシピ通り作れって事か?」
「ざっくり言えばね。でも、『理科の実験』って聞いてなる程と思ったのよね。レシピ通り作るでも意味は分かるんだけど……なんとなく、イメージが湧きにくかったから」
「……オリジナル要素入れたり?」
「……こないだのポトフは悪かったわよ。でも、そうね。理科の実験でオリジナリティとか出さないものね。そう思ったら、レシピ通り忠実に作る事にしたのよ」
ここ最近、美味いモノ出て来るな~と思っていたが……なるほど、涼子の助言か。
「そういうことよ。だからまあ、最近は失敗しないわね。良い事でしょ?」
「だな」
毎日美味しいご飯が食べられる事に感謝だ。俺もだけど、桐生も世話になってるし……今度、改めて御礼しなくちゃな。
「それで、どうだった?」
「どう、とは?」
「涼子さんとの勉強会よ。勉強になったかしら?」
「そうだな。あいつ、元々教え方は上手いし、対策プリントまで作ってくれてたから。すげー分かりやすかったぞ?」
「へぇ……涼子さんの作ったテスト対策プリント、ね。後でちょっと見せてくれる?」
「良いけど……お前、要るの?」
成績自体は桐生の方が良かっただろ? つうか、入学以来ずっと学年トップだし。
「常に十番以内に居る涼子さんが作ったプリントですもの。気にはなるわよ、それは。それに上の十番なんてテスト問題がちょっと違えば簡単に順位が変わるわよ?」
「ずっと一位じゃ無かったか、お前?」
「私はほら、勉強ぐらいしかすることが無かったから。だからまあ……今回はちょっと危ないかも知れないわね」
順位が下がるかも知れない、と話しているのに楽しそうに笑う桐生。そんな桐生に肩を竦めて見せると、桐生が不満そうに唇を窄めさせた。
「……なんだよ?」
「……聞いてよ。『なんで?』って」
「……なんで?」
俺の言葉に、嬉しそうに胸を張り。
「――だって、友達が出来たんですもの!」
「……はいはい」
友達が出来て、毎日楽しいから勉強の時間が減るんだろ? 分かりましたよ。
「ふふふ。まあ、成績を落とすつもりは無いけど……それでも、試験勉強を誰かと出来るのは嬉しいわ。智美さんと約束もしたし」
「マジか。あいつ、俺のライバルになりかねんからな。手加減して教えてやれ」
「……もう」
苦笑を浮かべた後、少しだけ視線を下げる桐生。どうした?
「……本当は私が貴方に教えて上げたかったんだけど……」
「……う」
いや、俺だって……と、いうと涼子に失礼か。それでも、桐生にも教えて貰いたいと思ってるよ、うん。でもまあ、桐生のあの調子じゃ集中出来ないのもあってだな?
「……その……」
……とはいえ、寂しそうにしょんぼりしている桐生を見ると、なんとなく申し訳なくなってくる。そう思って言葉を継ごうとした俺に、桐生は慌てて言葉を継いだ。
「分かってる! 私自身、落ち着いてないな~と思ってたから! まるで、ご主人様の邪魔をする猫みたいだったし」
「……」
「……なに?」
「……いや」
『ご主人様の邪魔をする猫』って。脳内で『構ってにゃ! 寂しいにゃ!』とか喋る桐生がイメージされてしまった俺、悪くないよね?
「だから……勉強は涼子さんにお願いする。でもね、でもね? 分からない事があったらいつでも聞いてね? 私、頑張って教えるから!」
そういう桐生に苦笑を浮かべ、机の向かい側の桐生に手を伸ばしてその頭を撫でる。
「……分かってる。それに、今でも充分助かってるから」
「……でも、私はもっと貴方の助けをしたいもん」
「充分だって。それに……まあ、なんでもかんでもお前に頼るのもどうかと思うしな。涼子に頼っておいて何を今更って感じだが……ともかく、頑張ってみるさ」
そんな俺の言葉に。
「うん!」
そう言って笑った後、それでも照れくさそうな顔を浮かべて見せる。
「どうした?」
「その……頑張って欲しいんだけど」
もじもじとしながら、上目遣で。
「……頑張って欲しいし、邪魔してる気もするんだけど……もうちょっと『なでなで』は続行でお願いします」
ん、と頭を突き出して来る桐生に苦笑を浮かべながら、俺は優しく桐生の頭を撫でた。