第百四十九話 貴方が嫌いな、貴方の事が
俺を射貫き、俺の心まで射貫きそうな真摯な瞳で見つめてくる桐生。そんな桐生に、俺は小さくため息を吐く。
「なんでそこまでって……そりゃ、するだろうが。それとも何か? 明美の言う通り、さっさと諦めた方が良かったか?」
この言い方は意地が悪い。自身でそう思いながら放った言葉に、桐生は首を左右に振る事で応えた。
「そ、そんな事はない! そんな事はないけど……」
言い淀み、俯く。足元を見つめる様に視線を下に落とす事しばし、桐生はその視線を上に向けて俺に合せる。
「その……東九条君、勉強嫌いじゃないの……?」
「まあ好きな部類じゃねーな」
どっちかって言うと体動かしてる方が好きだし。室内でお勉強なんて正直勘弁、とは思ってるよ。
「……」
「……」
「……私」
「……ん」
「私……」
そこまでして貰う価値、あるのかな、と。
「……明美様の言った通りなのよ」
「……」
「……別に、東九条君じゃなくても良かった。『東九条浩之』じゃなくても良かった。ううん、『東九条』である意味すらなかった。名家で、名門で、社交界で恥をかかない、成り上がりと馬鹿にされない、私自身の能力を、『家』というフィルターを通さずに認めて貰える程度の家格であれば、それで良かった」
「……そうだな」
確かに言ってたもんな、お前。
「……明美様の言う通りなのよ。本当に、私の動機は不純で、不潔よ。誰がどう考えても、私は貴方に相応しくない」
「……そうか?」
「そうよ。私は……貴方に相応しく無いのよ。だって、初めが不純だったから。動機がいい加減だから。だから……だから!」
「……今度はだからばっかりだな」
もう一度、深くため息を吐く。その姿に呆れたとでも取ったのか、桐生の肩がびくりと震えた。怯えるなよ。怒って無いから。
「……まあ、確かに最初の動機は不純だったかも知れん。知れんが別に……それはそれで良いんじゃね?」
「……」
「入り口がダメだから全部ダメ、なんてそんな乱暴な話はねーよ。実際、あの時の桐生ならああいう反応をするのが当然だしな」
いきなり許嫁が出来ました、だもんな。俺だってまあ、人の事は言えんし。
「……だからまあ、それはそんなに気にすることねーんじゃねえか?」
「……そう、かな? でも……」
「言い方を変える。気にすんな」
「……うん」
「俺は……まあ、お前との生活が悪くないと思ってる。いいや、悪くない、じゃないな。楽しいと思ってるよ。手放したくないと思ってるよ。だからまあ、それを奪われるのはイヤだから、俺は一生懸命努力するんだよ」
「……私との生活は、楽しい?」
「ああ」
「……私、結構面倒くさいよ?」
「まあ……それは認めるけど。でもな? お前は努力家だろ? 誰に何を言われても、誰に何をされても、それでも前だけ見て歩んで来ただろ?」
「……」
「俺は……まあ、なんだ? お前のその生き様が美しいと思う。尊いと思う。格好いいと思う。だから……そんなお前の傍に居たいんだよ」
「……」
「……」
「……私……そんなに、綺麗じゃないよ?」
「……桐生?」
「私……そんなに尊くない。格好良くもない」
「……」
「……私はなんでも一人で出来ると、そう思っていた。事実、なんだって一人で出来てきた。強いんだって、負けないんだって、誰にも……劣る事はないって。努力して、努力して、努力して、そうして私は『強く』なったんだって、そう思った」
でも、と。
「……全然、そんな事は無かった。私、全然強くなんて無かった。今日だってそう。貴方が明美様の部屋から出て来たのを見て、明美様の顔を見た瞬間、胸が潰されそうになるほど苦しかった。悲しかった」
「……」
「今日だけじゃない。貴方が誰かと話すだけで、ずっと苦しかった。誰かに笑いかけるだけで、ずっと寂しかった」
「……桐生」
「……なんでも一人で出来るって、なんでも一人でやれるって、強がって、頑張って来たのに……本当の私は、こんなものだもの」
「……」
「最初は貴方なんてどうでも良いって言っておきながら、今では貴方がいない事が、居ないと想像することすら辛い。さっきも『なんで?』なんて言いながら……明美様の傍に居る方が、きっと貴方は幸せになるって、苦労なんてしなくて済むって、そう思いながら」
――それでも、傍に居てくれる努力をしてくれる貴方が。
「それが……たまらなく……本当に、たまらなく……嬉しいの」
何時しか桐生の瞳に涙が溢れていた。
「……私は……私は自分が情けない。格好悪い。貴方にそう思って貰えるほどの価値があると、私には到底思えない」
だから、と。
「――私は、私が嫌い」
涙を零しながら、そういう桐生。そんな視線を受けて。
「……はぁ」
俺は盛大にため息を吐いて見せる。
「……お前の言い分は分かった」
「……」
「お前がお前の事が嫌いなのは……まあ、百歩譲って良いよ。でもな? それを俺に押し付けるなよ」
そう言って笑って桐生の頭を軽く小突く。コン、と軽い音を立てた拳と頭の音に少しだけ驚いた様に桐生が顔を上げた。
「……お前がなんと言おうと、俺はお前の生き様を格好いいって思ったんだ。隣で、支えてやりたいと思ったんだ。隣に並んで、支えて貰いたいと思ったんだ。苦しい事や辛い事、悲しい事があっても、お前と一緒だったら、きっとやり遂げられると思ったんだ」
「……東九条君……」
「お前の価値をお前が決めるな。そんなもん、自分で値決めするものじゃねーよ」
それでも。
「それでも……もし、お前が」
お前が、自分の事を嫌いだっていうのなら。自信が無いと、自分なんてと言うのなら。
「お前が、自分の事を嫌いだと言ったとしても」
――俺は、東九条浩之は。
「そんなお前が。お前が嫌いなお前の事が――」
――喉から出掛かった言葉を、かろうじて止める。
「……止めた」
「……え?」
「これ以上は言わない」
「な、なんで? わ、私が嫌いな私の事を、東九条君はどう思ってるの? お、教えてよ!」
「ヤダよ。ぜってー言わない」
俺の言葉に、先ほどまで涙を見せていた桐生が少しだけ視線に険を増してこちらを睨む。
「……なに? 言わなくても分かれって事? 言葉にしなくても良いだろうって、そういうの? イヤよ、そんなの! 言葉にしてよ!」
少しだけ拗ねた様に――それでも、期待する様にこちらを見やる桐生に苦笑を浮かべる。
「そうじゃねーよ」
「じゃ、じゃあ!」
言い掛けた桐生を手で制し。
「俺はまだ、何も為してない。だから――今の状態では何も言えない」
「……あ」
「今の状態で、お前にこの先を言うのはなんか違うだろう。だから、今の状況では何にも言えないよ」
「……うん」
「……この先は俺が明美に認められて……じゃねーか、許されてからだ」
「……うん、うん」
「不満か?」
「……ううん。楽しみに……」
――待ってる、と。
「……おう。期待しておけ」
「うん……凄く、凄く期待している」
「必ずこの先の言葉をお前に伝えられるように」
……もしかしたら、馬鹿げていると思うかも知れない。さっさと言ってやれと、そう思うかも知れない。
「……東九条君……ありがとう」
でも、そんな俺のある種の『けじめ』を受け入れてくれ、笑顔を見せてくれる桐生に、俺も笑顔を浮かべて。
「――頑張るさ。お前の隣にいる事が出来る様に、な」
返答は無かった。
「――っ!! 東九条君!!」
俺の胸に飛び込んで来た桐生を、俺は優しく抱き留めた。