第百四十一話 あいのこくはく
どちらかと言えば、いつもニコニコと笑っている明美。だが、この笑い方は……まあ、長い付き合いだ。大体分かる。
「……明美」
「はい?」
「……お前……なんか怒ってる?」
隣で少しだけ怯えた様な顔をする桐生に視線をチラリと向けた後、明美はにっこりと微笑んで。
「無論、怒ってますよ?」
「……」
「先ほどはああ言いましたが、正直おじ様は渡月橋から桂川に突き落としたい気分です。無論、水位の低い時に」
「……」
「……まあ、それは冗談ですが」
「……冗談じゃないだろ」
「冗談です。ともかく……正直、あまり気分は良くありません。正直、最悪と言って良いでしょう。無論、浩之さん。貴方にも怒ってますよ?」
「俺?」
「ええ」
そう言ってじとっとした目を向ける明美。
「――結婚の約束していたじゃないですか、私と」
「え!?」
明美の発言に驚いた様に顔を上げて視線をこちらに向ける桐生。いや、結婚の約束って。
「……保育園の時の話だろうが、それ」
まあ、確かに……『ひろゆきさん、わたしとけっこんしてください!』とは言われたし、頷いた記憶はあるよ。あるけどさ!
「いつ、は関係ありません。まあ、その時から涼子さんや智美さんともご結婚の約束をしていたとお聞きしていますが……」
「……だから保育園の時の話だろうが」
本当に。子供同士の話だろ、それ。
「……ですが、いつか浩之さんが私をお嫁さんにして下さると信じて私は自分磨きに精を出したのですよ? ほら」
そう言って立ち上がって着物姿でくるりと一周してみせる。なに?
「……どうした、急に? 嬉しいの?」
小躍りしたの?
「なんで嬉しいと一周回るんですか。そうではなく……この着物、似合ってませんか?」
「……まあ」
元々顔立ちは良いヤツだし、和装も似合うのは似合う。つうかこいつ、私服も和服多いしな。
「浩之さんが『大和撫子が好き』と仰るので、着物の着付けも完璧ですよ? 家事も一通り出来ますし、料理の腕も磨きました。それは全部、浩之さんの為ですよ? 無論、それだけではありません。私と結婚するとメリットもあります」
メリットって……
「……なんなの? お前、俺と結婚したいの?」
そんな俺の言葉に、首を傾げて。
「当たり前でしょ? 私は浩之さんと結婚したいです」
「そうか。俺と結婚したいのか。それ――」
……。
………。
…………。
「……――マジ?」
「……なんですか、それは。信用できないと?」
「いや、信用できないって言うか……」
まあ、正直又従姉妹にしては仲は良かったと思うし、茜から聞いた話では明美のお父さんは俺を明美と結婚させたい節がありそうなのは分かってはいたが……
「……お前、俺に無茶苦茶厳しかったじゃん」
『東九条の人間としてしっかりしなければなりません』とか『東九条の人間なのですよ? もう少し、勉強して下さい』とか……怒られた記憶しかないんだが。さっきだって『浩之さんに桐生家の事業を継ぐなんてむり、ぷぎゃー』って言われたし。そう思い、胡乱な目を向ける俺に、明美は気まずそうに視線を逸らす。
「……厳しくはしましたが……べ、別に怒っていた訳ではありません。浩之さんに、こう……自覚をですね?」
「……まあ、それは分からんでも無いが」
怒られてはいたが、別段イヤな感じはしなかったし。なんというか……母親に怒られてる感じが近い。心配、というか。
「……分かって頂ければ幸いです。まあ……確かに、照れ隠しで素直になれなかったのは私のせいです。ですので、改めて此処で言わせてください」
そう言って、潤んだ瞳でこちらを見つめて。
「――お慕いしています、浩之さん。狂おしいほどに、貴方が好きです」
「……」
「私は色々と頑張ってきました。それは全て浩之さんに気に入って貰う為です。なのに……それを横から掻っ攫われたら、いい気分はしません。ああ、彩音様、失礼しました。別に彩音様を責めている訳ではないですので」
「いえ……」
少しだけ困惑気味の表情を浮かべる桐生。そんな桐生を一瞥し、明美は俺に視線を向ける。
「だから浩之さん」
私と結婚して下さい、と。
「私と一緒に、東九条の家を盛り立てて行きませんか? というか、行きましょう。それが浩之さんにとってベストです」
「……いきなり過ぎだろう、おい」
「許嫁なんて出てきたらなりふり構っていられません。それに浩之さんだって、桐生家の事業を手伝う自信はないのでしょう?」
「それは……まあ」
いや、桐生。そんな絶望に染まった顔をしないで。自信は無いけど、やらないとは言ってないから! 頑張るから!
「……それに桐生の家の事業はともかく……俺、そういう……なんて言うの? 社長業? そういう教育は受けて無いぞ?」
桐生家の事業もだが、東九条の家業も継げる気はせんのだが。
「大丈夫です」
「なにが?」
「これから、私と結婚した場合のメリットを提示します。プレゼン、ですね」
そう言って明美は指を二本立てる。いや、プレゼンって。
「東九条の大きな仕事は二つです。一つは名義貸し、一つは資産運用です」
「……名義貸しと資産運用だ?」
「はい。何かの団体を設立したり、或いは団体の代表が変わった際に東九条の当主として名義を貸すのが大きな仕事です。『名誉総裁』とか『名誉会長』とか、聞いたことありませんか?」
「……あるな」
「無論、開会や閉会、或いはパーティーなどに出席する事はありますが……言ってはなんですが、別段責任が発生する仕事ではありません。それで、お給金が出ます」
「……ボロい商売だな、おい」
「本当に。最低限、礼節さえ弁えていれば高校生でも出来ます。実際、私もいくつかの団体の名誉会長ですし。まあ微々たるものですが、謝礼も出ます」
「……マジか」
「と言っても名前だけですが。ある程度、利用価値があるのですよ、『東九条』の名は」
「資産運用ってのは?」
「そもそも京都と大阪、それに東京に所領を有してましたので。接収もありましたが、維新当時の当主は自身に経営の才覚が無い事を分かっていたので、有望な人間に投資をしたり、土地を貸したりしていたのですよ。その投資した会社が大きくなって上場して配当が出たり、土地の上にホテルが立って賃料が入ったりしてますので……それが百年続けばまあ、一財産になります」
「……それを運用してるって事か?」
運用なんて出来ないんですけど、俺。
「運用は全て海外のPB、プライベートバンクに任せています。日本円でも保有はしておりますが……日本の場合、銀行や証券、信託や不動産ではファイアーウォールなどの規制があって一元的な管理が出来ないので。煩わしいので預けっぱなしです」
「……」
「こちらの基本的な仕事は上がって来た収支報告書に目を通すぐらいですね。それだって素人が口出ししても碌な事にはならないのでPBに任せっぱなしですし」
「……暇じゃん」
「暇です。正直、こちらは小学生でも出来ます」
「……」
「なので、私と結婚すれば随分と楽が出来ます。本家の大きさ、ご存じでしょう? あくせく働くことなく、あの家でのんびり暮らしましょうよ、浩之さん。難しい事なんて何にもありません。ああ、強いて言うなら子供は必要ですが」
そう言ってにっこり笑い。
「私、綺麗になったと思いませんか?」
「……まあ」
「これ全部、浩之さんの為ですよ? 浩之さんに気に入って貰いたい、浩之さんの好みの女の子になりたい……その一心で磨き上げたのです。だから」
私は全部、浩之さんのモノですよ、と。
「だ、ダメーーー!」
思わず見とれる様な妖艶な微笑みを見せる明美に、桐生の声が割って入る。
「何がダメなのですか、彩音様」
「だ、だって! ひ、東九条君は……わ、私の許嫁よ!」
「いいえ、違います。私が認めませんから」
「そんなの――」
「それに……彩音様? 私は貴方にも少しだけ、怒っています」
「――って……え? わ、私にですか?」
「ええ。ああ、無論、浩之さんの許嫁になった事ではありません」
「え、ええっと」
「先ほどから聞いておりましたら……彩音様は浩之さんが許嫁のままが良いと、そのように聞こえますが」
「え、えっと……そ、それは……」
頬を真っ赤に染めてこちらをチラチラと見た後、コクンと頷いて見せる。そんな桐生を一瞥して首を傾げて。
「――なぜ?」
「え? な、なぜ?」
「そもそも、望まぬ許嫁だったのではないのですか? ならば、別に浩之さんじゃなくても良いですよね?」
「そ、それは……」
「桐生家が求めるのは『東九条』……だけでは無いかも知れませんが、『名家の血』でしょう? ならば浩之さんじゃなくても良いのではないですか?」
「……」
「……まあ、一緒に暮らして数か月、ですか? その間に情が沸いたというなら話も分かりますが」
そう言ってチラリとこちらを見やる。
「……彩音様。賀茂涼子さんと、鈴木智美さん、或いは川北瑞穂さんをご存じで?」
「……ええ」
「あの三人であれば……祝福は出来かねますが、まあ理解と納得は出来ます。幼い頃から浩之さんを慕っていたお三方であれば、拍手の一つぐらいは送るのは……非常に悔しいですが、まあ、やぶさかではありません」
「……」
「ですが、貴方に横から奪われるのは納得が行きません。なぜなら、貴方は『浩之さん』ではなく、『東九条』しか見ていないからです」
「そ、それは!」
「勿論、今は違うという反論もあるでしょう」
「……はい」
「私は所謂一目惚れを否定はしませんし、恋愛は先着順では無いと思っています。貴方が真に浩之さんに惹かれて、婚姻を結びたいと言うなら、一考の余地はあります。ですが、貴方は違うでしょ?」
「……」
「そうです。貴方は、最初は『東九条』の血だけが欲しかった。なら、私達とは入り口が違う。言わば」
貴方の動機は不純です、と。
「……」
「別に、浩之さんじゃなくても良かった。東九条の、名家の血であれば誰でも良かった。たまたま手に入ったのが浩之さんだった。一緒に暮らしてみて、悪くないなと思った。そうしたら、取り上げに来る人間が現れた。それは面白くないと思った。別に欲しくて欲しくて堪らなかったワケじゃないけど、ちょっと傍に置いて見たら良いなと思った。だから、取り上げられたくない……まあ、こういう事じゃないですか?」
そう言って笑って。
「――舐めないで下さいませんか? 私の、私たちの大事な浩之さんを、そんな人には渡したくない」
「――っ!」
「欲しくて欲しくて堪らなかったワケじゃないなら、欲しくて欲しくて堪らない私達に……私に浩之さんを返して下さい。無論、対価として貴方の求める『東九条の血』は渡しますからと……簡単に言えばそういう事です」
「それ……は……」
「……まあ、良いです。どちらにせよ、これ以上の結論は此処では出ないでしょうから。夜も遅いですし、今日はもう帰ります」
そう言って席を立って。
「――ああ、そうそう。お茶、ご馳走様でした」
そう言って綺麗に頭を下げる明美は、立派な令嬢だった。