第百四十話 別に、君じゃなくても良いのなら
「……反対、ですか」
明美の言葉にしばし茫然としていた俺らだが、いち早く立ち直ったのは桐生だった。
「ええ、反対です」
「……理由をお聞かせ願えませんか、明美様。これは東九条君のお父様と私の父が決めた縁談です。無論、東九条御本家の御意向もあるかとは存じますが、それだけでは納得は行きません。実際、こうやって一緒に暮らしている訳ですし」
「……妬ましいですね」
「え?」
「いえ、なんでも。それより、理由でしたね? いくつか理由はありますが……一番大きな理由は」
――貴方が、『桐生家の人間』だからです、と。
「……所詮、成り上がり者の成金に東九条の血は勿体ないと仰いますか?」
悔しそうに唇を噛む桐生。胸を打つその姿に、思わず俺は声を上げた。
「おい、明美! お前な? 家の格がどうの――」
「違います」
「――こうの……って、え?」
……違うの?
「当たり前です。まあ、言い方は悪いですが……確かに彩音様のご実家を『成り上がり者』、『成金』と卑下する向きが社交界にあるのは認めます。認めますが、別にそれを持って反対するつもりは全く御座いません」
「……そうなの?」
「当然でしょう。成金、成り上がりと言いますが……それでも、名の通ったパーティーに呼ばれるまでに家の『格』を上げるのがどれ程大変な事か分かりますか? 彩音様のお父様の一代で、です」
「……とんでもないと思う」
「そうです。間違いなく、彩音様のお父様は有能な方だとそう思います。別に我が家を卑下するわけではありませんが、彩音様のお父様と私の父、どちらが才覚があるかと申せば……おそらく、彩音様のお父様の方が才覚はあるでしょう。まあ、何を持って才能というかにもよりますが、少なくとも、経営者としての能力は段違いですね。一代で財を成す、というのはそれだけで賞賛に値する事なのですよ? そもそも、浩之さんのお母様は所謂『名の通った』家の御出身ですか?」
「……サラリーマンの娘だな」
「そういう事です。自由恋愛には寛容なのですよ、我が一族は。なので彩音様? 貴方は自分を卑下する必要は全くありません。私たちの様な家名だけの人間など笑い飛ばせば宜しいのですよ」
そう言って笑う明美。
「その……あ、ありがとうございます」
「お礼を言われる事ではありません。事実を述べたまでです。それに……我が家は藤原北家に連なる一門ではありますが、それだって元をただせば千四百年ほど前のご先祖様がクーデターの功績で与えられた地位でしかありませんし。千四百年前なら充分、成り上がりですよ」
「……スケールがデカいな、おい」
マジで。なんだよ、千四百年前って。
「……でしたら、なぜでしょう? 我が家が成り上がりではないとするのなら、なぜ私が許嫁ではダメなのですか?」
「貴方の問題ではありません。これは東九条の……というか、浩之さんの問題ですね」
「は?」
俺?
「先ほども申した通り、桐生の家は優秀な現当主の影響が強い。浩之さんと彩音様の婚姻は、そこに浩之さんが婿に行くということですよ?」
そう言って俺をじとっとした目で見つめ。
「――現当主並みのお仕事、出来るんですか、浩之さん?」
「……」
……無理だと思います、ハイ。
「そ、それは私がやります! 私なら、父の仕事も理解できます!」
「わざわざ東九条から婿を取るという事は、当然血脈に東九条の血を入れたいという事でしょう? 私達女性には出産、子育てというハードルがあります。まさか貴方、妊婦の間も仕事をこなすおつもりですか?」
「そ、それは……」
「出産間際で緊急の案件が舞い込んだ際、決裁の権限はどなたに付与為されるおつもりですか? そうじゃなくても、風邪を引いたり事故にあったり……何かあった時に、貴方の代役をどなたがするのですか? 失礼を承知で敢えて言えば、桐生の御家業の性質上、オーナーである貴方のお父様の御意向は強いでしょう?」
「……はい」
「ならば、彩音様がオーナーになられた際、オーナーの配偶者である浩之さんにも一定の決定権が……違いますね。決定権を『持っている』と誤解されるかも知れません。重要な議題を浩之さんが決められるとは……まあ、到底思えませんね」
「おい!」
「出来るんですか? びっくりです」
「……できません」
できないけどさ。そんな目を丸くして驚くことなくない? 俺の評価、どんなだよ?
「でしょう? 無論、此処から浩之さんが『目覚める』可能性も無くはありません。無くはありませんが……そのような蓋然性に頼るのは如何なものか、と思います」
「……ウチの親父、会社やってるけど?」
「自身で起業し、自身で潰すのは構いません。どうせ旧華族の猿真似と笑われてお終いですから。そもそも、維新の後で事業を起こして失敗した華族や士族がどれ程いると思うのですか。伝統芸ですよ、事業の失敗は」
そう言ってもう一口お茶を啜る。
「……ですが、仮にも一代で財を築き社交界に呼ばれる様になった桐生のお家の事業を婿で入った東九条の出身者が潰した、となるとこれは流石に外聞が悪すぎます。それも、分家でも家格の高い浩之さんだったら猶更でしょう。味方ばかりじゃありませんので、我が家とて。敵にとっては充分、スキャンダラスな話題です。そしてそれは、東九条としては迷惑な話です。到底とれるリスクではありません」
「……家格高いの、ウチ?」
親父は有力分家に全部取られたって言ってたけど……
「おじ様……はあ」
疲れた様に額に手を当てて首を振る明美。なんかすまん。
「……おじ様は父の従兄弟ですよ? 父は一人息子ですし、私は一人娘です。父なき後は私が東九条本家を継ぎますが、私がもし若くして、しかも子供が無く亡くなった場合、相続権はおじ様にあります」
「……そうなの?」
「法律上の手続きは別途要りますが、血の濃さ、つまり『家』としてのルールとしてはそうなります。その為におじ様には本家の方に帰って来て頂きたい、というのが父の願いですし」
「……マジかよ」
「……関係のない話でしたね。話を戻します。浩之さんに……少なくとも現時点では経営者としての才覚は認められません。そんな人間を東九条の代表として他家の重要な人物の婿として出すのは抵抗があります。これが何代も続いた老舗企業で、システムとして経営が構築されている企業の跡取り娘なら話は別ですが……ご気分を悪くなされないで下さいね? ワンマン経営でしょう?」
「……仰る通りです」
「無論、ワンマン経営が悪いとは言っていませんよ? 組織が大きくなる過渡期ではワンマンの経営者のトップダウンの意思決定のスピードが重要になりますから。次代が飛躍の時か、守成の時かは分かりかねますが……どちらにせよ、ワンマン経営の家に浩之さんでは少しばかり浩之さんの荷が重いと思います」
「……」
確かに。今すぐではないにしろ、数年後に『そう』なったらどうすれば良いか、今の俺では想像も付かないし。
「許嫁として結婚まで視野に入れる、とはそういう事です。その為の教育に関して……これはおじ様の責でしょうが、そういう教育を受けてない浩之さんには少し難しいでしょうね。桐生の跡取りとの結婚は」
そう言って明美は視線を桐生に向ける。
「……しかしながら、桐生家との『ご縁』自体は私も欲しい、とは思っています。桐生家の才覚に、我が家の社交界での地位が兼ね備えられれば、相互補完の関係が築けると思いますし」
そう言ってにっこり笑い。
「なので……どうでしょう? 我が家の分家の中から才覚のあるものを見繕いますので、そのものと改めて許嫁を結ばれるのは。お互いにとっていい話だと思いますが?」
とんでもない事を言いだした。
「ちょ、明美! 何言ってんだよ、お前!!」
「? なにかおかしな事を言っていますか、私?」
「おかしなって……おかしいだろうが!」
今日まで俺の許嫁、明日から別のヤツの許嫁って……
「それじゃ桐生の意思は何処にあるんだよ!」
「おかしなことを仰っているのは浩之さんでは? 元々、これは彩音様の意思のない許嫁関係でしょう? いわば政略結婚、その相手が変わるだけのお話ではないですか?」
「それは……そ、そうかも知れないけど!」
「お伺いした所によると、桐生家が欲しいのは『名家の血』なのでしょう? ならば、別に『浩之さん』である意味は無い筈です。でしたら、東九条からもっと優秀な分家の人間を見繕います。彩音様はお綺麗ですし、女性として魅力的だと感じています。我が分家の男どもはこぞって手を上げますよ? 能力的にも、性格的にも、見目まで潤しい人間を彩音様の婚約者候補として推挙します。正直、浩之さんより素敵だと思いますよ? 彩音様本人にとっても……『桐生家』にとっても良縁かと」
「……」
「……纏めます。東九条としては、桐生家とのご縁は有れば嬉しい。ですが、そのご縁の相手が浩之さんだと云うのは双方にとってリスクが高い。ならば、分家の然るべき人間を推挙しますので、そちらと改めて許嫁関係を結んで頂けませんか、と……まあ、こういう話です」
そう言って、明美はにっこりと笑い。
「分家の不始末です。対価はお支払いしますので……『東九条』で良いなら」
『浩之さん』は返して下さい、と。
「――問題はありませんよね、彩音様? だって、『誰でも』良いんでしょう?」