第百三十四話 浩之君、確変モード。
『お邪魔します』と言いながら、桐生が若干緊張した面持ちでソファに座った俺の膝の上に腰掛ける。
「……ねえ、これ……」
「……うん。ちょっと違うな」
「……そうね。ドキドキはするけど……こう、なんでしょう? あんまり『恋人っぽい』感じはしないわ」
ですよね。これ、完全に座椅子だもん。本当にありがとうございました。
「……ちょっと待てよ……桐生、一遍立ってくれるか?」
「立つ? ええっと……普通に?」
「普通に」
俺の言葉に桐生が浩之座椅子から立ち上がる。それを確認し、俺は心持深くソファに座り込み、ソファの上で胡坐をかく。
「……これならどうだ? 俺の足の上、座ってみろ」
「……それでは」
再び『お邪魔します』と声を上げて桐生が胡坐をかいた俺の足の上に座る。ソファに深く腰を掛けていたお陰で、ゆったりと沈み込む俺の胸の中に桐生が背中を当てた。
「……これ、良いわね。なんかこう……『ほっこり』するわ。良い座椅子具合ね、東九条君」
「俺の人生の中で一番嬉しくない評価だな、それ。あー……っていうか、汗臭く無いか? 別段激しい運動をした訳じゃないけど……」
生活してりゃ、少しぐらいは汚れるし。そんな俺の疑問に、桐生は黙って首を横に振る。
「全然。というか……こう、東九条君の匂いって安心するのよね。いい匂いがする」
「そうか?」
「うん。私だけかも知れないけど……不快感は全くないわ。ちなみに私は?」
「……」
「……え? く、臭い?」
「あー……いや。全然、そんな事はない。むしろなんていうか、女の子の匂いと言うか……」
こう、女子特有の甘ったるい香りと言うか……とにかく、いい匂いです、ハイ。
「……なんか、ちょっとだけ変態っぽい」
「……そう思ったから言い淀んだの。ズルいよな。俺はいい匂いって言われてちょっと嬉しかったのに、俺が言うと変態っぽく聞こえるって」
「男の子と女の子の差でしょ? それに……べ、別に嬉しく無い訳じゃないわよ? 東九条君に『いい匂い』って言って貰えたら……そ、その……う、嬉しいし」
「……さよけ」
「うん。それよりも……『女の子の匂い』という発言がそこはかとなく気になるのだけど? 貴方、他の女の子にこんな事した事があるの?」
「……あー……まあ、俺は妹居るしな」
「関係あるの? ああ、妹さんにもこういう事してたってこと?」
「……」
「……なに?」
「……怒る?」
「……怒られるようなことなの?」
どうだろう? あんまり進んで話したい事では無いが……でもまあ、仕方ないか。
「……まあ、アレだ。ウチの妹ってたまに凄く甘えたがりになる事があってだな? 『おにい、座椅子!』って俺の膝の上に飛び乗って来るんだよ」
「あら? 可愛い話じゃない?」
「……んでまあ、そんな妹の姿を見て『茜ばっかりズルい! 浩之先輩、私も!』って瑞穂が飛び乗って来たり、『ヒロ! そりゃ次は当然私の番よね?』って智美が乗って来たり、『やっぱり、幼馴染差別はダメだと思うんだ、浩之ちゃん?』って言って涼子が乗って来たりするワケで……」
「……全然、可愛い話じゃ無かったわね。なにそれ?」
首を上にあげ、視線だけを俺に向ける桐生。その視線から視線を逸らすと、桐生が不満そうに頬を膨らませた。
「……道理で座り心地が良いと思ったら……使い古された座椅子だったわけね?」
「……使い古されたって酷くね?」
「そうじゃないの? 色んな女の子のお尻をその膝の上に乗せて来たんでしょ?」
「言い方!!」
俺の言葉にそう言ってクスクスと笑って見せる桐生。勘弁してくれよ、マジで。
「……冗談よ。そりゃ、全然気にしないって言うと嘘になるけど……でも、昔の話をしても仕方ないもの。これからが大事よ」
「前向きなこって」
「そうね。後ろ向きになっても仕方ないし」
そう言ってクスクスと笑う桐生。そんな桐生にため息を吐いて。
「――って、ひ、東九条君!? な、なにしてるの!?」
後ろから手を伸ばし、桐生のお腹の辺りを抱きしめるとそんな声が響いた。あ、あれ?
「……どうした? 変な声出して」
「へ、変な声って!? だ、だって、貴方、今、わ、私のお腹に、ててててて手が!!」
「? ……ああ、わりぃ、わりぃ」
そっか、ごめん、ごめん。
「い、いや、別にわ、悪くはないのよ? こう、ちょっとだけ嬉しか――って、きゃあ!? ちょ、あ、貴方!? ど、何処に手を回してるのよ!?」
お腹に回していた手を肩のあたりまで持って行き抱きしめると、またまた桐生から抗議の声が響く。なんだよ、さっきから?
「……あすなろ抱きが良いって意味じゃなかったのか?」
「そういう意味じゃないわよ!? ひゃう! み、耳に息が……」
「……これはイヤか?」
「い、いやじゃないけど! は、恥ずかしすぎるから! お、お腹で! 手はお腹!」
「……はいはい」
桐生の言葉通り、再び手を桐生のお腹に持って行く。そうすれば必然的に俺の唇と桐生の耳の間には距離が空く。その隙間を利用するように、再び桐生が首だけ上にあげて俺に『きっ』とした視線を向けた。なんだよ?
「……心臓、止まるかと思ったじゃない」
「……いや、『ぎゅ』ってしてくれって言ってたから……」
「も、物事には順序ってモノがあるでしょ!! わ、私にも心の準備があるんだから」
「……すまん」
なんだかちょっとだけ理不尽なモノを覚えながら、それでも素直に頭を下げる。俺のその行動で少しだけ溜飲が下がったのか、桐生の目の険が少しだけ取れた。
「……まあ、私も『ぎゅ』ってしてって言った訳だし、貴方は私のお願い通り行動してくれたわけなんでしょうけど……っていうか、どうしたのよ、貴方? さっきまでアワアワしてた癖に。別人じゃないの?」
「別人でも偽者でもないが……まあ、俺もちょっとだけ腹を括ったんだよ。俺だってお前と仲良くしたいしな」
「……嬉しい事言ってくれるじゃない。それで? 貴方、随分手馴れてたみたいだけど、賀茂さんや鈴木さん、川北さんにもこうやって後ろから抱きしめたりしてたのかしら?」
「……それ、聞く?」
「……聞くまでも無いでしょうね。どうせ妹さんが『やって!』って言って、それにヒートアップした面々が……って所でしょ?」
「……見てたの?」
「見て無くても分かるわよ。ふんだ! 浮気者~!」
不満そうにぷいっとそっぽを向く桐生。が、それも一瞬、今度は優しい微笑みを浮かべて見せる。
「……なんてね。さっきも言ったけど、私と出逢う前の事まで言われても息が詰まるでしょうから、これ以上は言うつもりは無いわ」
「……それは助かるな」
「でも……そうね。一個だけ、我儘言っても良い?」
「……なんだ?」
「その……」
……これからは、私以外にはしないで、と。
「……わ、私は許嫁だし! こ、これから結婚するんだから、私以外としたら浮気でしょ!! だ、だから……」
「……流石にお前が居るのにこんな事出来る程の度胸は俺にはねーよ」
「……そ、そう? それなら……い、イイケド……」
そう言って照れた様に頬を染める桐生。ああ、そうだ。
「一個、言い忘れてたけどよ?」
「……なに?」
「俺、今まで……こう、こういう事をした事はあったけどな? それって全部、命令……というか、要求されてやっただけだぞ。あー……だから、まあ」
――自分からしたいと思ったのは、お前が初めてだ、と。
「……そ、そうなの?」
「おう」
「そ、それじゃ……ゆ、許してあげる」
そう言って、自身の手をお腹に回した俺の手に重ねる桐生。
「……ねえ」
「なんだ?」
「これ……不味いわね。なんか、離れたくなくなるわ」
「マイナスイオンでも出てるのか、俺?」
「そんな良いモノじゃないわよ。これはある意味、麻薬よ。どうしましょう? 離れられなくなったら責任、とってくれるの?」
「……まあ。結婚もするし」
「もう! そう言う意味じゃないでしょ! 女心が分からない人ね!」
「……わりぃ」
「だーめ! 許してあげない! 許して欲しかったら……」
頭、撫でて、と。
「……りょーかい」
「……ふふふ。これ、本当に不味いわね。あ! これから、毎日お願いできる?」
「用法用量守れよな?」
「……ごめん、無理かも」
そう言ってにっこり笑う桐生に肩を竦め、満足するまで俺は桐生の頭を撫でた。