第百二十二話 だいすきな、せんぱい
既に、口の中は血の味しかしない。
はぁ、はぁと荒い息を吐きながら、俺は顎から滴り落ちる汗を拭う。第三クオーターの半分と、第四クオーターの結構な時間、随分と走りっぱなしで来た。止まっていたら聞こえる程、心臓はバクバクいってるし、視界も朦朧としてきた。つうか、ヤバい。結構、吐きそう。
「……はぁ……はぁ」
「……顔色、悪いですよ。大丈夫ですか」
「心配してくれてありがとよ」
俺のマークを外そうとしながら話しかけて来る水杉に言葉を返しながら、必死に喰らいつく。そんな俺の鬼気迫る表情に少しだけ怯えた様な表情を浮かべながら、それでも水杉は歯を食いしばる。
「……木場さん!」
桐生とマッチアップしていた木場が、そのマークを外してスリーポイントを放つ。入るな、と祈る俺の心とは裏腹、美しい軌道を描いたボールはネットに吸い込まれた。これで八十五対八十二。点差は三点だ。
「ごめん、東九条君!」
「気にするな! リスタートだ!」
直ぐにエンドラインでボールを拾った桐生が俺にボールを投げ入れる。そのボールを拾って、俺はすぐさまドリブルに。前からマークを仕掛けて来た水杉にフェイント一つ。右から仕掛けて左に抜けようとして。
――唐突に、左足が攣った。
踏ん張ろうとするも流れる様に俺の体はコートに投げ出される。少しだけ驚いた様にその姿を見ながら、転がったボールを拾った水杉はスリーポイントラインからフリーでショットを放つ。
「――っち!」
「……勝負です。悪く思わないで下さい」
チラリと俺に視線を向けた後、淡々と自陣に戻る水杉。入れ違い、秀明が俺の方に駆けて来た。
「浩之さん!! 大丈夫ですか!?」
「わりぃ。足、攣った。大丈夫だ」
俺の言葉に一つ頷くと、秀明は俺の足を持ってぐっと伸ばしてくれる。さっきまでピンと張った様な感覚だった足に、徐々に正常な感触が戻って来る。
「……もう大丈夫だ」
「……大丈夫ですか、って聞くのは無粋ですよね?」
「そうだな。大丈夫じゃねーって言ってもどうしようも無いし」
チラリと視線を送ったスコアボードには八十五対八十五の同点の数字が刻まれていた。残り時間は既に一分を切っている。
「……スリー狙いで行くか」
「……延長戦なったら絶対勝てないですしね。此処一本、必死で取って後は守り切りましょう」
「だな。それじゃ、行くか」
審判にペコリと頭を下げて、俺はエンドラインに走る。受け取ったボールを桐生に投げ入れて。
「なっ!」
自陣に戻っていたハズの水杉と木場が、ボールを投げ入れた瞬間に物凄い勢いで桐生目掛けて突っ込んでいく。オールコートの常識であろう、そのままその場でとどまる事をせずに一度自陣に帰ってからの怒涛のランに、桐生も少しだけ焦った表情を浮かべている。不味い。
「――っ!」
一歩、足を踏み出した瞬間に感じる攣った様な感覚。伸ばし、誤魔化しながら桐生のフォローに向かうも――一歩、遅い!!
「貰った!」
「あ!」
桐生の手からスティールでボールを奪う水杉。そのまま、一歩ドリブルをしてシュート。
「っ!!」
足が棒の様になった感覚を覚えながら、それでも俺は少しでもボールに触る様に手を伸ばす。
「――っ! 不味い!」
俺の意思が通じたか、伸ばした指のつま先にボールが当たる。勢いを殺し切れるほどではないも、少しだけ軌道を逸れたボールがリングの上で跳ねるのが見えた。
「小林!」
そのボールを取ったのは中西。リバウンド勝負、秀明と藤田が着地して体勢を崩している中、その間を颯爽と走り抜ける小林の姿が見えた。空中で放られたボールを取った小林は、そのままワンハンドでダンクを決めて、こちらに視線を向けて。
「――っつ! 戻れ!」
そんな姿を視界に入れる事すらせず、俺は走る。点差が二点なら、やる事はもう一緒だ。最後の最後、スリーポイントを決めるだけだ。
「東九条君!!」
桐生の声が聞こえた。少しだけ振り返ると、そこにはボールをこちらに投げる桐生の姿が視界に入った。きっと、少しでも前に行かす為、俺の視線の前に落ちたボールに手を伸ばして。
「――あ」
不意に、ぐらっと体が揺れる。左足に、全然力が入ってない。
「――……」
俺の目の前で、タン、タン、と二回跳ねるボール。そのボールに手を伸ばすも、あと一歩、左足の一歩分届かない、そんな感覚に。
――もう、無理だ。
……別にいいじゃ無いか。
……一生懸命やったさ。
……二年もブランクがあるんだ。こんな物だろう?
……準優勝でも立派なもんだよ。一年生とは言え、相手は『あの』正南学園と、東桜女
子の混成チームだぞ? バスケ界の名門で、毎年県で優勝するようなチームだ。
……二年後、あいつらの世代が全国で華々しい活躍を約束されたような、そんなチーム相手に、良く健闘したほうじゃないか。
――もう、良いじゃないか。
そんな、思考が、頭の中を、駆け巡り、俺はそのままコートに倒れ込んで。
「――浩之先輩!!」
不意に、瑞穂の声が聞こえた。
「――良い訳、あるかぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
完全に流れた左足を意思の力でねじ伏せ、コートに足を付ける。そのまま、もう一度その左足に力を込めて目の前のボールを掴む。
「いっけーーーーー!!」
……悪かったよ、瑞穂。泣き言言って。
そうだよな? こんな所で諦めたら、俺、お前に何にも言えねーよな?
「させるか!!」
後ろから走って来た小林が俺の前に回る。チラリと時計を見ると残り時間は五秒。スリーポイントラインぎりぎりで止まった俺はそのままシュートモーションに入る。
「甘い!!」
……だよな。身長差、二十センチぐらいあるし。俺のシュートなんて、お前からしたら簡単にブロック出来るよな?
「――なっ!」
だから俺は、そのまま後ろに跳ぶ。相手から体を離すように飛んで打つ――フェイドアウェイ。
「くっ!」
ブン、と振り下ろされた小林の腕が宙を切る。小林の頭の上を放物線を描いて飛んで行くボール。
どこからか、試合終了を告げるブザーの音が聞こえた。
……ガン。
リングの手前に、ボールが当たる。真上から落ちたボールだった為、そのままボールが垂直に跳ねる。
――何時しか、体育館中の音が消えていた。静まり返った体育館で、ボールの跳ねる音だけが聞こえる。
リングを舐めるように回っていたボールは、その行く先を決め、ゆっくりと重力に従うように落ちて来た。
そう……ネットに吸い込まれるように。
「……」
ボールの音が消えた体育館。そう、本当に、何もかも、音の無い世界。
それが、一瞬。
その後に続いたのは、割れんばかりの歓声。
「……大丈夫、ですか?」
そんな歓声を聞きながら、フェイドアウェイの影響で足の踏ん張りが効かずに無様に尻餅を付いた俺に、小林の手が伸びる。その手を掴んで、俺は立ち上がった。
「サンキューな」
「いえ……こちらこそ、ありがとうございました」
「なにが?」
「いろいろと、教えて貰いました。地力で劣っていても、戦い方次第ではなんとかなる事とか……相手を、舐めてはいけないという事とか」
「基本じゃね?」
「基本です。基本ですが……仮にも正南学園ですからね。そんな事すら忘れていました。ユニフォームに、勘違いをしていました。だから――ありがとうございます」
清々しい表情を浮かべて。
「――これで俺たちはまだ、強くなれます」
そう言ってペコリと頭を下げて自陣のベンチに戻る小林。武士かよ。つうか、主人公かよ。
「ヒロ!」
「浩之!」
「浩之さん!」
「東九条君!!」
俺の周りに集まるチームメイト。電光掲示板に目を移せば、そこには八十八対八十七の数字。
――逆転勝利、ブザービートってやつだ。
「やったわ! 優勝よ!」
「さすが浩之さん!」
「やるじゃねえか! それでこそ俺の親友だ!」
手荒い歓迎をしてくれるチームメイト。笑顔で返しつつ、俺は観客席に目を移す。
――居た、見つけた!
なれない松葉杖をついて、懸命に人込みを掻き分け、一生懸命アリーナの出口を目指す瑞穂の姿を。
「ちょっとすまん!」
チームメイトの輪を抜け出し、俺は体育館から飛び出す。
「お、おい、浩之! 何処行くんだよ! これから、表彰式だぞ!」
「悪い! 俺、パス!」
「ぱ、パスって!」
「優勝カップよりも大事な物取りに行ってくる!」
「お、おい! 浩之! ちょ、待てよ!」
チームメイトの声を背中で聞き流し、体育館のドアを押し開ける。瑞穂が居たのは、二階の観客席。俺は階段を駆け上がる。
「瑞穂!」
踊り場で、瑞穂を見つけた。なれない松葉杖をついて、階段を降りて来ている。
「浩之先輩!」
俺の姿を見つけ、笑顔を浮かべて焦った様に階段を下りる瑞穂……って、馬鹿野郎!!
「馬鹿、ゆっくり降りて来い!」
「え? って、きゃあ!」
この場に似つかわしく無い可愛らしい悲鳴。言わんこっちゃ無い、階段で足を滑らせた瑞穂が、ゆっくり自由落下。
「くそ!」
俺は踊り場の中央で、しっかり瑞穂を受け止め……られなかった。そりゃそうだ。何せ足腰ガクガクで人を一人、受け止められる訳が無い。
盛大に音を立てて倒れこむ俺と瑞穂。元々小さい瑞穂の事だ。丁度俺の腕にすっぽり治まる形になった。
「ひ、浩之先輩、す、すみません! わ、私! す、直ぐどきます!」
慌てて体を起そうとする瑞穂。焦っている上に、左ひざが上手く動かない。俺の体の上でもがく瑞穂を。
俺は両の手で抱きしめた。
「ひ、浩之先輩!?」
「なんだ?」
「な、なんだじゃないです! その、手!」
「嫌か?」
「い、嫌じゃないですけど……」
照れたようにそう言うと、瑞穂は諦めたように大人しくなった。
「そ、その……」
「ん?」
「お、重くないですか?」
「……」
「な、何でノーコメントなんですか! わ、私、入院で太りました!?」
「冗談だ。すげー軽い」
「もう!」
「……」
「……」
「浩之先輩……あ、あの……お久しぶりです」
「……ああ、久しぶりだな。つうか、初めてじゃね? こんだけ逢わなかったの」
「……そーかもです。なんだかんだで、三日と空けずに遊んでいた気がしますし」
「……だよな」
そう言って苦笑を浮かべる瑞穂に俺も苦笑を返す。少しだけ、安心した様な表情を浮かべた瑞穂を立ち上がらせて、俺は視線を瑞穂に合せる。
「……なあ、瑞穂」
「……はい」
「俺も、二年のブランクがあった。でも、曲がりなりにも試合をして、市民大会でも優勝できた。まあ最後はバテバテだったし、別に俺一人の力で勝った訳じゃないけどな。でも、二年のブランクがあっても、何とかなったんだ」
「……」
「二年のブランクがなんだ。何とでもなる」
「……」
「それに……思ったんだ」
「何を……ですか?」
多分、これは。
「やっぱり……バスケって、すげー楽しいわ」
俺とお前の、共通認識だ。
「……」
「……お前、バスケ好きだろ?」
「……はい」
「長い人生の、たった二年間だ。それだけで、バスケを棒に振って良いのか? 捨てて良いのか? 後悔はしないのか?」
「……」
「……まあ、お前が決める事だ。これ以上は何も言わない」
最初に聞こえてきたのは、嗚咽。目に入ったのは俺の目の前で、泣き続ける瑞穂の姿。
「……浩之先輩は」
しばしそうやって泣いていた瑞穂だが、やがておずおずと話を切り出した。
「……浩之先輩は、なんで……そこまでしてくれるんですか? こんな……私の為に」
潤んだ瞳で、こちらを見てくる瑞穂。
……なんでそこまでするかって? そんなの、決まってる。
「……やっぱり、お前の事が大事なんだよ、俺は。可愛い妹分なんだよ。だから、お前には後悔して欲しく無いんだ。バスケを辞めるかどうかは、そりゃ、任すけど……でも、『楽しい』バスケを、続けるって選択肢を、二年のリハビリの為に無くして欲しく無いんだよ」
「……」
「……」
「…………はぁ」
……はぁ?
「……ねえ、先輩」
そう言ってにっこりと笑って見せる瑞穂……って、あれ? なんかお前、ちょっと怒ってない?
「……な、なんだ?」
「なんですか? 可愛い妹分って?」
……はい。え? な、なに? なんでそんなに怒ってるの? っていうかそのジト目、止めてくんない?
「……はぁ……折角、これだけいい雰囲気なんだから、『瑞穂、俺はお前の事が大好きだ』って言ってくれれば良いのに」
相変わらずのジト目のまま……それでも、そう言ってクスリと笑い。
「さっきの試合……格好良かったです」
「……ありがとうよ」
「……そんな、格好いい浩之先輩に負けるのは悔しいですしね~」
そう言って、瑞穂は顔を上げる。俺の目に映るのは、満面の笑み。
「……私、リハビリ受けます」
「……そっか」
「バスケを……続けます」
「……ああ」
「だから……浩之先輩! これからもよろしくお願いしますね!」
そう言って勢いよく両手を上げる瑞穂。
「って、馬鹿!」
松葉杖の人間がそんな体勢を取ったらバランスを崩すに決まってる。慌てて瑞穂を受け止めようと両手を伸ばした所で。
「――だから……これは、今までの御礼と、これからの御礼の、先払いです」
瑞穂の声が、耳に響いて。
――俺の頬に、柔らかな感覚。
「……? ……!! ちょ、おま! なにしてんだよ!」
頬に唇が触れたと気付いたのは、数瞬後。きっと真っ赤になっているだろう俺の顔を、同様に真っ赤な顔で見つめて。
「だーいすきですよ! 浩之先輩!!」
今まで見た中で、最高の笑顔を瑞穂は浮かべていた。




