第百二十一話 幕間。或いは川北瑞穂と試合終了のブザー
体育館の二階に常設されている座席に座って試合の推移を見守っていた私はぎゅっとその手を握り込む。第三クオーター序盤までリードを保っていた浩之先輩達のチームは、センターの子のダンクから一転、攻め続けられていた。
「……瑞穂」
隣で座る母親が握り込んで白くなった私の手をぎゅっと握る。優しくほぐすように、指を一本、また一本と解いて行く。
「……痣になっちゃうわよ?」
「……お母さん」
「……私も瑞穂の試合、何回も観に行ってるからね。ある程度、バスケットの事も理解してるつもりだったけど……ワンプレイで此処まで流れ、変わるのね」
「……うん。あのセンターの子の大声で、一気に雰囲気変わっちゃった」
実際、あのダンクからこっち、全然浩之先輩のチームはボールを相手陣内まで進める事すら叶っていない。十六点あった点差は僅か六点まで縮まり、第三クオーターが終わった。
「……大丈夫かしら、浩之君たち」
「……わかんない。相手のチーム、正南と東桜女子の連合チームだし……地力では、あっちの方が上だから」
心配そうな顔を浮かべるお母さんに、私は気のない返事を返す。此処で希望的観測を述べられるほど、正南と東桜女子の看板は安くない。
「瑞穂! ……と、瑞穂のおばさん?」
と、私たちが観戦している席に一人の大柄な女子が歩いてくる。雫だ。
「あら、雫ちゃんじゃない。久しぶりね?」
「ご無沙汰しています。えっと……中三の最後の試合以来ですかね、お逢いするの」
「そうね。折角だし、もうちょっとお話したいけど……」
そう言ってお母さんはチラリと私を見る。
「……此処に私が居ない方が良いかしら? 雫ちゃん、瑞穂頼める?」
「はい!」
それじゃよろしく、と言ってお母さんは席を立つ。その席に雫が座ると、私に視線を向けた。
「理沙から聞いた?」
「……うん」
「皆、頑張ってる。瑞穂の為に」
「……うん」
「恩に着ろって言うつもりは無いよ? でも……ブランクのあった東九条先輩も、素人だった藤田先輩も……それに、桐生先輩も皆、あの正南と東桜女子の連合チームに喰らいついているよ? 良い試合、してると思わない?」
「……うん」
「……別に、バスケットを辞める選択肢を私は否定しない。否定しないけど……」
でも、と。
「……もう少し、考えてからでも良いんじゃない?」
その問いかけに応える事を躊躇った私の耳に、第四クオーター開始を告げるブザーの音が響いた。
◇◆◇
「いけ! そこだ! ……よし! ナイスシュート、東九条先輩!」
第四クオーターは今までの試合展開から一転、激しい点取り合戦になった。お互い、ディフェンスなんて知らないのではないのかと言わんばかりの超オフェンス的な展開。ボールを持ったら速攻で攻めて点を取り、オールコートでプレスを掛け、まるで攻める様なディフェンスでボールを奪う。取ったら取られ、また取ったら取られを繰り返す展開。
「……にしても東九条先輩、凄いね。今のでスリー十本目だよ? 良く決めるわね、本当に」
「……スリーは」
「ん?」
「……スリーは私達、チビの生きる道だから」
「……そっか。でも、私は東九条先輩、スリーだけの人とは思わないけどな~」
雫の言葉にこくりと頷く。昔から、浩之先輩は凄かった。背の低さはバスケでは不利なハズなのに、そんな事を感じさせない、生き生きとドリブルする姿は見ていて爽快で、トリッキーなパスを繰り出す姿にいつも憧れて。
「……ああ」
――そして、今スリーポイントを決めて、子供の様に笑ってガッツポーズをする姿に、いつもドキドキして。
「……瑞穂?」
「……ははは」
そんな浩之先輩に少しでも近づきたくて。
そんな浩之先輩の姿が、とっても格好良くて。
そんな浩之先輩に、認めて貰いたくて。
「――ああ、そうだった」
――そして、なにより。
「そんな浩之先輩とする『バスケット』が……私は、何より楽しかったんだ」
「……瑞穂」
「……忘れてた」
バスケが好きで。
バスケが大好きで。
何よりもバスケットボールというスポーツが大好きで、大好きで、大好きで、堪らなかったのだ。楽しかったのだ。
「……ああ!」
相手チームのスリーポイントが決まる。これで八十五対八十二と点差は僅か三点。悔しそうにしながら桐生先輩がボールをエンドラインから投げ入れ、そのまま浩之先輩にパス。そのパスを受け取った浩之先輩はそのまま走り出そうとして。
「――あ!」
足を縺れさせたかのように、そのまま倒れ込んだ。転々と転がるボールにいち早く反応したのは相手のポイントガード。そのまま、ボールを奪うとスリーポイントラインからシュートを放つ。
「浩之先輩!!」
ネットを揺らすボールなんて、見えちゃいなかった。私の頭の中ではあの日――自らが努力を奪われた記憶がフラッシュバックし、思わず体がブルリと震える。
「……だ……やだ……」
浩之先輩まで、靭帯を切ったら? それじゃなくても、なにか怪我をしたら?
――私の為にしてくれたせいで、浩之先輩が傷ついたら?
その想像が余りにも怖くて、私は思わず目を瞑り、ぎゅっと手を握り込む。
「……大丈夫」
そんな私の手に、雫の手が優しく重なった。
「……大丈夫だよ、瑞穂。ほら」
おそるおそる目を開けて視線を下に向けると、そこでは秀明が浩之先輩の足を伸ばしている姿があった。
「……攣っただけみたいだよ。まあ、アレだけ走り回ってたらそうなるわよ」
少しだけ痛そうに足を引きずって、ぴょんぴょんとその場でジャンプしてみせる。心配そうにする桐生先輩に片手をあげて、浩之先輩は袖で顔を拭ってスコアボードを見やる。
「……追いつかれちゃったか」
「……うん」
今のプレイで八十五対八十五の同点だ。残り時間はあと一分を切っている。
「あ!」
雫の声が響く。浩之先輩から投げ入れられたボールを取った桐生先輩に、相手のポイントガードとシューティングガードがダブルチームを仕掛けたからだ。正南と東桜女子のガード二人から攻められて、初心者の桐生先輩が敵う訳もなく、あっけなくボールを奪われた。ボールを取ったポイントガードが、そのままシュートモーションに入る。
「浩之先輩!!」
そんなポイントガードに浩之先輩がチェックに入る。攣ったばかりの足で懸命にジャンプし、微かにボールに触れた。
「――秀明!!」
浩之先輩の声が響く。ゴール下では待ち構えていた秀明とこちらのチームのパワーフォワード……おそらく、あの人が藤田先輩だろう。藤田先輩が同時に跳んだ。
「邪魔だ!」
そんな二人を押しのけるよう、相手チームのパワーフォワードも跳ぶ。身長的には大差ない相手、二対一の数的有利もありながら。
「小林!」
それでもリングに弾かれたボールは無情にも相手チームのパワーフォワードに渡る。空中でボールをもぎ取ったパワーフォワードが走り込んで来たセンターにパスを投げる。
「――っ!!」
ガン、とリングに叩きつける様にセンターがワンハンドダンクを決めて見せる。ぐっと拳を握り込んだ相手チームのセンターが視線を向けた先にはスコアと残り時間『12』と示された時計があった。
「――っつ! 戻れ!」
と、そのセンターがすぐさま自陣に向けて走り出す。その視線の先には誰よりも早く相手陣内に向かう浩之先輩の姿があった。
「浩之先輩!!」
思わず立ち上がり叫ぶ。攣った足が痛いのだろう、少しだけ足を引きずる様にしながら走る浩之先輩。相手チームのポイントガードが、エンドラインでボールを持つ秀明にボールを入れさせない様に必死のブロックをしてる。
「智美さん!!」
高い位置から放たれたボールを智美先輩が受け取ると、そのまま相手陣内にドリブル。が、直ぐに相手のパワーフォワードがチェックに入る。
「藤田!」
引き付けるだけ引きつけ、智美先輩から藤田先輩にボールが渡る。そのまま、藤田先輩は大きく振りかぶり、相手陣内に走り込んだ浩之先輩にボールを投げる。
「させるか!」
――投げる、フリをする。釣られて跳んだ相手のパワーフォワードにニヤリとした笑みを浮かべると、後ろから走り込んだ桐生先輩に優しくパスを出す。
「任せた!」
「任せなさい!」
一歩、二歩でトップスピードに乗った桐生先輩が相手のシューティングガードを抜き去る。そのまま、浩之先輩に向けてパスを出す。
「――東九条君!!」
ボールは浩之先輩の少し前に落ちる。普通の浩之先輩なら楽々間に合っていただろうが、今は足を攣った直後、予想以上にスピードが乗っていなかったのか、追いつかないボールに必死に手を伸ばす。
「……け」
が、無情にもボールに手が届かない。さらに一歩、足を踏み出そうとして浩之先輩がバランスを崩す。
「ああ!?」
隣で雫の悲鳴が上がる。そのまま、浩之先輩はバランスを崩して倒れ――
「――――いっけーーーーーー! 浩之先輩!!!」
――倒れ、ない。ぎゅっと左足を踏みしめてボールを掴む。
「――させない!」
スリーポイントラインから放たれようとした浩之先輩のシュートを防ぐよう、センターの子が飛ぶ。同時、浩之先輩も跳ねた。
「――フェイドアウェイ!?」
後ろに。ブロックの軌道から外れるよう、放たれたボールは綺麗な放物線を描いてゴールに向かう。同時、試合終了を告げるブザーが会場内に鳴り響いた。
「――入れ!」
リングに、ガン、ガン、と二回跳ねたそのボールは。
「――っ! 瑞穂!!」
「っ!!!」
――リングを舐める様に周り、ネットに吸い込まれた。




