第百十話 幕間。或いは川北瑞穂と親心
「どうも御世話になりました」
そう言って頭を下げる我が母親。担当してくれた病院の先生もいえいえなんて手を振っている。
「それじゃ瑞穂ちゃん、くれぐれも気を付けてね? 決して良くなったワケじゃないし、もし痛くなったらすぐに病院に来るんだよ?」
主治医の言葉に、私は頷いてみせる。余談だが、先生は私の事を『瑞穂ちゃん』と呼ぶ。小学校の頃からの付き合いだし、気にしなければいいのかも知れないが……高校生にもなってそれは少々きつい。っていうか、今のだって完全に小学生に掛ける言葉でしょ。
「……まあ、バスケットだけが人生じゃないけど……もし、リハビリをしようと思ったらいつでもおいでね?」
先生の言葉に曖昧に頷き、私とお母さんは病院を後にした。
「……うーん! いい天気ね!」
病院の玄関を出て空を見上げてみれば、真っ青な快晴。お母さんに続くよう、松葉杖を付いてひょこひょこ歩く私をチラリとみて、お母さんは大きく伸びをすると、病院の前に横付けしていた乗用車のドアを開けて『乗れ』とばかり目で促して来た。
「……お母さん、流石に病院の前に車横付けは無いんじゃない?」
「いいでしょ、別に。流行ってないんだし、ココ」
失礼な事を言う母だ。まあ……事実大繁盛していないから私が半月ぐらい居られたのだが。大丈夫か、この病院。
「それに……アンタ松葉杖でしょ? 駐車場まで歩くの大変でしょ? 結構距離もあるしさ?」
……不意打ちで優しい事を言う。なんだかずるい。
「……ん。それじゃ乗るね。ありが――」
「あ、土足禁止だからね。靴脱いで。松葉杖でも靴ぐらい脱げるでしょ?」
「――……いや、知ってたけどさ? 松葉杖の子にそんな事言う? 脱がせてあげようかとか無いの?」
「子供か。何時まで甘えてんのよ。ほれ、さっさと乗る!」
……前言撤回。なんだこの母親。そんなジト目を向ける私の事なんか気にもせず、お母さんは車に乗り込む。
「早く乗りなさいよね? 置いて行くわよ?」
「置いて行くんだったらお母さん、何しに来たのよ?」
「入院費を払いに来たんじゃない?」
……ぐぅの音も出ない。黙って肩を竦めて車に乗り込むと、お母さんはゆっくりとアクセルを踏み込んだ。病院を出て左折、しばらく走って国道に出ると、運転席のお母さんが私に話掛けて来た。
「アンタ、料理本読んでたんでしょ?」
「うん。まあね。っていうか、お母さんが買ってきてくれたんだから知ってるでしょ?」
「買って来たのは私だけど、アンタが真面目に読んだかどうかまでは知らないもん。だって私の娘だしね。読書、嫌いでしょ?」
「……よくご存じで。でもまあ、今回は読んだよ? あれ、イラスト入りだし結構読みやすかったしさ。ああ、ありがとね?」
「良いわよ、アレぐらい。それで? 読者家になった瑞穂ちゃんは、今ならなんか作れそうな感じ?」
「読者家って。うーん……簡単なのは何とかなるかな? まあ、本を見ながらだけど」
「上等じゃん」
そう言ってお母さんは一つ頷き。
「――それじゃ今日のお昼はアンタの手料理ね」
「鬼か」
「何がよ?」
「……いや、普通、病み上がりの娘にそんな事言う? 此処はお母さんの手料理じゃないの? ほら、味気ない病院食じゃなく、お袋の味的な」
「何が味気ない病院食よ。お菓子食べてたの知ってるんだからね?」
「うぐぅ」
「それに、別に『病み』あがりなワケじゃないでしょ? 手は無事なんだし、じゃ、問題ないじゃない?」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「なーんて冗談よ。流石の私でもそんな事は言わないわよ。なーに? そんな鬼みたいな事言うと思った?」
「……」
すいません、有り得ると思いました。そんな私のジト目を軽く笑顔で流し、お母さんは車のアクセルを踏みこむ。平日の十二時過ぎ、さして道は渋滞しておらず、私達を乗せた車は順調に家路を急ぐ。病院から私の家まで三十分ほど。車内でくだらない話をお母さんとしていると、信号に引っ掛かった。
「それで? どうすんのよ、瑞穂?」
「? どうとは?」
「これからは料理の鉄人になる為に、料理道を邁進するのか」
それとも。
「……リハビリ、するの?」
――リハビリをして、バスケを続けるのか、と。
「……私、バスケを辞めるから」
「……そう」
「……うん」
「いいの?」
自身の胸に問いかける……うん。大丈夫、後悔しない。
「……うん。後悔……しないから」
そう言って笑顔を作る私。そんな私に、お母さんも笑顔を返して。
「――嘘だね。アンタ、絶対後悔するよ」
「即答!? な、なんでよ!」
「何年アンタの母親してると思ってんのよ? アンタがこーんな小さい頃から、自分の頭ぐらいのボールを追いかけてたのも、誠司の後をちょこまかと走り回っていた姿も知ってるんだよ、私」
「う……」
「智美ちゃんや浩之君に憧れたのも、涼子ちゃんが試合の時に作ってくれたお弁当を楽しみにしてたのも、なんでも知ってる」
「……」
「茜ちゃんや秀明君に負けまいと……思ったのかどうかは知らないけど、毎日毎日日が暮れるまでボールを追ってたのもね。そんなバスケ馬鹿なアンタが、バスケを辞めて後悔しない?」
はんっと鼻で笑って。
「アンタの考えなんか全てまるっとお見通しだ、バーカ。今ここでバスケを辞めたら、アンタは絶対後悔するだろうね?」
「う、ううう……」
ぐうの音も出ない正論。言い淀むそんな私を見て、お母さんは苦笑をひとつ浮かべて見せた。
「……でもまあ、それも人生かな? いいじゃん、若人よ。散々悩みなさい」
「……うん」
「アンタまだ若いんだし? 別にバスケを『止めた』からと言って、また始めちゃいけないって事は無いでしょ? どうしてもやりたくなったら、また始めればいいじゃん。だから……辞めるじゃなくて、『休む』って考えたら?」
「……うん」
やがて信号が青に変わり、車はゆっくりと進みだす。なんとなく、車内に張り詰めた空気が流れる中、再びお母さんが口を開いた。
「……本当はね?」
「なに?」
「……瑞穂が病院に運ばれた、って聞いた時ね」
「……うん」
「私、心臓が止まるかって思った。っていうか、あの顧問の先生も悪いわよね? 『瑞穂さんが病院に運ばれました』って言われたら何事か! ってなるじゃない? 靭帯もそりゃ、大きな怪我だけど……でもまあ、命に係わる訳じゃないから、ごめんね、瑞穂。正直、ちょっと『ほっ』とした」
「……うん」
「だから、瑞穂が自分で決めて、バスケを辞めるんなら……もう怪我の心配しなくて済むのは……ちょっと嬉しい」
「……」
「親にあんまり心配さすな、馬鹿娘」
「……ごめん」
「……」
「……」
「……お母さんは……」
「うん?」
「私が、バスケ続けない方が……いい?」
「……」
「……」
「……自分の娘が、親に気を使ってしたい事しない方が、私は辛い」
「……」
「親にまで気を使うな、馬鹿娘」
「……ごめん」
「瑞穂の人生よ。瑞穂の好きなようにすればいいわ。でも……後悔はして欲しくない」
「……うん」
「さて、暗い話はココまで! お昼、どっか食べに行こうよ! 退院祝いで!」
「退院祝いで自分で作る、って選択肢は無いの?」
「え? 自分でって瑞穂が?」
「お母さんが!」
「ある訳無いでしょ、そんな選択肢」
笑いながらそういう母に、私は小さくため息を吐いて。
「……ありがと」
「ん? なんか言った?」
「なんにも! それじゃ私、お蕎麦食べたい!」
「残念。母の口はラーメンになっています。美味しいラーメン屋見つけたから行こうぜ~」
「はぁ!? 普通、此処は娘を優先しない? っていうか、決まってるなら聞くな!」
「誰も瑞穂の行きたい所に行くなんて言って無いもーん。聞いて見ただけ~」
「語尾を伸ばすな! いいおばさんの癖に!」
「……へー。歩いて帰りたいんだ、瑞穂?」
「……正直、スミマセンデシタ」
車の中でぎゃーぎゃー騒ぎながら。
なんだろう? あの日から初めて、私は心の底から笑った気がした。