第九十六話 幕間。或いは川北瑞穂の一人語
個人的にこの書き方は好ましくないんですが……どうしても、必要なんで使います。一人称ってこれが難しいよね……
――はじめに聞こえたのは、『ブチ』っというゴムの切れるような音。ついで、硬い筈の体育館のコートが沈むような感覚。その後に襲って来たのは火照ったはずの体からどんどん熱が引いて行くようなイヤな汗。
病院に運ばれてから先生に聞いた症状が、『十字靭帯損傷』。スポーツ界では割とポピュラーな病名だ。そもそも靭帯という器官自体が、自己修復するようには出来ていないらしい。膝周りの筋肉を鍛える事で日常生活は問題なくこなす事が出来るが、部活レベルと言えど、スポーツに復帰しようとすると手術をする必要がある。しかも、別の健康な腱を切り取って、靭帯に移植するらしい。私も一応年頃の女の子、あまり体に傷をつける事はしたくない。
――それでも、バスケに復帰できるのならやむを得ない。次の先生の言葉を聞くまでは、私はそう思っていた。
『手術をしてから一年はリハビリ。そこから軽めの練習をすれば……引退試合くらいまでには、試合に出れるかもしれない。完全に回復するまでに、一年から二年は見てくれ』
最初に浮かんだのは、絶望だった。次いで虚無感。
『一日練習をサボると、取り戻すのに三日かかる』と、小学校時代の恩師は良く練習中に言っていた。では私は、六年経たないとこの二年は取り戻せないという事か?
御世辞にも上手いとは言えない、口が裂けても才能があるとは言えない私。練習だけが私を支えていた事は、自分でも良く分かっている。それが……二年間、大した練習が出来ない?
先輩や同級生の言葉には何とか笑顔で答えたが、浩之先輩の顔を見たら、もう、ダメだった。言うに事欠いて、『私を抱いてください』だ。どこの三文芝居かと自分でも思った。思いながらしかし、そういう気分になる自分も分かった。人生の半分近くをバスケと共にあった私が、バスケを辞めなければならない。
――寂しかった。どうしようもなく、苦しかった。
「……浩之先輩」
虚空に向けて放った言葉は、宙に溶ける。
「……苦しいです……浩之先輩」
ベットの中で私は一人、泣いた。
◆◇◆
「やっほー瑞穂~。元気?」
ノックもなしに私の個室に入ってきたのは雫。今はベットで読書中だからいいものの、着替え中だったらどうするつもりだ? そう思い、ジト目と苦言を向ける私に、雫はきょとんとした顔で答えた。
「ん? 女同士じゃない。気にしないの~」
私の苦言にも笑顔を返す雫。全く……理沙も苦笑してるじゃないか。
「ごめんね、瑞穂」
「……別に理沙に謝って貰う事じゃないけど……椅子、自分で出して」
「いいよ、ここで」
そう言って二人して、ベットの端に腰を降ろす。二人がそれで良いなら良いけど、と思いながらそちらを見ていると、理沙が興味深げに視線を私の手元に落とす。
「何読んでたの?」
理沙の質問に、私は持っていた本のタイトルを見せてみせる。
「……『愛情一杯! これでカレシをゲットだぜ! 必勝料理大全』……ええっと……方向性が読めない本なんだけど……料理本……よね?」
「そうよ。大丈夫、中身はちゃんとしているから」
私の言葉に理沙が微妙な笑顔を浮かべた。
……まあ、無理も無い。私も初めてこの本のタイトルを見たときは目を丸くした。暇だから料理の本でも買って来て、と母に告げたところ、ニヤニヤしながら買って来てくれたのがこれだ。まあ、確かに家でも料理なんて一切した事の無かった私が、いきなり料理本を買って来いと言ったのだから、色っぽい話を想像するのも無理は無かろうが……それでもこのセンスはどうよ?
「ふーん……料理本ね。瑞穂、料理なんて出来たっけ?」
御見舞いの林檎を齧りながら、失礼な事を聞いてくる雫。あと、林檎を食べるなとは言わないが、女子高生が丸かじりはやめてほしい。雫、貴方も女の子なんだからね?
「失礼ね。出来るわよ!」
なんだかんだ言っても私もあの幼馴染ズの後輩だ。料理の鉄人にして、女子力……というか、主婦力の塊みたいな涼子先輩に料理を学んだ事だってあるんだ!
「……卵焼きぐらいは」
……まあ、そこが私の限界だったが。
「……それって料理?」
「し、雫! た、卵焼きは難しいんだよ? ね、瑞穂? 特に、上手く巻くのは結構コツが――」
「……大体失敗してスクランブルエッグになるけど」
「……」
私のフォローを一生懸命してくれていた理沙が黙り込む。な、なによ。スクランブルエッグだって立派な料理じゃない。
「瑞穂の言うとおりだけど、それは卵焼きじゃないわよ」
林檎を齧りながら大笑いする雫。くそ、反論できない! やがて、林檎を芯だけ残して綺麗に平らげた雫が、こちらを振り向く。
「それで? 退院はいつ?」
「ん……まあもう直ぐ出来るかな?」
正直、重い病気って訳でも無いし、退院しようと思えばいつでも退院出来る。我が家は共働きで、怪我人の世話まで出来ない、と言う母親の鶴の一声で、病院のベットが空いてるのをいい事にずるずる居座っているだけだ。そもそもこの病院、スポーツ医学では結構有名な為、主治医の先生には小学校生の時から御世話になっている、一種のお父さんみたいな感じ。私も大して気兼ねする事無く居れるので、それは良いのだが……普通、傷心で、怪我人の娘をほったらかしにするか? 酷い母親だ。
「まあ、瑞穂はいつも頑張ってたしね。休憩だと思って、ゆっくり休んでなよ? あ、これ、今日の授業のノートね」
そう言って、私に数学と物理のノートを手渡してくれる理沙。
「ごめんね?」
「気にしないでいいよ! 私ら友達じゃん!」
「いや、雫、それは私の台詞だと思うんだけど……でも、本当に気にしないでいいよ?」
そう言ってにっこり笑う理沙。あ、ちょっと嬉しくて泣きそう。
「……ありがとう」
悟られないように目を伏せ、私は理沙のノートに目を通す。細やかな字で、読みやすい理沙のノート。
私がこの病院に入院して今日で一週間。理沙と雫は、その間毎日足を運んでくれる。
『私らが好きでしてるんだから、あんたは気にせずデーンと構えておけばいいの!』
授業もあるし、部活もある。その合間を縫う様に私のお見舞いに来てくれる二人にそう言ったのは一昨日の事。一笑に付す雫と、隣でにこやかに頷く理沙に、私は泣きそうになった物だ。そもそも、体調管理も選手の立派な練習の内。もともと身長が低く、体の小さい私は体のケアには充分気を使わなければ行けなかったのだし、自業自得なのだが……それでも心配して見に来てくれる出来た友人には頭が下がるモノだ。
「……」
浩之先輩は……あれ以来お見舞いには来てくれない。当然だろう、あんな、はしたなくて、みっともない事を言ったのだ。私自身、合わせる顔が無い。合わせる顔が無いが……
「……どうしたの、瑞穂?」
急に黙り込んだ私を見て、心配そうに理沙が声を掛けてくれる。そうだ、悩むのは一人の時でいい。折角お見舞いに来てくれている二人に、失礼では無いか。
「う、ううん。何でもない。そ、そうだ。最近、どう?」
「どう? とは?」
「ほ、ほら、学校とか……部活とか」
私の言葉に、理沙と雫が少し考え込む。あれ? 私なんか、変な事言った?
「……そうね。まあ、色々ある」
「……色々?」
「あの体力お化け、マジで許さない。なによ、『デカいだけが取り柄かよ』って……許さない、絶対に許さない……」
「……なんの話?」
「こっちの話……もう、雫! 先輩にそんな事言ったら失礼よ? 頑張ってるじゃない、藤田先輩」
「それは……認めるけど……でもね!? あの人、マジでデリカシー無いんだよ!」
「それは……そうかもだけど」
話が見えない。頭に疑問符を浮かべる私に、理沙が優しく笑いかけてきた。なんぞ?
「まあ……詳しくは言えないけどね?」
そう言って何か少しだけ羨ましそうに私を見やり。
「――愛されてるね、瑞穂!」