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僕と彼女の夢紡ぎ

新作じゃないです。古いデータ整理してたら出てきたからアップだけする。(中身チェックしてない)

こんな事を言うと変態とか妄想人とからかわれるかもしれないけれど、僕は夢に出てきた女の子と恋をしている。

 夢に出てくる女の子に、でもなく、夢に出てくる女の子と、恋をしている。コレは重要。つまり、僕らは両思いだ。多分。そう、別に恋人ってわけじゃないけど、夢の中で僕は彼女と両想いだって事はわかっている。完全にその夢の前提として理解している。夢の設定、みたいなものだと思う。

 僕はどこかアラビア風の宮殿の結構下っ端の兵士みたいな感じで、彼女は皇帝のお妃様候補だ。お妃様、と言ってもそれは皇帝のハレム要員ってだけで、皇帝の子供を身篭らない事には彼女はただのハレムの女の人って事で。でも、ハレムの女の人は全て皇帝のものだから、僕がどうのこうの、というのは考えも及ばない。

でも、僕は彼女がとても好きで、好きで、好きでたまらなくて。彼女がハレムから出てどこかで何かをするという噂を聞けば、どうにか仕事に都合をつけて、同僚を拝み倒したり、何かを奢ると約束したり、とにかくそうやって、遠くからでも一目でも彼女に会おうと思う。

好きで好きで大好きで。焦がれて焦がれて、手が届かなくて辛くて涙が出そうになって、でも涙が出てもどうしようもなくて。ただやっぱり大好きで大好きで側に行きたくて会いたくて触れたくて触りたくて。


そんな思いで目を覚ました。

もう、朝っぱらから胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて、泣きたいような、たまらなく切なくて、すごく優しくて、悲しい気持ちになっていて。ああもうどうしよう!

ってなって、その興奮冷めやらないんだけど、現実は結構現実的で、俺はそんな感情の真っ只中でもベッドから下りなければならず、制服に着替えなければならず、朝飯もしっかり食べなければならず、しっかりトイレにも行って出すものを出して、学校に行く。

なんて現実的で、しっかりきっちりした世界。

でも、今日の俺には違って見える世界。

世界の色は、恋をしている俺の目にはまるで違った物に見えてしまう。世界のどこかに彼女が居る事を願い、彼女を探してしまう。まだ半分俺の恋心は夢の中で、その半分のロマンティックな心が、彼女はきっと近くに居る、と散々な結果に終わりそうな期待を振り撒く。

そこで、本当は彼女が見つからないのが現実で、俺は普通にそんな夢を抱いているのもいつの間にか忘れ去って、いつか可愛い違う女の子に恋をして、振られるか成功するかして、いくつかそれを繰り返して、結婚して、おじさんになって……。

と歩むはずだと思うのだけど。それが現実的ってものだと思うのだけど。

その日の俺の現実はどこかずれていた。夢が影響したのか、それとも俺の心象が影響したのか、いやいやそれよりもただの偶然なのかもしれないけど。

とにかく、それは起こってしまった。

つまり、現実的ではなく。彼女は見つかってしまった。

だから、俺の物語は始まる事が出来たのだ。ここから。


夢的で妄想的な恋を抱えたまま学校についた俺は、しばらくまだ胸の甘い感触が残っていて、傍から言わせるといわゆるアホ面をしていたらしい。友人が何人かからかい混じりに殴ってきても治らないから、重傷の烙印を押されて、それでも尚、ぼーっとし続けた俺の目に、ようやく精気が戻ってきたのは3時間目の授業もようやく終わりかけた頃だった。  

確か授業と授業の間の10分休み。その時に友人の小早川がからかう声で俺の頭を肘で小突いたのが原因だった。

「おい、お前のだいっ好きな森泉もりいずみさんが通るぞ!」

森泉さんというのは隣の隣のクラスの女の子で、学年でも人気の高い女の子だ。背が小さくて、色が白くて、目がくりっとしていて、動作が小動物系でとても可愛らしい。確かに夢の中の女の子に恋をする前の俺の中ではナンバーワンを誇る可愛らしさで、彼女が可愛いと思う事を俺は公言して憚らなかったし、彼女が通ると囁きあって盗み見るというのは、褒められた事じゃないかもしれないけれど、同学年の男子はみんなやっている事だった。

つい、条件反射で、というよりはやっぱり別の子に恋をしていても俺も男の子なわけで、ついついそっちに目をやる。でも、その時に俺の目に入ったのは、森泉さんではなくて。確かに森泉さんも可愛いんだけど、彼女と一緒に歩いている数人の女の子の中に居る、別の女の子で。

 俺は、その子をみた瞬間、彼女が夢の中の女の子である事を確信した。

 夢の中の女の子はアラビア風で、もちろん顔立ちだって格好だって肌や目の色だってアラビア風だったのに、それでも俺は彼女が夢の中の女の子と同一人物である事を確信した。

 彼女は、黒いロングヘアで、少し切れ長の目をした女の子だった。顔立ちは整っているけれど、特に目立つタイプでもないし、なんというか、少し近づき難い雰囲気があるように見える。

 「小早川!」

 突然叫んだ俺に、小早川はびっくりとして、視線を森泉さんの方から俺に移した。

 「なんだよ。びっくりするなあ」

 「あれ、誰だよ。あれ」

 「あれ? どれだよ」

 「あの森泉さんの右側のロングヘアの」

 「ああ」

 小早川は納得したような声を出すと、突然森泉さんたちの方を向かって叫んだ。

 「サワタリ!」

 サワタリ?

 その声が廊下に響いて、そして彼女がこちらを向く。彼女、夢の中の女の子、サワタリさんが。僅かに顔をしかめて小早川の方を向いて、それから、その隣にいる俺を見つけて、その切れ長の瞳が大きく見開かれる。

 それはとても一瞬のことだったけど、俺はそれを見逃さなくて。だから気付いてしまった。

 彼女も、同じ夢に生きている。

 きっと彼女も、俺と同じ夢を見た。


 猿渡さん、彼女は小早川のいわゆる幼馴染というやつらしい。と、言うわけで愚かな俺はついうっかり、興奮して、小早川に夢で恋した女の子の事を打ち明けてしまい、当然のように物笑いの種になった。

 「俺がお前のその夢、診断してやろうか?」

 小早川はにやにやと笑いながら言う。

 「つまりお前はだな。実はいつも森泉さんの隣に居る猿渡をいいな、と無意識に思っていて、その願望が夢になって出てしまったんだよ」

 「ちげーよ。俺、今日始めて猿渡さん、知ったもん」

 「だから、無意識に目に入ってていいな、って思ってたんだって」

 「平安時代とかだと、夢に見るのは相手が自分の事を恋焦がれて、ってらしいよ? そのセンは?」

 と話に入ってきたのは横で聞いていた浜井で、その言葉に小早川は少し不満そうに言う。

 「猿渡がこいつなんかを恋焦がれる? 馬鹿なのに?」

 「馬鹿ってなんだ」

 「馬鹿じゃん」

 「うんまあ、でも馬鹿でも別に恋愛できないわけじゃないし」

 「馬鹿を肯定するな浜井!」

 にやにや笑いの小早川が、尚もからかうように、俺の顔を覗きこむ。

 「おっ前、今夜は俺の幼馴染のエロい夢とか見るんじゃねーぞ」

 「見ねーよ!」

 「いやでも夢ってのは願望の表れらしいよね」

 浜井がまた余計な口を出す。コイツはどちらの味方というわけでもなく、ただ本当に思ったことを言う。

 「お、いいね流石フロイト信者」

 「いや俺フロイト読んだ事ないし」

 ふろいと?風呂意図?どんな意図だそれは、と思いながらまた馬鹿って言われるからどうせ興味もないしそれは聞かないで二人は放っておいて、明日どうやって猿渡さんに話を切り出そうかに思いを巡らせた。


 次の日も、夢で猿渡さんを見た。僕は少しだけ出世して、彼女は相変らずハレムで過ごしていた。

 僕は、厚くて熱い兵士の服を着ながら、彼女はどうしているだろうな、と考える。照りつける太陽と、青い空の下、多くの壁と多くの部屋と、多くの廊下を隔てた向こうでもきちんと彼女が居ると言う事が嬉しくて、少し歯痒い。

 夢の中の僕は以前彼女と会話をした事があるようで、その会話を繰り返し繰り返し思い出す。その時の彼女の仕草や笑い声や、ちょっとした癖を繰り返し繰り返し、いとおしむ様に思い返す。それしか出来る事がないから、とにかくそれをする。

 僕はとにかくいつも彼女を想う。例えば抜けるような空を見ても、濃く茂る熱帯の木を見ても、極彩色の花を見ても、混み合う街中で若い女の子の軽やかな笑い声が聞こえてきても、立ち並ぶ物売りのテントの中で鮮やかな柄の布を見つけても、水の跳ねるのを見ても、鳥が飛ぶのをみても。とにかく何が何でも彼女を想う。

 それは一時の熱情と呼ばれるものだと、知らないわけではないのだけど、会えないほどに歯止めが利かなくなる。

 そして僕は同僚にからかわれる。僕は同時期に文官として採用された頭の切れるその同僚が、順調に出世していく様を、少し妬ましく思いながらも彼を信頼している。彼の出世は早くて、僕は人並み。でも僕は彼女の事を考えるとそんな事も些末な事だと思えてしまう。心がスッと浄化されるような気がする。

 それに僕も、少しずつ部下、というか後輩、みたいなものが出来てきて、結構自分で言うのもなんだけど、人望もあって、そこそこ満足できていたのだ。

 そして、僕は彼女が遠出をするという噂を聞きつけて、そしていつものようにこっそりと姿を見ようと、見張りの城壁の上から彼女の進む道を見張る。ある意味職権乱用。わかってはいるけど、夢の中の僕はそれくらいなりふり構っていられない。

 彼女が通る。

 僕を見る。

 そして、彼女の口が開く。

 「明日。 昼休みに屋上で」

 明日、昼休みに屋上で?

 唖然とする暇もない。そんな必要もない。

 うん、了解。OK。分かりました、猿渡さん。



 「本当にいるし……。」

 自分で指定したくせに、猿渡さんは俺の姿を屋上のフェンスの前に見つけると、あからさまに顔をしかめて嫌な顔をした。嫌な顔、というか複雑な顔、というか。とにかく俺を手放しで歓迎している様子とはとても言えなかった。

 「いるよ。そりゃあ。だって他でもない猿渡さんからのお誘いだし」

 「お誘い、って。私が誘ったわけじゃないよ」

 「誘ってくれたよ」

 「非現実的すぎる」

 猿渡さんは苦虫を噛み潰したような顔で言う。

 「それは認めるけどさ。……猿渡さんは、試したの?」

 何を、とは言わなかった。言わなかったけど、了解済みだと思う。俺にとっても彼女にとっても、夢は夢なのだ。俺たちはごく普通に学生生活を送っているし、送れているので、俺たちの生活の中に夢の介入する隙など本来はないはずなのだ。だから、夢の話を現実に持ち込むなんて、本来ならあり得ない、一笑に付されてそれでおしまい、の可能性がものすごく大きいのだ。

猿渡さんは首を振った。横に。

「試してなんかないよ。秋山君に声を掛けたのは、彼女だから」

猿渡さんは、夢の中の女の子を「彼女」と呼んだ。

「彼女は猿渡さんじゃないの?」

「そうだけど、そうじゃない気がする。夢の中だと当然のようにやってる事とか、目が醒めて改めて思い返してみると、現実の私なら絶対思わないな、とか、できないな、って思うような行動ばっかりだから。たしかに夢の中の主観は私で、私が考えて自分が行動してるから、私は彼女に同一視しそうになるけど、本当に彼女が私なのか、よくわからない」

「つまり、猿渡さんは俺に声を掛けてみる気はさらさらなかったって事?」

「現実ではね」

「まあ、どっちにしろ遅かれ早かれ俺の方から何らかのアプローチをしただろうからそれはまあ、いいとして。じゃあ、夢の中の君は俺を試したのかな?」

俺の問いかけに猿渡さんは僅かに目を上向きにして考えるように小首を傾げた。ストレートの黒い髪がさらりと流れるのが、妙に目に付く。彼女の背後のフェンスの後ろには、青い空と平凡な小さな住宅地が見下ろせた。住宅街の色は、総じて灰色の気がした。

「彼女は私たちが現実で出会える可能性を知らないよ。多分。ただ、彼女にはどうしても彼に伝えたいことがあって、伝えなければならないと思う事があって、だから、現実のことは知らない設定なんだけど、奥底で知たんだと思う。」

「伝えたいことって?」

「言わない」

意外な言葉にびっくりする俺に、猿渡さんはとても挑発的な目をしていた。挑発的で、ぎらぎらしていて、奥底で炎が燃えているようで。勿論俺が見惚れてしまうに充分な。

「私は彼女の思い通りに動くとは限らない。私は彼女を体感しているからといって彼女じゃないし。私には私のアイデンティティがあるんだから。……だから、私が夢の中と同じように、秋山君を好きになるって事も、私は拒否するよ」

好きじゃない、と言われなかったのを喜ぶべきか。でも拒否された事には変わりなく。

女の子は複雑なのかなぁ。それとも彼女が特別自我が強い人なのか。いやいや、もしかして。

俺が単純馬鹿なせい、かなあ? やっぱ。

 とにかく俺は、俺にしては珍しく、とても落ち込んだ。

そして、とりあえず、家に帰って真っ先に「アイデンティティ」を辞書で調べた。調べたけど。自己同一性? なにそれ? 俺は俺じゃん。こうして感じている俺が居る場所が俺じゃん、と。俺は思った。


 はてさて、どうした事か。夢は形を変えて持続する。その中核は変えずに様相を変える。夢の中の僕は特にそれを不思議に思わずに諾々と受け入れる。受け入れながら、やっぱりずっと彼女を愛す。

例えばある時はわが国日本が平安時代。猿渡さんは帝の後宮の妃の一人。僕は田舎貴族。はたまたある時は、古代エジプト。ピラミッドそびえる灼熱の砂漠の中の皇帝宮で、やはり僕はハレムの奥に住まう彼女に焦がれつくす。

それでも、舞台が変わろうとも僕らの話は続いていく。少しずつ、僕らは進んで行く。進むといっても、僕は相変らず少しずつ着実に出世はするものの、目覚しい活躍もなく、ぱっとしない人生であったけれども。そして、一番親しかった同僚は相変らず出世を続け、今では僕が敬語で話さなければいけない相手になってしまったけれど。

僕は段々恐れるようになる。この想いが風化してしまわないかと。会えないうちに、想像の上でさえ、彼女を見失いそうで、それを怖れて一層、何度も彼女を思い出し、彼女の名前を呟き、彼女の姿を頭の中でなぞる。

僕はさすがにだんだん寂しくなってくる。ときどきやりきれなくなって泣きそうになる。辛くて吐きそうになる。こんなに辛いのならいっそ……。と何度か考えたりもして。僕の心は純粋な愛で染まっていた過去を懐かしむ。

それでも僕は、それを信じている。なにか明るいものを。なにか希望に満ちたものが彼女と僕の間に存在するようになると、信じて、乗り越える。えいや! と。

そんな僕を、目が覚めて思い返した現実の俺はカッコイイ、と思った。


そして、現実の猿渡さんに、俺は何度もアプローチを試みる。俺の想いが報われたところで夢の中の俺の想いが報われるかどうかはわからないけれど。俺と俺の夢とはどこかにパイプのようなものがあって、それが通じ合っている気がして。俺と猿渡さんとの間に変化が生じれば、そこから何かがそのパイプを伝って行って、夢の世界の現象に、どこかで作用を及ぼすのではないかと。なんとなく漠然と、そんな風に考えていたこともあった。だけどやっぱり何より最大の理由は、俺が猿渡さんを好きであった事にあった。

俺は彼女に、俺がどんなに彼女を好きかを語ろうとすると、猿渡さんはいつも白けた瞳で俺を見た。

 「私、小早川に聞いたんだけど」

 猿渡さんと俺は屋上にいて、猿渡さんは緑色のパックの豆乳を飲んでいた。一度、一口貰ったことがあるけど、俺の想像では乳という名前のつくもの、という事で頭の中で牛乳的な味を想像していたので、口の中にむせ返るような大豆匂に思わず咽て咳き込んでしまった覚えのあるいわくつきの調整豆乳。

 「秋山君は、夢を見るまでは泉ちゃんに夢中だったんでしょ?」

 泉ちゃん、と猿渡さんが呼ぶのは森泉さんで、森泉さんが森泉泉、というへんてこりんな名前なわけではもちろんなく、森泉千歌さん、というのだけど、猿渡さん達友人的には千歌ちゃんと呼ぶより、泉ちゃん、らしい。よくわからないけど。ちなみに猿渡さんの名前は響子さんなんだけど、一度名前で呼んで良い? と聞いたらそりゃもう即行で断られた。

 「あのね、猿渡さん」

 俺はとても真面目に猿渡さんの顔を見て言う。

 「俺は確かに森泉さんの事は可愛いとは思うんだけどね。もし、仮に綾瀬はるかちゃんと森泉さんが俺に告白してくれたら、俺は迷わず綾瀬はるかちゃんをとるね」

 綾瀬はるかちゃんは、いわずもがな、タレントの女の子だ。可愛い。

 猿渡さんの顔が非難するようにしかめられるのを見ながらも、俺は続ける。

 「だけどね、もし猿渡さんがその中に入ってくれたら俺は脇目も振らずに猿渡さんをとるんだよ。いくら森泉さんが可愛くたって、それは、恋とかじゃないんだ」

 ちゅー、と猿渡さんがストローで豆乳を吸う音が聞こえた。下の方の校庭から、バレーボールをする女の子達の明るい声が遠く聞こえている。風はなくて、俺は屋上の地面に座り、フェンスに背を持たせかけている猿渡さんの周囲の流行に合わせてか、少し短めのスカートの裾と、その下の白い太ももに目をやらないように極力注意をしていなければならなかった。

 「彼女があの日、夢で秋山君を呼び出したのは、夢の中の秋山君に危険が迫っているからだよ」

 ストローから口を離して、唐突に猿渡さんはそう言った。ぽかんとした俺の目は、自然その唇を追う。彼女の薄ピンクの唇から、夢についての言葉は漏れる。

 「彼女はそれの全容を知っていて、秋山君になんとか伝えたいと思っているけど、伝えられない。なぜなら私が伝えないから。どうして私が伝えないかと言うと、私は夢は夢で完結させておきたいから。夢の中の話を現実に持ち込むのは馬鹿げていると思うし。……それに、正直言うと、夢に現実を浸食されているようで恐いから」

 淡々と、まるでまだストローから豆乳を飲み続けて居るかのような同じ速度で同じ口調で、彼女は語る。

 「秋山君は、恐くないの?」

 「わかんねー。俺は、夢の中の俺も俺だと思ってるし。それは、俺は、あいでんてぃてぃとか、よくわからない馬鹿で、猿渡さんが頭がいいからだと思うけど。」

 猿渡さんは、俺の言葉を吟味するように少し俺を眺めて、それから視線を地面のコンクリートに落とした。

 「違うよ。きっと。……秋山君が、怖くないのはきっと、秋山君が自分に自信があるからだよ。自分は自分だって言える確固としたものを持ってるからだよ。私は、自分に自信がないから、必至になって自分らしさを探そうとするんだ」

 「猿渡さんは、自信がないの?」

 俺の言葉に、猿渡さんは口元に、どこか大人びた微笑を浮かべた。

 「時々、誰でもいいんじゃないかって思う。女の子のグループの中にいて、皆でわいわい話していても、私は私じゃなくても、泉ちゃんでも、槇ちゃんでも、キヨでも。誰が誰に代わっても同じじゃないかって気がする。私が私である必要性がないような。だから、私は必死になって自分らしさを作って守ろうとする。でも、秋山君はそのままで確かに秋山君だって気がするから、だから夢の彼が自分だって素直に受け入れられるんだよ」

 わかる? という風に猿渡さんは俺を見上げた。

 正直言って、さっぱりわからなかった。どこをどうとっても良く分からなかった。森泉さんは森泉さんで、猿渡さんは猿渡さんで、それで正解、それが正しいはずなのに。

 「ごめん。変な話した。」

 猿渡さんはそう言って、俺を気遣うような顔をした。俺が余程、きょとんとした意味不明を前面に出した顔をしていたのだと思う。

 「とにかく、そんなわけで、私は夢と現実を切り離しておきたいから、彼女が伝えたがっている危険は秋山君には話さない」

 そう言って、猿渡さんはこの話を止めた。

だけど、ねえ。猿渡さん。

 危険が迫っている、という事実を俺に教えてしまった事、それ自体はいいのかな?


 夢の中で僕は現実の僕の事を知らないはずなのに、自分に危険が迫っている、ということは知っていた。いつの間にか、知っていた。

 でもそれは、どんな種類の危険なのかまるで見当がつかなくて。彼女が知っていそうで僕が知らない危険? と考えても漠然としすぎていてよくわからなくて。彼女は後宮奥深くにいて、僕の想像もつかない場所で生活しているわけだから、もしかしたら僕の思いの寄らない噂話なども耳に入ってくるのだろう。だけど、危険って何だろう?一兵士である僕に及ぶような危険なんていったら多分、近々蛮族が責めてくる、とか、いくさが近い、とかそのような事だろうか、とは思うけれど。だけど、そう言ったことを事前に聞かされたところで僕は兵士である以上、戦から逃げるわけにもいけないし、どうしようもない事だ。それに、戦は危険ではあるけれど、僕のような身分のものには逆に好機でもある。つまり、出世する。つまり、その分、彼女に近づける。そういった機会を得られる可能性があるのだ。

 だからもし、その様な類の危険を彼女が僕に伝えようとしていて、僕にそこから逃げて欲しいと思っているとしても、僕はそうする気はさらさらない。

 それに、もしそれで僕が死ぬ事になったら。死ぬことになったら?

 もしかしたら、彼女の心は僕のことでいっぱいになって、絶望して、もしかしたら、もしかしたら……という筋書きは自惚れと自己中心的心根が溢れすぎていて、一瞬考えて自己嫌悪。駄目だ駄目だ。彼女にはきちんと生きて幸せになってもらわなくちゃって。うん、それで、ぼくもやっぱり死ぬことになるのは考えるのはよそう。やっぱ僕は死ぬわけには行かなくって、なぜかと言うと彼女にせめて一目遭うまでは。

 結局こう考えると戦で勝ち抜く対策を考えるのが自分の最善策だという結論に陥って、僕はますます訓練に精を出す。


 「秋山君て、犬みたいだね」

お昼時に、猿渡さんに分けてもらったお弁当のウィンナーを喜んで食べていたら、それを眺めていた猿渡さんは呆れたようにそう言った。

「猿渡さんはなんか猫な感じだよね」

「猿じゃなくて?」

「サル?」

「私の名前」

ワケが分からなくて首を傾げる俺に、猿渡さんは苦笑しながら言う。

「小さい頃、よくからかわれただけ。私の名前、猿がつくでしょ?」

「え!? そうなの?」

俺が驚くと、猿渡さんも驚いた。

「秋山君、私の名前、どう書くか知ってる?」

「……猿渡さんはサワタリさんだよ!」

猿渡さんは、自分の携帯電話を取り出すと、メール画面を開いてプチプチと文字を打ち込む。俺はそれを覗き込む。

『猿渡 響子』

「……さるべ?」

「これで猿渡、って読むの」

「へー、初めて知った」

 言うと、猿渡さんの嘆息の息が、思いの外近くで聞こえて。そういえば、狭い携帯の画面を見るために、気付けばかなり顔を猿渡さんの顔に近づけていて。

気付いてしまった途端、急に俺はどぎまぎしてしまった。だってちょと、近すぎて体温とかも微かに感じられそうな程、側にいて。おいおいちょっと動けば触れるぞ、とか思ったら尋常じゃなく心臓の鼓動が早くなって、自分で驚くほど顔が真っ赤になっていくのが分かった。

 「初めて知ったのね……」

 うわぁ、どうしよう。声って本当に空気の振動なんだ。猿渡さんの声が俺の頬の辺りを掠める。くすぐる。 

「名前は知ってたって。サワタリキョーコさん。ただ、漢字を知らなかっただけで」

 ホントに、耳の側で、って言うか体の内側から全体に響き渡るような感じでどきどきして、ばくばくしてて、体中がカーと熱くなって。自分が何を話してるかよく分かってなくて、とりあえず話は続いてるんだけど、俺の意識はずっと隣の猿渡さんで。

 なんて都合の良い事に、屋上の、俺たちの居る場所は良い感じの死角になっていて。っていかんいかん、不純モードになってる自分の気分をなんとか引き戻そうと理性総動員。 だがしかし、だったら離れてしまえばいいんじゃないかと思うかもしれないが、このポジションはなかなか美味しくて、いやいやもったいねーだろ、とか思ったり。

 とか自分の思考にぐるぐるしてたら猿渡さんが俺の顔を覗きこんでくる。

 「……どうしたの? さっきからすごく人の話聞いてなくない?」

 「どうしよう、猿渡さん。俺、猿渡さんをめちゃくちゃ抱きしめたいんだけど」

 「は!?」

 当然といえば当然だけど、猿渡さんは俺の側から体を離して少し後ずさりした。ああ、残念……。

 「何を突然」

 「好きな子と接近した青少年の健全な思考だと思います」

 「少しは自制して……」

 はああ、と猿渡さんは溜息を一つ。だけど、俺に伝染されてか、ちょっと赤くなってしまった顔を隠すように手を額にあてて、もう一つ溜息。

 「あのね、私と秋山君は恋人同士じゃないんだよ?」

 「わかってるけどー……」

 「けどー、て可愛く言われても」

 「だって猿渡さん、可愛いんだもん」

 「だもん、じゃないし!」

 なんとなく、逃げられると追いたくなる習性で後ずさりする猿渡さんに近寄ってみると、猿渡さんは更に後ずさりした。ので、また近づいてみる。

 「秋山君、それは犯罪よ!」

 「……ホントに駄目?」

 「駄目! 子犬のような目で見上げても断固駄目!」

 猿渡さんは慌てて立ち上がって、素早く自分の荷物をかき集めると、じゃあ、と言って駆け去ってしまう。

 ひらめく猿渡さんのスカートに目を奪われつつ、後姿を大人しく見守って、俺も大きく溜息。

 「ワン」

 と、一言呟いてみた。



 夢の中での僕は、恋に一途だけど、だからって本当に恋だけに生きてるわけじゃない。仕事だってするし、食事だってするし、ウンコだってする。同僚や友人たちと遊びに出たりだってする。僕に女っ気のない事を心配して、紹介してくれるって友人だって少なくない。有難いことだけどノーセンキューと断る事が多くても、たまには断れない時だってある。例えば、上司やら先輩やらに薦められた時。例えば、何回も断り続けていて流石に気まずい時。例えば、薦めてくれた相手が僕より身分が高くて同僚といえども、いつのまにか序列のある関係になってしまっていた場合。そう、それ。

そんなわけで、僕は今、とてつもなく気まずい思いをしている。出世した同僚に紹介してもらった女の子はとても可愛いし、僕の自惚れじゃなく、僕にそこそこ好意を持ってくれているらしいんだけど、僕はほとほと困り果てている。正直に言おう、ここは僕の寝室で、説明が必要だと言うのなら、ここは西洋風の建物で、僕の服装はともかく、男性がレースのブラウスを着たり、タイツを履くのがおかしくない時代だ。まあ、それはともかく、僕が困り果てているのは、目の前の女の子とは勿論そんな約束をした覚えもないし、勘違いされるような素振りも多分、とっていないと思うのに、僕の寝室に夜中に押しかけて来られている、という事実。おいちょっと、なんだこの予想外な展開。いくら据え膳食わねばといっても、ちょっとこれは後で困った事態になりかねない。なんたって、彼女、そこそこ身分もある家の娘さんだしさ、同僚も良かれと思って、逆玉の輿を僕に運んできてくれているつもりなのかもしれないけれど、ちょっとこれはありがた迷惑だ。断るのに、ない頭を使う。というか、この女の子の言い分では僕が手紙を出して呼びつけたって? えぇ、どうなってるの? というか、来るなよ良家の娘さんならさ、呼び出されてこんなところに。

第一、もし万が一、何かがまかり間違ってこの事が彼女の耳に入ったら、どう思われるだろう?

 だけど、商売でやってる女性ならともかく、こういう女性の扱いは、正直僕は大の苦手で、目の前の女の子は泣き出してしまうし泥沼で、それでも帰ってくれる様子は見せないで。どうすんだよもー? とかこっちも泣きたくなって。でもさすがにここで僕が泣き出しちゃうわけにもいかないから、どうにかして彼女を泣き止ませなければとしどろもどろになる。

 どうにかなだめてすかして。ようやく彼女が帰ったのが明け方頃、それから僕は大慌てで家を飛び出して、寝不足で混乱した頭を抱えて職場に辿り着く。

なんか、夢なのにえらく疲れた……。


 「お前、昨日は屋上で猿渡にえらい迫っていたらしいな」

 と、朝一番で俺の頭を結構冗談とも思えないレベルの痛さで殴って、小早川が言った。

 「うおお、痛え!」

 「痛いように殴ったからな」

 「ひでえ」

 とりあえず鞄を机の脇に掛けて、俺は小早川を改めて見る。

 「だって俺、猿渡さん好きだもん」

 「嫌がる相手に迫るな」

 「嫌がってたかなあ?」

 「自惚れるな馬鹿者」

 小早川の目は結構マジで。馬鹿馬鹿と言われる俺でも結構気づいてしまうほどマジで。

 ああ、こいつも猿渡さんが好きなんだ……。

 しかし、朝の日眩しい爽やかな教室で、朝っぱらから修羅場繰り広げる気にもなれなくて、というか、本人抜きにしてこんなトコでそんな事やってもねえ、という気持ちもあって、俺は敢えてその事には触れない事にする。

 「いいじゃん、猿渡さん可愛いんだし、ケチるなよ、この眼鏡」

 「俺=眼鏡、みたいな言い方をするな。つーか開き直るな」

 「大丈夫、猿渡さんは結構しっかりした子だから、嫌だったら昨日みたいにきちんと拒否してくれるよ」

 「分かったような口きくな」

 小早川の忌々しそうな声に、チャイムの音が重なった。


 その日、猿渡さんは屋上には現れなかった。待てども待てども来ないので、結局僕が痺れを切らして教室に行くと、クラスの連中の祝福の声……もとい冷やかしの声に溢れかえっていて、これはちょっと申し訳ないことをしたかな、とおもいつつあまり気にしないで待っていると、まさに、渋面、という顔の猿渡さんがしぶしぶといった感じで……森泉さんとか友達の槇さんとかのニヤニヤ笑いとに見送られながら出てきた。

 で、ようやく人気のなくなってきた廊下を二人で歩きながら猿渡さんの愚痴。

 「私、秋山君には是非羞恥心というものを学んで欲しい」

 「いや、俺も恥ずかしかったよ?」

 「そんな風には全然見えなかったんですけど」

 「ホントだよ。恥ずかしいよ。実を言うと、今もホントは恥ずかしくて、まともに猿渡さんの顔が見れないくらい」

 と、猿渡さんが驚いたように俺の顔を見上げた気がしたけど俺はやっぱりそちらを向けなくて、正面を向いたままで、顔がみるみるうちに赤くなっていってる、という自覚はあるんだけど、こういうのって自覚すれば自覚するほどますます赤くなる、厄介な物で。

 「意外なんだけど」

 本当に意外そうに、猿渡さんの声。

 「俺、だって、ホントはこういうのすっごい恥ずかしい人間だよ? 兄弟だって男兄弟で、女の子なんて全然慣れてないし、女の子といるより全然男友達といた方が楽しいとか思ってたし。いきなりこんなんなってわけわかんねーっつの。昨日の事だって……」

 とか思い出したら更に恥ずかしくなってきた。

だって、昨日だって、家に帰ってからすっげー悩んだんだぞ? もう、明日から猿渡さんは普通に接してくれるか、とか真剣に悩んで、とりあえず避けられたらやだな、とかぐるぐるしてて、もし本当に嫌われてたら誠心誠意、土下座までする覚悟で来た。

「でも、それで気まずくなって、猿渡さんに会えなくなるの嫌じゃん? そんくらいなら、恥ずかしいの、我慢した方がいいじゃん?」

「そうなの?」

「そうだよ。だって、猿渡さんに会えるのって、俺にとってどんだけ奇跡みたいな話だって事だよ?」

夢で、いつも僕は焦がれる。君に、焦がれる。目が覚めたとき、いつも泣きたくなる。君に会いたくて会いたくて、会えないのが悲しくて、虚しくて、夢の僕の気持ちを現実に持ち込んだ俺はただもう切なくなる。それで、一刻も早く猿渡さんに会いたくなる。走って学校に行って、朝一番に挨拶をしたくなるくらい、一秒の猶予もないくらいに急速に急激に会いたくなる。猿渡さんの顔が見たいと思う。猿渡さんの声が聞きたいと思う。笑って欲しいと思う。自分に、笑いかけて欲しいと思う。

その気持ちに比べたら、恥ずかしいだなんて。

 「ホントは、もっといつも会いたいし、触ってみたいし、あんなこともこんなこともしたいけど、でも、居てくれるだけで奇跡みたいなものだから、別に我慢するし。だから、俺のこと、嫌いにならないで。……あと、できるなら他の男のコト、好きにならないで」

 相変らず顔を見れない俺の右斜め下から、猿渡さんの少し困った気配。困って、迷って、逡巡する気配。歩く俺たちの間に、開けた屋上に続く扉から、強めの風が吹きつける。俺は猿渡さんの長めの髪がなびくのを感じる。猿渡さんの髪は、軽く俺の制服の腕を掠めて、俺のごく近くに猿渡さんが居る事を思い出させる。

 猿渡さんは、特にその髪をおさえるでもなく、そのままで。先に立って屋上に出た俺の手首を、柔らかい手が掴む。俺の頭は一瞬真っ白になる。

 「他の人、好きにならないよ」

 硬直してしまった俺の耳に、その言葉は始めあまりちゃんと、入ってこなくて。

 「私の頭の中、秋山君ばっかだもん。ムカつくけど」

 こんな時に、気の利いたやつ、例えば小早川なんかなら、きっと上手くムードとか盛り上げられるんだろうけど、俺にはそれはとても無理で、ただもう心臓の音がばくばく耳元で聞こえて、顔が更に赤くなって、つかまれた手首が更に熱くて、混乱してどうして良いかわからないで。ちょっと自分が不甲斐無くて。

 「秋山君って、わけわからないね。積極的かと思ったら、急にそんな風になっちゃうし」

 苦笑は決してがっかりしたものじゃなくて、俺が安心して振り向くと、猿渡さんは笑っていた。柔らかく。優しく。それを見て俺は、とても嬉しくなった。本当に、嬉しかった。嬉しかった……。


 突然、状況が変化した。勿論、夢の。変化したのは状況で、僕の心じゃない。今まで単調に淡々とこなしていた生活が、一変したのだ。悪い方に。

 何が起こったのか状況が掴めなかった。状況が掴めないまま、僕は固い石牢の中へ。看守が目を光らせる中、何を聞いても相手をしてもらえない。散々に体を痛めつけられて何の事かまるで見当がつかない拷問が始まる。僕の頭は思考がついていかなくて。一昼夜、痛みと麻痺とまた痛みの日々が続く。僕の右手の指は3本、左手の指は2本なくなって、骨の折れている両足の感覚はとうになくて、右目は腫れがひどくて目が開かず、全身のどこもかしこもひどく痛くて、気を失ってしまった方が楽だと思うのに、気を失いそうになるとその度にとても冷たい水を掛けられて意識を取り戻す。

 朦朧とした意識の中で覚えているのは、青空の微かにのぞく遥か上空の格子窓と、ずっと僕の頭に響き続けた一つの音楽のような彼女の声。ずっと、それが響き続けていて、だからきっと、なんとか気も狂わずにそれを、耐えられたんだと思う。絶叫して、泣き叫んで、いろんなものを垂れ流して、それでも。

 そして、そんな悪夢はまた突然終わる。醒めることではなく、夢は続いていて。

 僕は冤罪という事で釈放されて、迎えに来た同僚たちが、僕を抱え上げて介抱する。僕はなんとか一命を取り留めて、事情を聞く。

僕の部屋に手紙があった事。それは、皇帝への反逆を計画した内容である事。誰かの密告で、それが知れたこと。そして、僕は役人に引っ立てられ、拷問された。

 だが、後宮に住まう一人の女の行動で僕の疑いは晴れた。

 女は後宮勤め、という地位を生かし、皇帝を刺し殺そうとし、その場で捕まった。女は証言する。僕の部屋に手紙が置かれたのは、目を逸らすための囮で、本当は濡れ衣である事。本当は、僕のところに夜中に押しかけて来た女の子と、出世の早い野心家の僕の同僚など、他数名が企てたこと。同僚の家も女の子の家も、残らず隅々まで捜索され、証拠が見つかり、僕の無罪は認められ。そしてそして。

 皇帝に反逆を企てた者たちは、処刑される事に決まる。すべてを白状した女、すなわち、彼女を含め。彼女を含め?

 僕は家を飛び出す。足が使い物にならない。構わない。這ってでも家を出ようとする。同僚が止めるのも聞かず。どこから流れ出したのかももうよく判然としない血が床を染める。全然構わない。そんな事、どうだっていい。残り両手で5本しかなくなってしまった指で床を掻く。血と交じり合って、爪なんてどこにあるのかも、果たしてそこにあるのかも分からなくなってしまった。だが、そんなの全く瑣末時にすぎない。

 弱った僕の体は、僕の意思の力に反して、ぴくりとも動いてくれない。驚いた同僚たちが引きとめに僕の体を抱え上げるのに精一杯反発して、怒鳴ってがなって、それでもそれを振り払う力もない。吐く。胃の中のものを全て。血も吐く。すべていらない、こんなもの、いらない。もどかしい。だから、僕を彼女の元へ。彼女の元へ……。

 僕は叫ぶ。手当たり次第にものを投げ、騒々しく、髪を振り乱して、半狂乱になって。見ていられないと同僚たちが僕を抱え上げて処刑場へ。

 そして、僕は、見る。彼女が切り刻まれるのを。人々の好奇の目の中で。彼女のしなやかに細く、長い腕が切り取られるのを、白い腹から内臓が抉り出され、てらてらと光るのを、首が切り落とされて、無惨に吊るされるのを、見る。見る。見る。

 僕は叫ぶ。絶叫する。彼女の名前を。彼女の名前? 彼女の名前を。名前。名前……。

 「猿渡!」

 絶叫する。呼び戻そうとする様に、焦がれるように。喉が潰れてしまっても構わない。心臓の底の方から叫ぶ。切られたもうない指から、体中の傷口から、血が滲み出る。どうって事はない。

 「猿渡猿渡猿渡猿渡猿渡猿渡!!」

 助けて欲しい、と思う。馬鹿な僕のために、命を失った彼女を。この上なく酷い死に方をした彼女を助けて欲しいと。今の事実がなければいいと思う。否定する。その場の全てを。絶叫と共に。でも、彼女は蘇らない。彼女は既に彼女ではないものに。逆賊に対する酷刑の極みを尽くされ、もはや彼女の彼女らしかった部分は見る影もない。

 空は晴れていた。余すところなく、光に照らされていた。そして、どこかで感じた事のあるような、強い風が、ひと吹きその場をさらって行った。彼女の、柔らかい手のひらを思い出す。

 僕は自らの血溜まりの中に崩れ落ちるように倒れ、そして出せるだけの力を振り絞って彼女の名を呟き続ける。どれが彼女の名前か、俺には判然とせずに、ただ、機械的に彼女の名前を、呪文のように唱え続ける。さわたりさわたりさわたりさわたり。

 お願いだから、俺から彼女を失わせないでと。彼女を奪い去らないでくれと。誰にとも知れず祈った。

 血溜まりの中に、涙が一しずく。


 目覚めてすぐに、酷い吐き気に襲われた。便所に駆け込んで、便器の中に顔をつっこんで、咳き込みながら、とにかく胃の内容物を吐き散らす。酸っぱい苦味が口の中に広がって、胸がむかむかして、体中の筋肉が強張ってぎしぎしといった。喉が焼ける様に痛かった。勢い良く吐き出しすぎたのか、口からも鼻からも吐しゃ物は容赦なく溢れ出て、息つく暇もないくらいで、苦しくて涙ぐむ。

 酷い頭痛がして、体の内側ががんがんと熱かった。歩くたびに体の中で鉄球が打ち合わさるような衝撃が体を走る。頭の中に常に霞がかかったようで、瞼が上も下も異常なまでに火照っていた。

だけど俺は、とにかく吐くだけ吐いてしまうと、勢い良くトイレの水を流して、洗面所で顔や口の中を濯いで、学校へ行く準備をする。

 一刻も早く、猿渡に会いたかった。一刻も早く、会って、安心したかった。

 悪夢を洗い流したかった。

 だけど、俺の中には、何故か、絶えず胸騒ぎ。


 そして、僕は、猿渡を失った。


 小早川の言うには。

 「俺の幼馴染は森泉だよ? 何意味分からないこと言ってんだ? 変な夢見て以来、散々森泉森泉って言ってたくせに」

 猿渡響子については。

 「は? 誰それ」

 誰それ。

 誰に聞いても、誰それ。誰も彼も、猿渡の事は知らなくて。覚えているのは俺だけで。誰にも彼にも、猿渡は存在しなかった。その存在は、見事に誰の記憶からも抹消されていた。

 「お前、また変な夢でも見たんじゃねえ?」

 小早川は言う。浜井は言う。誰も彼もが、そう言う。そして、猿渡の事をしつこく聞きまわる俺を、だんだん胡散臭そうに、そのうちにどこかよそよそしく、そのうちに何か奇妙な物でも見るような目で。俺が熱を入れて話せば話すほど。

 やがて、俺は風邪のうわ言という事にされて、家に送り返されて、1週間程寝込んで、復帰してもまだ直らないというので、病院に通院させられて。病院の、穏やかな顔をした医者に猿渡の事を話す。話す。話す。

 陸上部と映画鑑賞部を掛け持ちしている猿渡。いちごが好きで、ケーキを食べるときは最後までとっておく猿渡。それを指摘されたときのバツの悪そうな可愛い顔。実は月9のドラマを欠かさず見ている猿渡。弟が一人いて、最近その弟に彼女が出来た猿渡。猿渡。猿渡。

 話しても話しても、伝わらない。相手は哀れみの心で、信じているふりをしてくれる。お優しい笑顔で。それが悔しくて、猿渡の存在が否定されたようでとても悔しくて。

 猿渡の長めの黒い髪も、柔らかい手も、交わした言葉も、優しい笑顔も。みんな架空の事で俺の作り話もしくは妄想、夢の話だと。

 そして、ようやく俺は喪失を自覚する。本当に、この世界は猿渡を残らず消し去ってしまったのだと思い知る。

 俺は癇癪を起して暴れまわる。駄々を捏ねるように叫んでも、暴れても、猿渡は戻ってこない。

 夢ももう、見ない。

 どこにも、猿渡はいない。

 自覚して、絶望する。


 でも、どうした事だろう。どうして、みんなこんな突然、猿渡の事をきれいさっぱり忘れ去ってしまったのだろう。猿渡が存在しなかったなんて、絶対にあり得ない。これだけは断言できる。ありえない。あの時吹いた風も、あの手の感触も、声も、笑顔も、絶対に存在したはずだ。俺は自分の妄想だけであんなに素晴らしいものを作り上げる事などできないと自信を持って言える。

 つまり、猿渡は存在した。それは確固とした事実で。

 それなのに、存在しないと言う事にされてしまった。

 まるで、魔法のように。一昼夜のうちに。

 まるで、夢の中で起こった事のようだ。現実には、絶対にあり得ない。

 ……。

うん、現実には、あり得ない。どう考えてもあり得ない。あり得るわけがない。

 …………。

では、もしかして、ここは? 

俺の今いるここは。

今立っているこの場所は、現実ではないのだろうか。

 俺のいるこの場所。この教室。この机。椅子。この床は、部屋は、地面は、見上げる空は、雲は、呼吸する空気は。

全て、現実ではないのだろうか。

現実には起こりえない事が起こったこの場所は。

 この場所は?

 俺は自分が立っているこの床がとても不安定な気持ちがして、思わず壁に手をつく。ぐらり。見上げた窓から相変らずの抜けるような青空。際の方にすらりと綿を奇妙にほぐした感じの柔らかそうな雲。

 もしかして、ここは。

俺が現実だと思っているここは……?

 酷く眩暈がする。混乱する。胸が苦しくなって、息が出来なくなって、ひどく荒い呼吸を繰り返す。

 ここは。


 ここは、どこなのだろう?


そして、視界は暗転する。

僕はまた、夢を願う。

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