スズメバチなら、存在を許されていたか
平成19年夏に書いたものです。
5月15日の木曜日、私は泥酔していた。
課長に嫌味を言われたとか、いつも以上に直属の上司に素っ気なくされたとか、そんな理由があったわけではなく、最近、職場で喋る機会がなくて、たまに話すときにとある放浪の画家チックになってしまうことを憂えた故のことであった。
「お、おにぎりが食べたいんだな」
などとは言わないが、知りもしないことを「そ、そうなんだなっ」と言って、本当に知っているかどうかカマをかけた上司に看破されて、しば漬け食べたいと感じることがあったとかなかったとか。
まあ、そんな白眼視展開は捨て置くとして、事件について語ることにしよう。
私は十数年来アパートに住んでいる。職場から15分くらいにある賀茂川沿いの平凡なアパートだ。窓を開ければ、それなりに綺麗な川が眼前に広がり、歩いて3分のところにコンビニ、スーパー、喫茶店、ドラッグストア、バス停、歯科、整骨院、内科がどんとこい!と待ちかまえている。家賃も安いぜ!マジ住みやすいトコNSR(NishigamoRiverSide)。
とにかくあの日酩酊していた私は、ベランダにあった洗剤十箱を捨てようと決意した。十年以上ずっと放置していた洗剤を捨てようと決意したのは、転勤で東京に行くことになるため、身辺整理をしておくべきだなと思ったからである。
Tシャツ、トランクスのパンツ姿でベランダに降り立つ。腐敗が進んだナイロン袋に包まれた粉洗剤のダンボールを抱え、急ぎ足で玄関へと運ぶ。京都市指定のゴミ袋に詰め込もうとしたところ、ムーン、カサカサという擬音が袋の中から聞こえてきたので、そっと袋を開き覗いてみると、羽のついた昆虫が元気に蠢いていた。私は黙って蹴りを入れて、擬音の収拾に努めた。
一週間後、洗濯物を干そうとしてベランダに出ると、隣人のベランダとの境に自然な幾何学的な物体を認識した。飛行物体が幾何学的な物体に着陸して、また飛び立っていく。
これは、蜂の巣だ。
洗濯物を干すときに躊躇しないと言えば嘘になるが、蜂だって命、共存すればいいじゃないか。
優しい私は、穏やかに笑って普段通りに洗濯をしていた。蜂も私の存在など黙殺するかの如く、忙しげに巣と川の彼方を行き交う。
しかし、平和な日々は長くは続かない。私がいつもどおりカッターシャツを干しているときに事件は起こった。蜂が目の前を突然旋回したかと思うと、ベランダの燦に静止し、こちらをギロッと睨み付けたのである。
蜂に対しての礼儀は尽くしている。ベランダは提供しよう。干渉せずお互いを尊重して共存しようではないか。別に蜂蜜をくれなんて言ってない。くれるんだったらもらうけど…。
気のせいかと思った。だが、幾何学的に構成された無機質な瞳の奥に下っ端のチンピラのような不貞不貞しさを感じたのである。
私は台所からコックローチを取り出し、黙ったままベランダにノズルを向けて、レバーを3分間引いた。ほどもなく、夥しい数の蜂は八方へ飛び去った。
コックローチを戸棚にしまい、しばらく使っていないテニスラケットをカバーから取り出して、ベランダに立った。そして、ラケットをギュッと握りしめる。
「人間サマをナメんなー!!」
渾身の一撃は、蜂の巣を前方20メートルの向かいの豪邸の壁に叩き付け、四散させた。
刺すぞと脅されて笑っていられるほど自分は優しくないんだなと思う同時に、刺されると感じた自分の防衛本能(というかヘタレ根性)もたいしたもんだと感心した。
「人はあきらかに弱者に対しては寛容であるが、弱者と思っていた者が自分を脅かす存在になったときは、全力で排除しようとする。だから、弱者であってはいけない。自分を弱者と認めるなら、刃向かってはならない。」対人間でも言えることだろう。
アシナガバチだったから排除するのに躊躇しなかったが、これがスズメバチだったらどうだったか。報復を恐れて手を出せなかったかも知れない。強さを持つことで滅亡を免れるのなら、言動がとある放浪画家であったとしても、私はスズメバチでありたい。




