失った過去と得られた日常
ここからシュビ視点になります。
次回の投稿は火曜日になると思います。
「朱美ー?朱美?どこにいるんだい?」
向こうから聞こえた声に、私は振り向いて声をかけた。
「お婆さんこっちです」
姿を見せたのは背中の曲がった皺だらけの顔でいつも優しいそうに微笑んでいる、私を拾ってくれたお婆さんだ。
「朱美は畑におったんやねぇ。そんなにがんばらんでもえぇが、無理をしたらいかんよ?」
「大丈夫です。お婆さんは腰の調子はどう?今日は痛まない?」
「大丈夫よぅ。今日はお天気もいいし腰の調子も良いのよ」
お婆さんは快調だと笑って言った。
お婆さんが一緒に家に戻ろうと言ってくれたので、畑の採った野菜を籠に入れて背負った。
お婆さんと一緒に歩いていると、村の年寄りとすれ違い、互いに挨拶をした。
「朱美ちゃんはもう言葉はこまっとらんかい?」
「はい。もう大体の言葉はわかるようになりました」
年寄りは目を細めて我がことのように喜んでくれた。
「そりゃあよかったなぁ。朱美ちゃんがこの村に来た時は大変だったもんなぁ」
昔を懐かしむように言われ、私もあの時の記憶が少しよみがえった。
私はある日村の入り口付近に倒れていたらしい。
村の住人が見つけて、慌てて村に連れ帰ったそうだ。
熱を出して、うなされていたそうで、村の住人が交代で看病してくれたらしい。
意識を取り戻した私は、ぐるりと見知らぬ顔に囲まれてとてもびっくりしたのを覚えている。
しかも、私は一切の記憶を失っていた。
自分が何者かわからない。自分がどこから来たのかもわからない。
おまけに私は、村人達の言葉がまるでわからなかった。
村人達にも私の言葉が通じなくて、私達はお互いに途方に暮れた。
そんな中で、お婆さんとお爺さんが私を引き取って世話をすると言ったそうだ。
「わしらには子供がおらんからのぅ。子供を育てるみたいでちょうどええわい。若い娘っ子じゃ、言葉なぞ教えれば覚えるじゃろ」
「そうさのう。それに白い髪でぼろぼろの血まみれの服じゃ。きっと何かがあったんじゃろな。こんなおびえた目をした若い娘を、放り出すなぞ出来やせんよ」
そう言って私を引き取ったのだ。
私はわけがわからないまま老夫婦と暮らすことになった。
老夫婦は言葉のわからない私に根気強く話しかけ、身振り手振りで色々なことを伝えようとした。
これは鍬というの土を耕すもの。
これはお椀、ご飯を入れる器。
些細なことでも話しかけ、私がたくさんの言葉を耳にするようにと話しかけてくれた。
村の皆も、私を優しく見守ってくれた。
すれ違ったら挨拶をして、老夫婦の元を訪ねては私に色々な話をひたすらしてくれた。私は何を言われているのかさっぱりだったけれど、ひたすら彼らの言葉に耳を傾け、たくさんの言葉を聞いて、彼らの真似をしながら少しずつ様々なことを覚えていった。小さな村だけれど、村全体が家族のように仲が良くて、温かい人達ばかりだった。
半年経つと、たいていの言葉がわかるようになってきた。
物の名前がわかると、会話をするのが簡単になった。単語だけを繋げてもなんとなく言いたいことが分かるようになってきたからだ。
ある日、突然頭の中で考えている言葉が村の皆の使う言葉と同じになった時に、格段に言語能力が上がった。
するすると言葉が出てきたときは嬉しかった。村の皆も我がことのように喜んでくれた。
何にも覚えていなかった私だけれど、ひとつだけ覚えていることがあった。
自分の名前がシュビということ。
これだけが私の覚えている全てだった。
そのことを老夫婦に話すと、「じゃあ、きっとこんな字だなぁ」とお爺さんがさらさらと木の棒で地面に「朱美」と書いた。
「シュビという音で娘っ子の名前なら、たぶん漢字はこれじゃろなぁ。朱、赤色の一種じゃな。それに美しいと書いて朱美。美しい赤色という意味じゃな。綺麗な名前じゃ」
説明してくれるお爺さんの言葉に鼓動が大きく高鳴った。
美しい赤色。
どこかで聞いたことがあるような気がした。失われた記憶の中で、誰かに言われたのだろうか。
とても懐かしいような……だけれど思い出せなかった。
そんなことがあり、私は朱美と呼ばれるようになった。
皆が私を朱美と優しく呼んでくれる。そのことが何故だか無性にうれしかった。
そんなことがあり、村で一年を過ごした。
こうして今の私がある。
私がぼんやり過去に思いを馳せている間に、村の年寄りとお婆さんは立ち話を終えたらしい。
「そうかい、気をつけないとねぇ」
「そうさね。他の連中にも知らせてやらにゃならんわい」
そんなことがあり、年寄りとは別れ、お婆さんと我が家に帰っていった。
家に帰り、お婆さんと二人で晩御飯の準備をする。
囲炉裏につりさげた鍋に、畑で採れた野菜をよく洗って切って入れる。
火箸と木のお玉を使って焦がさないように丁寧に味噌と共に炒め、水で煮てゆく。箸を使えるようになるのも苦労した。初めはうまく物がつかめなくて大変だった。今では重たい火箸で野菜をつまむこともできるようになった。
それと、私は何故か味付けが独特なことが多く、唐突に香りの強い葉っぱを散らしたりする不思議な癖があるので、味付けはお婆さんが行うようにしている。
ぐつぐつと鍋からよい匂いが部屋中に漂いはじめたころ、薪割りをしていたお爺さんが戻ってきた。
「ただいまー。おぅい、婆さん、朱美。罠に兎がかかっとったわい。お土産じゃ」
その言葉になんとなく既視感があった。
ただいま、シュビー……、……お土産だ、食べるといい!
あれは誰の声だろう。知らないはずなのに、よく知る懐かしい声だ。
「どうした朱美?ぼんやりしてると鍋が焦げっぞ?」
お爺さんに言われて慌てて火箸を動かす。どうやらぼーっとしていたようだ。
「あ、いいえ。なんでもないの。……少し懐かしい感覚がしたから気になってしまって」
「おや、記憶が戻りよるんかねぇ」
「焦らんでもええが。ゆっくり思い出したらええ。わしらは朱美の家族じゃ」
家族。なんてことないように言われた言葉に、涙が出るほど嬉しかった。
その日もいつも通り、囲炉裏を囲んで晩御飯を食べた。
「そういえば、この付近で狼がいるらしいんよ」
食後に、お婆さんが言ったその一言に心がはねるような感覚があった。
「狼か……この辺は熊はおっても狼は見んかったがのぉ。群れか?」
「いんや、見たもんの話だとはぐれらしいねぇ。ずいぶん大きくて立派な狼らしいねぇ」
「家畜が心配じゃの。人里まで降りてくるくらいじゃ。腹ぁ減らしておるじゃろ」
「朱美も村の外に出るときは気をつけるんだよ。最近は狼や熊だけでなく山賊が襲ってくることもあるからねぇ」
「は、はい……。気をつけます」
狼……なんだろう。とても胸騒ぎがする。
狼に襲われて記憶を失くしたのだろうか…?
でも心に広がるこの感情は……恐怖ではない。
優しくて、温かくて、そしてどうしようもなく悲しくなる。
私は少し上の空のまま晩御飯を終えた。
村の周りに出没したと言う狼のことが、頭から離れなかった。
翌朝、お婆さんが腰が痛むと言うので、腰に効く薬草を採りに村の近くの森に入った。
お婆さんは危ないから行かなくていいと言ったけれど、腰が辛そうなお婆さんを見ているのは忍びない。それに、さほど遠い距離ではないので大丈夫だろうと思っていた。
森の中に入り、花畑を見つけた。この花の根っこが腰痛に効くのだと教えてもらった。
根っこ以外の部分も別のことに使えるので、丁寧に土から根ごと採って、土を軽く払って持ってきたざるに入れた。
それを何度か繰り返していると、森の奥からがさりがさりと草の揺れる音がした。
警戒してすぐにざるを抱えて立ち上がり、音のした方を睨みつける。
すると、出てきたのは大きな一匹の狼だった。