愚かな選択の果て
次の投稿は土曜日になると思います。
ゼルと二人、森の中を歩いた。
ここがどこかもわからない。ゼルが辺りを警戒しながら私の周りをうろうろと歩いているのが心強かった。
急に足に痛みがあった。
「痛っ!!」
見ると片方の足の裏から血が出ていた。いつの間に裸足になっていたのだろう。
ゼルを抱えて転びながら逃げていた時にでも脱げたのかもしれない。無我夢中でそんなことに気付きもしなかった。
けれどこんな傷くらいならしばらくすれば治る……と思って気がついた。
「そっか……すぐには治らないんだ」
それから歩くたびに傷が痛んだ。一瞬痛いのならば平気だ。けれど、怪我は継続して痛みがあるから辛いのだと初めて知った。
ゼルが私を気遣って少し歩調をおとしてくれているのが申し訳ない。
早く、暗くなる前にどこか寝床を確保しないといけないのだ……。こんなところでもたついていてはいけない。
私はゼルに気丈に微笑んだ。
「大丈夫よゼル。それよりも急ぎましょう。もうすぐ陽が沈んでしまうわ。寝床を探さないとね」
ゼルは尻尾をひらりと一振りして、またすたすたと先を歩き始めた。
ゼルが何かを見つけたのか、ひらりと飛び跳ねるように先を行ってしまった。
「ぜ、ゼル……?」
それだけのことがたまらなく不安になった。
すぐにゼルは戻ってきた。どうやら何かを発見したらしい。興奮してついて来いというようにそわそわしている。
ついて行くと小さな洞窟のような場所があった。私が二人両手を広げて寝ころんだくらいの広さだ。
風は凌げなさそうだが、雨宿りぐらいはできそうだ。私はそこに腰を下ろした。
足が痛くてもう動きたくない。
私が座り込んで深い息を吐いたのを見ると、ゼルはどこかにすたすたと行ってしまった。
また何かを見つけたのだろうか?それとも何かを探しに行った?
段々と寒くなってきたので、私は膝を抱えて体を丸めてゼルの帰りを静かに待った。
ゼルが戻ってこない。
あれからどれくらいの時間がたったのだろう。いや、実はほんのひと時も立っていないのかもしれないが、見知らぬ森で一人震えている状況が孤独と恐怖を募らせる。
影が細く伸びて、段々と日が落ちてきたころ、ようやくゼルが戻ってきた。
ゼルはリンゴと兎を咥えていた。
私の目の前にぽとりと置いて、じっと私を見た。これを食べろということだろう。
「ありがとう、ゼル」
私の言葉にゼルは尻尾をふりふりとしている。よかった。喜んでいることはわかる。
心の声が聞こえなくなっただけで、ゼルの全てが分からなくなったわけではないのだ。尻尾や耳の動き、感情をよく映す瞳をよく見れば、ゼルの感情を把握することはさほど難しいことではない。私は自分に言い聞かせるようにして心の中で自分を落ち着けた。
私は目の前の兎を手に取り、はたと気付いた。
「ごめんなさい、ゼル。私、今ナイフや包丁を持っていないの。だから皮をはいだり血抜きが出来ないわ。私は焼かなければ兎を食べることが出来ないし……」
リンゴだけ食べるからゼルが兎を食べて?と言うと、ゼルは兎にかぶりついて器用に皮をはぎ始めた。器用に肉を噛みちぎりながら、私が食べやすい大きさまで分解してくれた。
その後、近くから乾いた木の枝をいくつか持ってきてくれた。これに火をつけて兎を焼けばいいと言いたいのだろう。
私はゼルに感謝しながら、
枝をひとつ手に持って枝の先に火が点る様に力を流そうとして、力が流れないことを思い出した。
「そっか……私は力を失くしたんだ……。でもどうしましょう。私、火の付け方を他に知らないわ……」
今までは念じるだけで火が点ったので、私が知っているのは火の加減調節の方法と、消し方、うまく燻したまま火種を保ち続けることだけなのだ。
火のおこし方など知らない。これは困った。
確かよく乾いた木同士の摩擦熱で火種を作るとぼんやりした知識を持っていたので、枝と枝を一生懸命擦り合わせて摩擦を起こそうとしたが、手が痛くなっただけで終わった。
力を失った弊害をこんなことで実感するなんて思わなかった。
力がないと、火をおこすことひとつがこんなにも難しいなんて思わなかった。
その日は結局兎はゼルが食べ、私はゼルが見つけてくれたリンゴを食べて、ゼルと二人身を寄せ合うようにして眠りについた。
色んな事がありすぎたからか、泥のように眠りについた。
朝、目を覚ますとゼルが私を見つめていた。
「おはよう、ゼル」
ゼルはあおんと返事をしてくれた。
既に日はかなり高くなっていた。どうやらゼルは私の疲労を気にして起こさずにいてくれたようだ。
「とりあえず…飲み水の確保をしなくてはならないわね。それと食料も探さなくてはだめだわ」
大きく伸びをしてゼルにそう語りかけ、立ちあがって森の探索を始めた。
この森は太陽の光がよく差し込み、緑も青々とした綺麗な森だった。けれど、住み慣れた不気味なあの森とは違い、どんな動物がいるかわからない不安と、知らない道、そして自分がそれらに対して無力であると言う不安が常に付きまとった。
ゼルは絶えず私の様子をうかがいながら周囲を警戒してくれている。
しばらく歩いていると、水の流れる音がした。
ゼルと二人でその音の方に歩いて行くと、きれいな川があった。
私がたまらずその川に駆け寄り飲もうとすると、ゼルが背後から吠えた。びっくりしてゼルを振り返ると、ゼルは川に向かって唸っている。
警戒するようなその仕草に不安を覚えたが、私はゼルをなだめるように声をかけた。
「平気よ。これだけ綺麗な川なんだもの。きっと飲める水だわ」
私が両手で水をすくって飲んで見せる。ゼルはおろおろとしている。
少し砂が混じっている感じはするが水だ。私は昨日から喉が渇いていることもあり、何度も水を掬って飲んだ。
喉の渇きを潤してからゼルと共に探索を続けた。結局ゼルはその川の水を飲まなかった。
しばらく歩いてリンゴの木を見つけた。
けれど、実がなっている枝が高く手が届かない。そこで木のぼりをして実をおとした。下でゼルが器用に受け止めてくれた。
手や足を少し擦りむいたが、食べ物を得られたことは大きかった。
リンゴをひとつその場で食べて、もうひとつは洞窟に持って帰ることにした。
しばらく歩きまわってさらに周囲を探索した。有難いことに近くに大型の肉食動物はいないようだ。
ほっとしながら暗くならないうちに戻ろうとした。我慢していたが、足がとても痛いのだ。
片方は裸足で傷も完全にふさがっていない。
あぁ、力があればここから洞窟に一瞬で変えることもできるのに……。いいえ、そもそも力があれば、こんな怪我はすぐに癒えていたはずだ。
隣の草むらががさがさと言うたびにびくりと体がはねるのを抑えられない。
大型の動物が近寄ってくるならばゼルが気付くはずだからおびえる必要など何もないのに……。
ゼルはびくっとした私を振り返り見上げている。
今ゼルはなんて思っているのだろう。きっと私を心配しているはずなのだ。けれど、言葉をかけてほしい。
不安でたまらない。ゼルが一言私に話しかけてくれれば、それだけで勇気がもらえるはずなのに……。
それもこれも力さえ失わなければ今……きっと……。
私は自分がよくない思考にとらわれ出していることに気づいて、ハッと頭を振ってよくない考えをふりほどいた。
疲れている時は悪いことばかり考えてしまうものだ。慣れない環境で緊張し続けているのもあるのだろう。さきほどから少しお腹も痛い。
洞窟に戻ろうとしているのだが、段々気のせいでは済ませられないほど腹痛が増している。額にびっしりと汗もかいている。ゼルが私の周りをうろうろとしている。
「な……なん、で、こんなに……もしかして、水……?」
考えられることがそれしかない。ゼルが私に吠えてまで警戒していたのだ。あれほどきれいな水だから大丈夫だと思っていたのだが、飲める水ではなかったのかもしれない。
その場から動けなくなって、地面にうずくまる。
ゼルが私のそばで吠えている。余裕のない私には、その声が煩わしい。
うるさい……平気だから、ちょっと静かにして頂戴……。心配してくれてるのはわかるのだけれど、近くで吠えられるとびっくりするの。ゼルはそれをよく知っているはずでしょう?なんで吠えるの!それもこれも全部力を失くしたから……!
すると、頭にぽつりと水滴の感触があった。
ぽつり、ぽつりと落ちてくる水滴はすぐにざぁーっと激しい雨になった。
あぁ、ゼルは雨の匂いを感じ取って移動しろと言いたかったのね。吠えてばかりじゃわからないよ……。
ゼルは私のそばで共にずぶぬれになっている。木のぼりで作った傷に水が染み込んで痛くてたまらない。
あちこち痛い。痛くて痛くてたまらない。辛い、嫌だ、どうしてこんな目に……。
「もぅ……やだ……」
ぽつりと、雨にかき消されるほどの小さな音が私の口から洩れた。その瞬間、今まで色々と溜めこんでいたものが心の奥底から溢れてきた。
一度零れた感情は止まらず、そのまま雨に叩きつけるようにぶつけた。
「いやだ、疲れた、痛くてたまらない!力を失わなければこんな目に合わなかったのに!ゼルを助けなければ力を失わなかったのに!!なんでゼルの声が聞こえなくなっちゃうの!?ゼルが私の唯一だったのに!私から力もゼルも奪って……なんで私だけがこんな目にあわなくてはならないのよっ!!」
はぁはぁと息を切らしながら感情を叩きつけた。
感情を叩きつけた……?
誰に……?
私はハッとして顔を上げた。
うずくまる私の前にはずぶぬれの狼がいる。私のつがい、ゼル。私は……今、ゼルに、このやり場のない怒りをぶつけてしまった……?
あ、謝らなくては……すぐに………。
「ぜ、ゼル……」
ゼルの瞳から、何も感情を読み取ることが出来ない。
耳も、尻尾もぽたぽたと水滴を落とすのみで、感情がまるで見えない。
いやだ……いやだ……ゼルの感情が読めない。
私は今、ゼルを拒絶してしまった。
自分が拒絶してしまったくせに、ゼルに拒絶されたようで恐怖した。
ゼルが今何を考えているのかわからない。
怒っているの?悲しんでいるの?お願い、教えて……教えて……。
ゼルは動かない、何も言わない。ゼルの心が……離れてしまった?
私は……ゼルをも失った…………?
頬を伝うのは涙か雨か。私はとてつもない後悔に襲われた。
力を失い自暴自棄になったこと、そのやり場のない怒りを疲労に任せてゼルにぶつけてしまったこと。
そして、ゼルを失って、しまっ…………た?
全部私が選んだこと。全部私の罪。全部私の責任……なの……?
いやだ、いやだ……!!もう手放してしまいたい!
悲しみも苦しみも、怒りも嘆きも後悔も、かつて手に入れた幸福も喜びも――――
力も、ゼルも…………――――――
ふたつの衝撃が私を同時に襲い。
そのまま私は悲しみに覆われて意識を手放した。
こんな残酷なことがあるだろうか……?
きっとこれは夢なのだわ。
忘れてしまおう。目が覚めたら全てを忘れているの。
そうすれば……きっと……きっと、目が覚めたらいつものように起こしてくれる声がある。
シュビ、シュビ!おはよう!って…………
あれ?私を起こしてくれるのは誰だっけ?
シュビって名前の私は
誰だったかしら?




