失った、恐怖
次回の更新は水曜日になります。申し訳ありません。
「はぁっ、はぁ……はぁはぁっ!!」
私はゼルを抱きしめて森の中をひたすら走っていた。
途中で何度もこけた、でも足を休めない。腕の中のぬくもりを抱えたまま、ひたすら走り続けている。
ゼルが倒れた後、自分がどうしたのかよく覚えていない。色んな感情がないまぜになって爆発したような記憶がおぼろげにある。
ゼルを抱きあげてとにかく遠くへ、遠くへと念じてどこかもわからない場所に来た。
どこでもいい、あいつらが追ってこれないどこか遠くならばどこでもいいの!
腕の中のゼルはぐったりとしている。私の腕も服もゼルの血まみれになっている。
「やだ……やだぁ……っ!ゼル、死んじゃだめぇ……ゼルぅ」
私はようやく足をとめた。適当にふらふらと走りついたら、たどり着いたのは花畑だった。
違う森のはずだが、どうやらゼルと初めて会った時と同じ花の咲く花畑に来たようだ。
私はゼルをそっと横たえて、ゼルを治療する。
ゼルはピクリとも動かない。
息をしているのかどうかも定かではない。とめどなく溢れる血だけがゼルの死が迫っていることを明確に示していた。
私はひたすら出血を抑えようと手で傷口をふさぎ、力を目いっぱい流し込む。
いやだ。
ようやく手に入れた私だけの特別な相手。
陽が昇り、月が沈んだ。
私は一睡もせずにひたすらゼルに力を注ぎこんでいる。
けれど、ゼルはピクリともうごかない。
私も、ゼルも、ゼルの血で赤黒く染まっていた。
乾いた血がぱりぱりとしてとても不愉快だ。
ゼルの血はとうに流れるのをやめていた。これは傷口がふさがったからだろうか、それとも……だめだ。考えてはならない。一度でも考えてしまえばその思考にとらわれてしまう気がするから。
あと、どれほどこうしていればゼルは起き上がるのだろう。
また名前を呼んでほしい。
シュビ、シュビーと私の名前を呼んでちょうだい。
つがいになったばかりなのだ。まだたくさん色んなことをしようと言っていたのに。
私が手に入れたぬくもり。私が手に入れた愛。
花畑で死にたいと願っていた私を生かしてくれた。
当たり前にそばにいてくれた。
シュビという名前を与え、他愛ない話をして、笑って、毛づくろいをして、鼻先に口づけをして、身を寄せ合って眠って……。
「どうして私なんかかばったりしたのよ……かばわれなくても私はきっと死ななかったのに……ゼルが怪我を負うくらいなら、私は喜んで銃弾を受けたのに……っ!!」
横たわるゼルを責めるような言葉が出た。
ゼルは最後まで私の無事を喜んでいた。
ちゃんと無事か?怪我はしていないか?
愛しているよ、シュビ。
あの言葉がゼルの行動の全てなのだ。
「馬鹿なゼル!馬鹿なゼル!!私はあなたが生きていることの方が大事なのにっ!!」
涙まみれの慟哭は、ゼルに届いているのだろうか。
全てゼルが私に与えてくれたこと。
全てゼルが私に教えた幸せ。
私の幸福の全てがゼルと共にある。
失くしてなるものか!私の半身、私の全て、わたしのつがい!!
「ありったけの力よ、ゼルを助けて!力を失っても構わない!!ゼルを、ゼルを失くしたくないのっ!!」
全身から光が煌々と溢れだした。
辺り一面が光の奔流で前が見えないほどだ。
自分の中から何かがすぅっと抜け出ていくような感覚があった。そのことに恐れもあったけれど、手のひらの先にあるゼルの存在が私を勇気づけた。
いいよ、ゼルが助かるならば全部あげる。
私の中から溢れだす何かはゼルに注ぎ込まれていく。
私はそのまま光の奔流にのまれて気を失った。
ぺろぺろと、生温かい何かに頬を舐められて目が覚めた。
目の前の一匹の狼が私の頬を優しく舐めていた。
「ゼル!助かったのね!よかった!!本当によかったっ!」
私は嬉しくてたまらなくてたまらなくて、ゼルに飛びついた。
ゼルも尻尾を振り振りしながら喜んでいる。
よかった。これで何もかも元通りだ。ゼルさえいれば構わない。私はゼルといればどこでだって生きていけるもの。
ここがどこかはわからないけれど、もうあの小屋には戻れない。
だから新しい住処を探さなくては、ゼルが狩れる動物がいて、飲み水があればそれでいい。
あとは私の力があればいちから作ることなんて簡単だし、ゼルがいれば洞窟での暮らしだって平気だ。
私はこれからのことに思いを巡らせながら、ゼルが生きていることを全身で体感していた。
私の腕の中に、ゼルがちゃんと生きている。
生きていてよかった。本当にありがとう。ありがとうね、ゼル。
そこで私は、ふと目に入った自分の髪が、赤くないことに気がついた。
「え?私の髪が白い……。なんで?」
もしかして、これがゼルを助けた代償だろうか。何かが抜け出た感覚は髪の色が失われたことだったのだろうか。
白い髪は艶もなく、年寄りのような色だった。もしかしたら瞳の色もかわっているのかもしれない。
けれど全然おしくもないわ。髪の色くらいでゼルが元に戻ったのならば。
「ゼル、あなたが綺麗と言ってくれた赤い色はなくなってしまったけれど、ゼルはちゃんと私を見分けてくれるかしら」
茶化したようにゼルに向き直った。ゼルならきっと優しい私が安心するような答えをくれるはずだ。
けれど、いつまでたってもゼルは何も言ってくれない。
尻尾を振り振り、私を優しい瞳で見つめる。これは間違いなく私のゼルだ。
「ぜ、ゼル……?どうして何も言ってくれないの?不安になるから何か言ってちょうだい……?」
ゼルは私の言葉に首をかしげている。そして一言、あぉん!と吠えた。
そこで私は嫌な汗が額を伝うのがわかった。
ゼルが言葉を話せなくなった?
違う。ゼルは初めから言葉をしゃべったことなど一度もない……。
ならば……。
「私……ゼルの言葉がわから、ない……?」
ゼルは私の言葉で私の身に起こったことを理解したのだろう。耳をぴくりと大きく動かして、じたばたとその場で地団太を踏んでいるようだ。
私にはそれが何を意味するのかわからない。
ゼルが何を言っているのかわからない。
これがゼルを助けた弊害……?
ゼルを助けられても……私はゼルと共に生きる手段を失ってしまった。私は自分の指を噛んで傷を付けた。
ぷくりと血が玉になり、傷口は小さく痛む。だが治らない。
今までならこんな怪我、ひと呼吸の間に癒えていたはずだ。
「私は力を失った。もうゼルと一緒に暮らせない……?い、いいえ!いいえ!!そんなことはないわ!ゼルの言葉がわからなくたっていいじゃない!大丈夫よね?ゼル……」
ゼルはくぅんと鳴いた。もう私が自分の心は読めないと理解したがゆえに、分かりやすく伝わるように鳴いてくれたのだろう。
けれど私はその鳴き声が大丈夫と言っているのか不安だと言っているのかわからなかった。
そのことがたまらなく不安で仕方がなかった。