告げる、想いと誓い
子供が俺達の生活に加わってから、月が半分ほど欠けた。
子供は相変わらず俺にべったりなのだが、少なくともシュビを必要以上には怖がらなくなった。
あいかわらずシュビがそばにいると緊張はするし、シュビが話しかけても返事をしないので会話はなりたたない。けれど、シュビの手から直接料理の入った皿を受け取るようになった。
俺がそばにいなくても、目に見えるところにいれば平気になったらしく、俺はシュビと一緒に洗濯をしたり、薪割りの手伝いなどが出来るようになった。
子供は普通に歩いているようだが平気なのかとシュビに問うと、子供が眠っている間にシュビが力で治癒しているので、走ったりしなければとりあえず大丈夫なところまでは治してあるらしい。
腕と足を木の棒でがっちりと固定してあるのは、子供に自分が怪我人だから無理に動こうとしないようにと言う意味のようだ。子供はシュビの話を丸で聞こうとしないので、自分が怪我人であるという認識を持ってもらわないと困るらしい。
ベッドに縛り付けておくのも子供には退屈なことなので、手伝いたいのならば好きにさせようというのがシュビの方針らしい。どうやら、役に立っている間は自分が危害が加えられる可能性が減ると思っているようだ、とシュビは言っていた。
そういうわけで、俺はシュビが畑の世話をしている間や日中のほとんどを、小屋の周りをうろちょろする子供と過ごす。
けれど、子供も少しずつシュビに歩み寄っているようで、俺が狩りにいっている間に、無言で料理の手伝いをしてくれたのだとシュビが嬉しそうに俺に聞かせてくれた。
ちょっとずつ、子供とシュビの距離は近づいてきている。
俺はそれが非常に面白くなかった。
今も俺がそばについていることが条件だが、シュビの畑仕事を手伝っていた。
シュビが収穫した野菜を水の張った桶に入れ、子供がそれを綺麗に洗って土を落とすのだ。シュビが野菜を入れる瞬間は緊張で動きを止めるけれど、シュビがくるりと後ろを向いてまた畑に戻ると、子供なりに一生懸命、野菜を綺麗に洗ってざるにあげている。
俺はそれを見ているだけだ。咥えるとどうしても歯形がついてしまうし、俺の脚は野菜を持つこともできない。
野菜を全て洗い終えて、シュビが子供に中に入ろうかと声をかけた。子供はシュビをじっと見つめたまま動かない。睨むのをやめただけまだましか。
子供が動かないので仕方ないと、シュビが野菜のざるを持って小屋に入ろうとすると、子供がすばやくシュビのそばに駆け寄り、シュビからざるを奪ってすたすたと小屋に入っていった。
一言、持つよぐらい言えばいいのに……。
シュビは俺と見つめ合い、肩をすくめて笑っていた。
「あの子は照れ屋さんなのよ。あの子なりに私との距離感を探しているの」
シュビの言いたいことはわかる。けれど俺が不満なのはそこじゃないんだ。
俺の感情の吐露に、シュビが動揺してかがみこんで俺の目を見る。
「全部話して。ゼルに沢山我慢してもらっているのに、私はこれ以上ゼルに嫌な思いをさせることだけは嫌だわ」
俺は……。俺はなシュビ。
あの子供が妬ましいんだ。
あぁ、そうだ。シュビと同じヒトであることが妬ましい。シュビを手伝うこともできる。あの子供は話そうとしないが、シュビと会話することだってできる。シュビと同じ種族だから。
俺は狼だ。そのことに誇りを持っている。その誇りを、嫉妬で失ってしまいそうだ。俺はそれがとても怖い。
シュビに他の男が近づくのは嫌だ。たとえそれが子供でも面白くない!
シュビのそばにいるオスは俺だけでいいし、俺のそばにいるメスもシュビだけでいいんだ。
シュビは同族の……ヒトと共にある方が、自然で幸せなことなのかもしれないと考えてしまう。それが、それがとても嫌なんだ!
俺の静かな感情の発露に、シュビは静かに耳を傾けていた。
そしてシュビは静かに言った。
「ゼル、あの子供は村に帰そう」
シュビ……?いいのか?だってあの子供を使って村のヒトの誤解を解くんだろ…?
シュビは穏やかに笑って言った。
「もう十分私がむやみに怖い人ではないのはわかったはずよ。それだけ伝わればいいの。元々腕と足の怪我が治りきってから村に帰すつもりだったから、その予定が少し早まっただけ。村の人たちが心配していることを考えてたら、早く帰すことは悪いことではないわ。別に仲良くなりたいわけではないわ。なれればいいとは思ったけれど。
そんなことよりも、ゼルの方が大切。ゼルが嫌がるならば、そんな村のことなどどうでもいいのよ。私にとって一番に優先するべきはゼルだわ。今まで嫌な思いをさせてごめんなさいね、ゼル」
シュビが俺をぎゅっと抱きしめた。あぁ、シュビはあの子供より俺を選んでくれたんだ。
そのことがたまらなく嬉しかった。
俺は初めて誰かに嫉妬し、選ばれることの優越感を知った。ほの暗い感情だと思ったが、シュビは嫉妬されて嬉しいと笑っていたのでそれでいいだろう。
さすがに今から山を下りて子供を帰しに行くのは時間的に難しいので、明日の朝から出発すると決めた。
シュビが自分が力を使えばすぐだと言ったが、俺は村の近くにシュビを行かせたくないので、シュビは留守番させて、俺が子供を乗せて山を降りると言った。
シュビが力を使うことで、せっかく近づいてきた子供の心の距離が離れてしまったら意味がないというと、シュビはしぶしぶ納得した。
子供は明日で村に帰るんだと思うと、少し子供にやさしい気持ちで接することが出来た。別に今までもこれからもずっとそばにいて、たまにぎゅっと抱きつかれる以外のことは一切していないので何も変化はないのだが、俺の心を逐一察知していたシュビの心が和らいだようだ。俺としてはそれが一番大事なことなので、解決して良かったと思った。
そして翌朝、訳のわかっていない子供に、シュビが別れの挨拶をして、俺の背中に乗るように言った。
子供はよくわかっていないがとりあえずといった感じで俺の背中に乗り、腕を首にまわしてしがみつく。
ぐえ、ちょっと苦しい。
俺はシュビにくるりと顔だけ向けて行ってくると告げる。
じゃあ行ってくるな、シュビ。留守番よろしく。
「いってらっしゃいゼル。道中気をつけてね」
俺はシュビに見送られながら、だく足で山を下った。
山をすたすたと下りている。ほんとはもう少し早く走りたいのだが、背中の子供に負担をかけるのも良くないだろう。
ただでさえ、どこに連れていかれているのかわかっていないようだし。
ふと、背中の子供が俺に話しかけてきた。
「あのさ、狼さん。あの赤い髪のお姉ちゃんは悪い人じゃないのかな……?」
何を今さら。俺がヒトの言葉を話せるならば、シュビがどんなヒトか語ってやれるのに。お前はシュビと同じヒトのくせに、ろくに会話もしないで何を言っているんだ。
俺の無言の抗議が伝わったわけはないだろうが、子供はほとんど独り言のように呟いている。
「だって血みたいな赤い髪の人間なんかいないって村のみんなは言ってたんだ。怖い力を使う。化け物の使いだって。けど……あのお姉ちゃんは確かに赤い髪だったけど、僕に酷いことなんかしなかったし、ご飯も変だったけどちゃんと美味しかったし、訳分からない変な人だったけど、村のみんなと同じような生活をしていた。みんなの言ってることと違うんだ……」
子供は困惑しているようだった。村の大人達の言葉は絶対なのだろう。だが、実物のシュビが大人達の言うことと違うヒトだと理解しているのだ。
よかったな、シュビ。お前の気持ちはちゃんと子供に届いているぞ。変な奴と思われてるけど……。
それから半日かけて、ようやく村が見えるところまで到着した。
村が見えた途端に子供がはしゃぎだした。
「村だ!!父さん、母さんっ!!」
涙声で叫ぶので、村の近くまでやってきて、そっと下ろした。
下ろされた子供は不思議そうに俺を見た。
「狼さんは一緒に来ないの……?」
行くわけないだろ。どう考えても殺される。
じゃあな、達者で。せいぜいシュビのことをいい感じに伝えておけよ。
どうせ子供は理解できないだろうが、それでいい。俺はくるりと踵を返してさっさと山の中に引き返した。
そこからは行きなど比べ物にならない速度でひたすらに駆けた。
あぁ、早くシュビのもとに帰りたい!俺の帰りを待っているシュビのもとに帰り、元の二人きりの生活をするんだ!
ようやく理解したんだ。シュビが俺にとってどういう存在なのかを。
あぁ、あの子供にもほんの少しは感謝している。あの子供がいなければ、俺は嫉妬などしなかった。気づこうともしなかった。
俺の本能はちゃんとわかっていたのにな。
俺は体力を考えながらも可能な限り早く山を登った。
途中で、野兎と湖のそばの花畑で花を千切って咥える。
花と兎をまとめて落とさないように咥えるのが大変だ。だが、大事なものなので落とせない。
漸う戻ったころには、夕日が沈みかけていた。
ずっとそこにいたのか、それとも何らかの力で察知していたのか、小屋の前でシュビが待っていた。
シュビの姿に俺は嬉しくなって、疲れも忘れて跳ねる様にシュビの元へ向かった。
俺の姿を見つけたシュビも、嬉しそうに手を振っている。
シュビー!
「おかえりなさいゼルー!」
本当ならシュビに飛びつきたいくらいの喜びだったが、咥えているものが邪魔をしてハッと思い出した。
完全に俺を受け止めてくれる体制でいたシュビの手前で俺は速度を緩めて止まった。
「ゼル?」
シュビは小首をかしげながら、膝をついて俺に目線を合わせた。
俺は野兎と花をシュビに渡して告げた。
シュビ、俺とつがいになろう。
シュビは目を大きく開いて固まっている。
俺はシュビに俺以外のオスが近づくのが嫌だ。シュビは俺の特別で、シュビにとっても俺が特別じゃないと嫌なんだ。
ようやく気付いた。俺はずっとお前に求愛していたのに、その事実に気付きもしなかった。無意識にお前に惹かれ、求めていたのに、この気持ちに気づくことが出来なかった愚かな狼だ。
シュビ、狼の俺が餌をお土産にするのはつがいのメスにだけだ。グルーミングするのも、寄り添いたいと思うのも、全部シュビだけだ。
子供といえど、オスがシュビに近づくことを不快に思っていたのも、全部シュビを求める俺の本能だったんだ。
俺はそれにようやく気付くことが出来たよ。
俺はシュビと同じヒトじゃない。シュビと会話するための言葉を持たない。シュビを抱きしめてやれる腕もない。
けれど、俺は俺が狼である誇りに賭けてシュビに誓おう。
俺の生涯のつがいはシュビであると。
シュビを生涯愛し、慈しみ、共に生きることを誓おう。
ヒトはつがいになる時に贈り物をすると聞いた。野兎と花が俺からの贈り物だ。シュビが望むならいくらでも贈ってやる。
だからシュビ……俺のつがいになってくれ。
シュビは俺の告白を静かに、途中からは泣きだしながら聞いていた。
「いいの……?私は美しい狼ではないわ……」
お前ヒトとして美しいんだろ?それに俺にもお前の赤色の美しさはわかるからいいんだ。
「私……優秀な個体ではないわ」
料理が出来て、畑の世話が出来て、毛づくろいが上手い。優秀なメスだと思うぞ。
「わ、わだぢ、ずびっ、私……ゼルのこども……ひっく、う、ぅ、産めな、いわ…………。」
構わない。子供なんかできなくたって俺はシュビがいい。
狼として美しくなくたって、一緒に狩りが出来なくたって、子供が産めなくたってシュビがいい。
シュビとつがいになりたい。
シュビは?
もはや鼻水まみれのシュビは、それでも必死で俺の目を見つめ、こくこくと首を縦に振った。
「な、なるぅ~!!ゼルのつがいに、なる!わ、私を……ひっく、ゼルの、つが、つがいにしてくだざいっ!!」
涙声で詰まりながらも、シュビは俺の求愛を受け入れてくれた。
俺はシュビの顔を優しく舐める。舐めても舐めてもしょっぱい水はとめどなく溢れてきりがない。
シュビは泣き虫だ。よくへこんで、よく泣く。
そのうち目が涙で解けてしまうんじゃないかと思うくらいだ。
でも、シュビは笑った顔がとても可愛いんだ。
俺にはヒトの顔の良しあしなんてやっぱりわからないけれど……わからないんだが、シュビの笑顔が世界で一番だと言うことだけは断言してもいい。
それくらいには、ちゃんとシュビのことを愛している。
舐めても舐めても溢れでる涙に俺の方が根負けして、舐めるのをやめた。
シュビはまだ涙が止まらないらしい。
シュビ、シュビ。ちょっとかがんで顔を下げろ。
シュビは泣きながらも俺の言うようにちょっと頭を低くした。
俺はシュビの鼻先に、ちょこんと自分の鼻先をくっつけた。
シュビはびっくりして涙をひっこめた。
今シュビの顔が赤いのは夕日のせいなのだろうか?
シュビは赤い顔のままもじもじと告げた。
「ゼル、ゼル……今のもう一回しよ?」
俺はもう一度ちょこんと鼻先をくっつけた。
「もう一度」
今度は互いの首に鼻先を擦りつけたりもした。
「もう一度……」
俺達は、何度も互いの鼻先や首に顔をうずめ、小さく笑いあった。