訪れた変化の兆し
季節がふた巡りしたころだろうか、俺とシュビは相も変わらず平和な毎日を送っていた。
俺はいつものように縄張りをうろうろとしていた。
ふと、そこで血生臭い匂いが向こうの方から漂っているのに気がついた。
血が多いな……複数いる?俺以外に群れで狩りをするような大型の肉食獣がいるのか?
俺は警戒しながら様子を見るため匂いの方向へ向かった。
そこは切り立った崖の様な場所で、下に川が流れている。崖の近くで血をまき散らした後があり、ヒトのオスが複数倒れていた。
何があったか知らないが、いずれここには俺と同じく匂いを嗅ぎつけた動物がやってくることだろう。
俺はヒトは食べないようにしている。見つかると報復がすごいからだ。
群れにいたころにヒトの家畜を襲ったことが何度かあるが、家畜でも酷いのに、群れの一人がヒトを襲った時の報復ときたら凄まじいものだった。ヒトは単体では爪も牙もなく、シカより簡単に襲えるのだが、武器を持つと狂暴になる。とくにオスがやっかいだ。ジュウと呼ばれる鉄の武器と矢は痛い。しかもすごい速さで飛んでくるのだ。たまったものではない。
あれ以来、俺はよほど飢えでもしない限りはヒトは襲わないようにしようと固く誓ったのだ。
実は初めて会った時、シュビをどうしようか迷ったのも、それが理由だ。
よし、見なかったことにして帰ろう。
俺がくるりと踵を返そうとすると、ふともう一つ匂いがあることに気がついた。
匂いをたどり崖下を除くと、崖の小さな出っ張り部分に幼い子供が乗っていた。俺と目が合うと助けを求めるように泣きじゃくった。
え?どうしよう……。
困った俺は、とりあえずシュビに相談しようと急いで小屋に引き返した。
「え?崖の途中に子供が!?助けなくちゃ!!私をそこまで連れて行って!」
シュビは俺の話を聞くと、すぐに小屋を飛び出した。
俺が先頭を切りながら、シュビを見失わないように後ろをちらちら振り返り走る。シュビも可能な限りの急ぎ足で駆けている。
崖に到着すると、子供は泣き疲れたのか眠っていた。シュビはふわりと崖の途中に飛び降りて、子供を抱きかかえて力を使い崖の上にふわりと上がってきた。
「この子怪我をしているみたいだわ。このまますぐに小屋に飛んで戻りましょう」
俺と暮らし始めてからめったに使うことがなくなった移動の力を使うと言う。緊急事態なのだろう。
あの感覚は好きになれないがそうもいってられないので、俺はシュビの服の端を咥えた。
シュビはそれを確認して、力を使い、景色が歪んだと思ったら小屋に戻って来ていた。
シュビ曰く、子供は軽い擦り傷と打撲、片足と片手を折っていたらしい。そこそこの高さの崖だったので、下に落ちればそれではすまなかっただろう。
傷口から感染でもしたのか、子供は熱も出しており、シュビは薬草や力を交互に使いながら、夜を明かして看病し続けた。
シュビの体力が心配だったので、俺と適度に交代しながら仮眠をとらせた。俺は見ていることしかできないが、何か異変があったら起こすから寝ろと無理やり寝かしつけた。
シュビがここまで他人のために必死になる奴だとは思わなかった。シュビは他のヒトには気味悪がられている。なのにどうしてヒトと関わり合いたいのだろうか。
傷つけられても手を差し伸べるシュビの姿が哀れだった。
俺は自分が狼であることに誇りを持っているし、不満を感じたことなど一度もない。だが、もしシュビと同じヒトだったのならば、シュビはまた違った喜びを得たのではないだろうか。
シュビはヒトに追い払われて、自分を嫌わない俺を唯一の友として大切にしている。俺がヒトであったならば、シュビを一人になんてさせないのにな。
シュビの不思議な力のおかげで俺達は問題なく意思疎通して暮らしているが、それはシュビの力に頼った一方的な関係なのだ。俺はシュビに言葉を伝えるすべを持たない。
くやしいな、と思った。
俺の隣で看病に疲れて眠るシュビ。俺はその頬を軽く舐める。
俺がヒトならベッドに運んでやれるのに。俺の脚はすばやく走ることはできても、シュビを抱きしめたり撫でてやることはできない。
俺の毛並みは寒さから身を守るが、シュビの体温を直接感じることが出来ない。
それでも、俺はシュビのそばで体を密着させて丸くなる。ベッドを子供に明け渡しているから、どの道シュビは寝る場所がない。
俺がそばで温めてやろう。シュビが寒くないように、くるんで包んでそばにいよう。
それくらいなら……。
それくらいなら狼の俺だって出来るからな。
俺は子供の様子を眺めながら、静かにシュビに寄り添った。
シュビの献身的な介護もあって三日後、ようやく子供が目を覚ました。
ちょうどシュビは洗濯物を干しているところだったので、小屋の中には子供と俺だけだ。
さて、驚かれたりしたらどうしよう、と思いながら子供の様子をうかがっていると、子供はベッドの上で上半身を起こして小屋の中をぐるりと見回し、俺と目があった。
俺は床に伏せたまま顔だけを持ち上げてじっと子供の反応を探っていると、子供は意外にも俺に悲鳴を上げたりはせずに安堵したような表情をした。
「あの時の崖の狼さん……僕を助けてくれたの……?」
なるほど。子供の記憶的には俺が助けたことになっているのだろう。どちらかと言えば助けたのはシュビなのだが、伝えるすべもないので放置しておこう。
子供のためにシュビが用意した水がある。まずはこれを飲め、と鼻先で器をずいっと子供の方に押し出した。
子供は素直に器を受け取って、両手でごくごくと飲んだ。よほど喉が渇いていたのだろう。
おい、あんまり急いで飲むなよ。むせるぞ。
案の定、子供はむせて水をベッドにこぼした。そりゃ片方は折れてる手で持っていたからだ。あーぁ、言わんこっちゃない。シュビのベッドなのに。
器がからんからんと床に落ちる音で、外にいたシュビが戻ってきた。
おーシュビ。子供が目を覚ましたぞ!
「ありがとうゼル。あら、お水をこぼしちゃったのね。おかわりはいるかしら?あの……大丈夫?痛いところはない……?」
シュビは俺と話した後、子供に向けて、おずおずと、しかし柔らかい声音で話しかけた。
だが子供の反応は凄まじかった。
シュビを見た途端に、大声で叫び喚いた。驚いたシュビが何とかなだめようと近づくと、毛を逆立てて必死に身を守ろうと威嚇する小動物のようにシュビを睨みつけて唸っていた。
シュビが何度自分は怖くない、危害は加えないと話しかけながら近づいても、子供は折れた腕や足など知ったことかとばかりに振りまわしてシュビが近づかないように攻撃しようとしていた。
シュビが制さなければ、俺が子供を蹴り飛ばしてやろうかと思ったぐらいだ。子供はシュビを異常に怖がっており、むしろ俺に助けを求めて縋りついてきたほどだ。
助けたのはシュビなのに…なんて失礼な子供なんだ!
俺の憤慨にシュビはしょんぼりしたように笑った。
「仕方ないわ。私の見た目が見たこともない色なことと、あの男達に攫われたことで人間に対して恐怖心を抱いているのだわ」
そういやシュビは心が読めるのだったか、子供が怖がっていることを正確に理解できているのだろう。それは辛いだろうな。
「私は平気よ。それよりもゼルのことを自分を助けた恩人だと思っているようだから、なるべくゼルがそばにいてあげてくれないかしら?その方がきっとその子も安堵するわ」
シュビのことを悪く思うようなやつの面倒なんて見たくないんだけどな……。
シュビがそれでもお願いと言うので、仕方なく面倒をみることにした。なんで自分を嫌うやつのために俺にお願いまでするんだ。まったく、シュビのお人よしめ!
俺の不満にシュビはくすくすと笑った。
それから、俺とシュビの生活の中に一人の子供が加わった。
黒髪黒目の子供は、ひたすら日中は俺にしがみついて離れようとしない。シュビが近づくと警戒心をあらわにぎゃーぎゃーとわめくので、シュビはあまり俺のそばに近寄れなくなった。
ご飯はシュビが作っているのだが、子供はそれになかなか手をつけようとせず、仕方ないので俺専用の料理を俺が半分ほど食べて残りを子供の方に差し出すと、子供は顔をしかめるようにしながらもそれを食べるようになった。
初めはそんな風に俺の残りを食べるようにして、だんだん食事に害がないことが分かると、俺と皿を分けて、シュビと同じ内容の料理を出しても口をつけるようになった。時々顔をしかめることはあるが、文句も言わずに残さず食べている。
シュビの料理に不満でもあるのだろうか。美味しいのに……。
食事が終わると、シュビは食後の片づけを済ませ、小屋の外に出る。そして子供が寝静まるまで一人で外にいなくてはならない。
俺は子供の目の届くところで子供が眠るのをひたすら待ち、子供がようやく寝たと確信するとシュビを呼びに行く。
シュビは眠る子供の服と傷口の布と、折れた腕と足にあてている木の棒を取り替える。眠っている間しかシュビは子供に触れられないので、必然シュビの睡眠時間は削られる。
俺は失礼な子供のためにシュビがベッドを開け渡したり、こんなに丁寧に扱ってやる必要はないと何度も言ったが、シュビは笑って私がしたいの、と言った。
「たぶん、この子は私が以前訪れたことがある村の子供だと思うの。親から私の特徴を聞いて、とても危険なものだと思っているわ。私を怖がるのは、私が不用意に人間の前で力を使ってしまったその報いね。だから、私は信じてほしいの。そんなことをする人間ではないのだと。誤解されたままは悲しいわ。私にも謝って、もう一度認識を改めてもらうきっかけが欲しいの。
だからこれは、この子のためなんかではないの。私がこの子を助けて仲良くなれば、きっとこの子は村に帰って私が悪くない、いい人かもしれないと村の大人達に話すでしょう。だから私は自分のためにこの子を治療しているの。自分勝手なわがままなのよ。付き合わせるゼルには申し訳ないけれどね」
そう言って笑うシュビに、俺は何も言えなくなった。
俺は子供を見捨てても良かったんだ。だからシュビにどうしようか確認した。俺達の生活を煩わせる存在ならばさっさと消えてほしいと願って相談したんだ。決して助けようと言おうとしたわけではなかった。
だから、シュビが子供の命を助けたんだから、構わないと思う。シュビが我がままのために子供を使おうが、俺はそれを肯定する。そもそもシュビがいなければ、あの崖の途中で息絶えるしかなかった命だ。
シュビの我がままで生かされてるんだ。シュビがこの子供を気に病む必要はないからな。シュビと俺の生活を脅かすような存在ならば、俺がいつでも噛みついてやる。
「ありがとうね、ゼル」
俺の考えは全部シュビに読まれている。シュビは俺を手招きしてぎゅっと抱きしめた。
俺はされるがままにシュビに寄り添っていた。
近づけなくて、ふれあえなくてさびしかったのはシュビだけではない。子供と一緒にいたって、シュビと一緒に入れなければ俺はさびしいのだ。
「ゼルがそう思ってくれてうれしいな……」
シュビはくすぐったそうに笑った。俺達はそっと寄り添いあって眠った。