受け取った求婚のしるし
遅くなりました。
次回の更新は土曜日になります。
私は狼と過ごす時、なるべく狼が私にとる行動や仕草を怖がらずに受け入れ、行動の意味に注意を払うようになった。
狼は、私が喜ぶこと、怯えないことにとても注意を払っているように感じた。そして、私が狼に触れることに怖がらなくなると、積極的に私に触れてくるようになった。
狼は私に撫でてもらうことがとても好きらしいと気付いたので、もしかしたら毛づくろいをしたら喜ぶかもしれないと思い、家から櫛を持参して狼に見せてみると、狼はとても尻尾をふってあおんと鳴いて、私に体の側面を向けた。
これは狼が、自分に触ってほしいと言うような意味なのだろう。狼は柔らかく目を閉じて、私の毛づくろいを受け入れていた。狼の毛づくろいなんて初めてするはずなのに、とても手慣れた様子でどこをどういう風に梳けばいいのか、なんとなくわかった自分の感覚が不思議でならなかった。
ある時、いつもは花畑で過ごす狼が、突然ついて来いと言うように尻尾を振って歩き始めた。
私はそれについて行った。狼は先導して歩きながらも、絶えず私の存在を確認するように後ろを振り返り、私のことを気にかけているようだった。
時々すばやく私の元へ近づいたかと思うと、足元に迫っていた蛇を追い払ったりしてくれた。狼と二人で森の中を歩く。どこに連れて行かれるのか、どこまで行くのかまるでわからないけれど、不思議と不安だけは感じなかった。
しばらく歩いて、視界が開けた場所に出た。綺麗な湖だった。
「綺麗……。こんな場所があったのね……」
きらきらと太陽の光を受けた湖は輝くようで、風に揺れる緑の葉と照りかえす光が美しかった。
「狼さん、この風景を私に見せようとしてくれたの?とっても綺麗ね。ありがとう」
私が笑ってそういうと、狼は私の着物の裾をくいくいと引っ張った。私がしゃがんで狼に目線を合わせると、狼はくるりと踵を返して茂みに向かい、がさごそと顔を突っ込んで茂みの中に隠していたらしい何かを咥えて戻ってきた。
私の足元にぽとりと置かれたそれは、野兎と見たことのない花だった。狼は座って私を見つめる。
「これを……私にくれるの……?」
尋ねると狼はあおんと私に返事をした。野兎と花。
ふと、お婆さん達が言っていたことを思い出した。
若い男が若い娘に贈り物をするのは意味があるのだ。では狼が私に贈り物をするのは……?
「これは……この贈り物には、何かとても大切な意味が……あるの?」
私の問いかけに、狼はまたあおんと返事をした。薄い金の瞳が私をじっと見つめている。
狼はそのまま顔を私に近づけて、私の鼻先に自分の鼻をちょんとくっつけた。
まるで口づけを真似たようなその仕草が、可愛らしく感じた。
――――シュビ、俺とつがいになろう――――
そんな声が聞こえた気がした。それと同時に頭痛が起こった。
「うぅ……痛っ!!」
私は頭を押さえてうずくまる。ずきずきと割れる頭は、何かを思い出そうとしている。
――――ただいま、シュビー!――――
これは……?
――――ヒトはつがいになる時に贈り物をすると聞いた。野兎と花が俺からの贈り物だ。シュビが望むならいくらでも贈ってやる――――
何の記憶……なの?
――――愛しているよ、シュビ――――
私が失った……大切な……。
「ぅっ……ぅあ、…………はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
頬を伝って地面にぽたぽたとしずくが落ちた。
これは汗なのか涙なのか。
狼は突然呻きだした私におろおろとしながらも、私の頬に伝うしずくを拭うように何度も舐めた。
その優しい行動に、何かの感情が呼び起こされそうになって頭痛が増したような気がした。
狼の目の前で倒れるわけにはいかない。きっと狼は私を心配するだろうから。こんな森で倒れるわけにはいかない。
私はずきずきと痛む頭を懸命に回転させて、家まで帰らなければならないと自分に言い聞かせた。
目の前で私を心配してくれている狼に、心配させないように優しく頭を撫でて言った。
「ご、ごめんね……狼さん。なんだか、とても頭が痛むの……。今日はもう、帰るわね……。ここに連れてきてくれて、ありがとう、ね……」
私はちゃんと笑えただろうか。狼は耳と尻尾をぺたりと垂らして、私を花畑まで送ってくれた。
狼は村までついて行きたそうにしていたが、ここまでで大丈夫だからと言って花畑で見送ってもらった。狼が村の近くまで来てしまったら、村の住人が狼を傷つけてしまうかもしれない。
自分の思考に私はふと違和感を覚えた。
「私は今、村の人達が狼さんを傷つけることを恐れたの……?狼さんが村の人達を襲うことではなくて……?」
狼が村の人達を襲う?そんなことはありえない。だって……はとても優しい狼だもの。
……とは何?あの狼は私にとってなんなのだろう……?
私は痛みを堪えながら村を目指して足早に歩を進めた。
途中で佐彦に出会った。
佐彦とはここ最近薬草畑の帰りに良く出会っていたけれど、今日はいつもと帰る時間が違うから出会うと思っていなかった。
頭痛のことをごまかすように、いつものようににこやかに挨拶した。
「佐彦、最近よく合うわね。もうすぐ夕暮れですよ」
佐彦も私に、にっこりと笑って挨拶をした。
「おう、そうだな。今日も獲物が多めにとれたからもっていけ……うん?野兎?それは朱美が罠で獲ったのか?」
佐彦が私の手元の籠を覗いて尋ねてきた。
「いいえ。……これはもらったんです」
「その見たことない花もか?」
佐彦は籠の中の花を見つめて私に聞いた。
「はい」
「それをお前にやったのは男だな……?」
問うと言うよりは確認するような声だった。
私はこくりと頷いた。佐彦は真剣な顔でしばらく考えて、そして立ち止まって私に向き直った。私も一緒に立ち止まる。
「どうしたの、佐彦?」
「朱美……大事な話がある」
私はその言葉に困って、慌てて告げた。
「その話は今度にしない?大事な話なら改めて聞くわ」
何せ、今は頭痛がしてあまり思考が働かないのだ。どんな内容であれ佐彦が大事と言う話ならば、私が真剣に向き合うためにも万全の状態がいい。
私の遠回しな遠慮の言葉を、しかし佐彦は気付かなかった。
「いや、出来れば今がいいんだ。決心が鈍りそうだし、朱美に贈り物をしている他の男がいるならば、早い方がいい」
佐彦はそこでひと呼吸おいて静かに目を閉じ、そしてもう一度見開いた時には、その瞳には真剣な光を湛えていた。
「朱美、俺はお前が好きだ。だから俺の嫁になってくれ」
「さ、佐彦……?」
私は突然佐彦から告げられた求婚に動揺して、言葉を失った。
「朱美は優しくて温かくて綺麗だ。俺は働き者で優しい朱美に惹かれたんだ。朱美がよそ者でも、過去がなくても関係ない。俺は朱美がいいんだ。だから俺の嫁になってくれないか?」
佐彦はまっすぐに私を見つめて想いを伝えてくれた。けれど私が佐彦の姿に重ねて見つめていたのは、一匹の狼だった。
シュビ、俺とつがいになろう。
俺は俺が狼である誇りに賭けてシュビに誓おう。
俺の生涯のつがいはシュビであると。
シュビを生涯愛し、慈しみ、共に生きることを誓おう。
私は佐彦を見つめて、静かに告げた。
「佐彦……ごめんなさい。私はあなたの求婚を受けることはできないわ。私……私には、つがいがいるの……」
「朱美……記憶が、戻ったのか……?」
「えぇ。私……いかなくちゃ。佐彦、本当にごめんなさい。私に求婚してくれて、ありがとう」
私は佐彦にそう言って、持っていた籠を投げ出して、きた道を引き返し、走り出した。