復讐
辺りは闇に染まっていた。人々は眠りにつき、遅くまで営業する店の灯も消えかかっている。人気のない道に一つ、炎が灯っている。照らし出されているのは茶髪の男性。しかし人ではなく、背中には真っ赤な翼が生えている。それを認め、裏路地から歩み出た。
「こんな夜更けにまで見回りとは熱心ですね、ヘヌリス様」
嫌味を込めて声をかければ、天使・ヘヌリスはこちらを見つめた。瞬きして寸の間立ち止まっていたが、すぐに笑顔を作る。
「君は――どうしました? 夜道で迷いましたか?」
ヘヌリスは天使らしく、優しく尋ねてくる。それを見、口角をつり上げて笑ってみせた。
「いつぞやのお礼をしたくて参りました」
「お礼?」
ヘヌリスはきょとんとし、翼をわずかに動かした。顎に手を当て、じっと考え込んでいる。何のことだろうか、そんなことを考えているように見えた。
「そちらが覚えていないのも無理はないこと。しかし、こちらには重大な出来事。ですのでお礼に――」
言いながら、ゆっくり相手に近づく。気取られぬよう、自然に振る舞う。ヘヌリスはただこちらを観察しているだけだった。
「この広場をロカメア様のお好きな赤に染めようかと。……天使の血でね!」
「っ!?」
隠し持っていたナイフを素速く突き出す。肉を切る感触はあった。だが、相手は上空に逃れていた。傷も刃がかすっただけだったらしい。苦痛を感じている様子はなく、驚きの表情でこちらを見下ろしている。
「何を――」
「人間では天使に敵わない。現に、こうして空中に逃げられれば手を出すこともできない」
ナイフを握り、相手を見据える。ヘヌリスは闇の中にいたが、怪訝な顔をしているのがわかった。
「だが、同じ天使ならば、それも問題とならない」
言いながら、純白の翼を顕現させる。その翼を羽ばたかせ、地を蹴って空中に躍り出た。赤い翼の天使は驚き、すぐに険しい顔つきになった。
「貴様、白の天使か!」
飛び上がったこちらに向け、ひとかたまりの炎を放つ。炎はごうごうと燃え、周りだけ昼のように明るくなった。が、それは敵を捕らえず、ただ敷石を焦がすだけに終わる。
「闇の中でおれに敵うと思うな」
声に気付いて振り向いたところで、もはや手遅れ。すでにこちらが背後を取っている。打ち払おうと振りかざされた右腕にナイフを突き刺す。ぬるりと生暖かい感触が手を濡らす。ヘヌリスは痛みに悲鳴を上げた。刃は肉を切り深い傷を与える。
目の前で光が灯った。咄嗟に離れる。業火はナイフを焼き、金属をも溶かした。その隙に相手は赤い翼を羽ばたかせ、こちらから離れようとする。その進行方向に一瞬で回り込む。
「逃げられるとでも?」
白い翼を誇示し、相手を嘲笑う。ヘヌリスはその場で止まり、顔を引きつらせた。右腕をだらしなく垂らし、こちらを見て硬直している。だがすぐに我に返ったのか、左腕だけで炎を喚び出した。赤々と輝く炎を軽く避け、逃げ出した相手の背を捕まえる。抵抗しようとした左腕を掴み、あり得ない方向にねじ曲げる。闇に獣のような咆哮が響き渡った。赤い翼が目の前で暴れる。それに臆することなく、ぎりぎりと力を入れ続ける。
ごきんという鈍い音がして、不意に感触が軽くなった。真紅の翼が真っ直ぐ伸び、声にならない嗚咽が聞こえた。掴んでいた左腕を放すと、だらりと下に垂れ下がる。浅く息をする相手は、もはや会話することすらできないらしい。こちらに首根っこを掴まれ、子猫のようにぶら下がっているだけだ。
相手を掴んだまま、片方の翼に手を掛ける。赤い羽根で覆われたそれの固い部分を握り、力一杯引っ張る。再び叫び声が上がった。掴まれた体はのけぞり、首も無理に上を向く。今度は抗う体力も無いのか、ヘヌリスは暴れなかった。されるがままに痛みを訴えている。無様な姿を冷たく見据え、翼を引っ張る。
肉がちぎれ骨が外れる嫌な音が響いた。人肌の液体がびちゃり、びちゃりと頬を濡らす。どろどろと鉄の臭いが立ちこめる。片翼になった天使はのけぞった姿勢で痙攣していた。口からは唾液が漏れており、普段の温厚な面影はどこにもなかった。
首を掴んでいた手を離す。と、空中での制御を失った体は重力に捕らわれた。見る間に速度を増し、真下に落下していく。その落下地点に意識を集中させる。上に伸びた木の枝の一つが切り落とされた。その鋭く尖った切り口が、落ちた天使の肉体に食い込む。重さと落下速度で枝に貫かれた。
白い翼を羽ばたかせ、ゆっくりと高度を下げる。天使の胸が太い枝に貫かれていることを確認し、もぎ取った翼はうち捨てた。鼻を突く異臭を無視し、枝に引っかかって垂れている天使を見やる。注意深く観察していると、残った翼がわずかに動いた。咳き込み何かを吐き出す音が耳に届く。
「心臓を貫かれているのにまだ生きているのか。しぶといな」
曲がりなりにも超常の、人ならざる存在なのだと妙に納得してしまう。ヘヌリスは口の中の物を吐き出した。
「き、さま、何故……」
低くかすれた声が聞こえてくる。喋るのがやっとのようで、刺されたうつぶせの姿のままこちらを振り向くことはなかった。弱々しく上下する肩を見つめ、にやりと嗤う。
「何故? 天使は“何故”を問う権利は与えられていない」
言いながら、指先に意識を集中させる。相手の首筋めがけ、素速く線を引いた。どさり、とそれが地面に落ちる。先のない傷口から血が噴き出し、木を黒ずんだ色に染め上げた。もう残された体は動いていない。落ちた物の茶髪を掴みこちらを向かせる。その目もまた、濁った色をしていた。これ以上手を掛ける必要は無い。そのことを確認し、死体の一部を木の根元に転がす。闇の中でもなお映える純白を広げ、その場から飛び去った。