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辺りを覆うのは、ひとつかみの光すらない闇。右も左も、上下さえもわからない中を漂っている。先も見えないというのに、本能は目の前の存在を認識している。実際の姿が大きいのか小さいのかはわからない。だが、全身の皮膚をひしひしと圧迫するような感覚があった。相手はただ者ではない。いや、人間ですらないだろう。おそらく、人知を越えた何か。あえて呼び表すならば――
「何故、おれの前に現れた」
目の前の闇に問いかける。不快だと言わんばかりに睨み付けながら。
「お前を我の手下にし、我が手足とすべく舞い降りた」
闇の中から姿のない声が答える。ますます訳がわからなくなって、眉根を寄せた。
「何故おれなんだ。他に適任はいくらでもいるだろう。もっと妄信的で、どんな命令をも遂行できる輩が」
闇に向かって吐き捨てる。自虐などではない。事実を言ったつもりだ。まさか手下になれて光栄ですなどと言ってくれるとでも思っているのだろうか。声はしばし黙り込む。自分の声ばかりが意味もなく虚空に消えていった気がした。やがて聞こえてきたのは、まるで笑っているかのような言葉。
「神をも恐れず、神に不信を抱く心意気――ますます気に入った。お前こそ、我が手下にふさわしい」
高圧的に笑う声が、神経をざわざわと逆なでするように感じた。同時に心の中に憤怒の炎が湧き起こる。
「ふざけるな! 誰がそんなこと――」
「お前に拒否権などない」
言いかけた言葉を遮って、声がぴしゃりと言い放つ。思わず言葉を失った。その間に、自分の周囲に光が集まる。体をすっかり包み込んでゆく。それだけで終わらず、光は体の中に侵入する。ぞわぞわと潜り込まれる感覚。同時に痛みと熱とが襲ってくる。闇の中に自分の苦悶の声だけが聞こえた。指先も、腕も足も、腹の中も蝕まれてゆく。自分がどうなっているのか、もうよくわからなかった。熱さが首元まで迫る。バサリという羽ばたきの音が聞こえたところで、意識は無意識の淵に沈んでいった。
*****
郊外近くにそびえる大きな校舎。赤い屋根と茶色の壁が、歴史と由緒ある風合いを醸し出している。その建物の一室、制服ローブを纏った者達の視線の先で、優しげな顔の初老の男性がゆったりと歩いていた。
「――であるからして、私達人間は、恵みをもたらしてくれたロカメア様に対する感謝の心を忘れてはなりません。そうしなければ、神による裁きを受けることとなるでしょう」
広い講義室に男性の声が響く。受講する者達は階段状に並べられた机に向かい、話を聞きながら手元のノートに書き込んでいる。その中で、赤髪の女生徒が窓の外の陽気にあくびした。メモ用紙すら机の上に出さず、腕の上にあごを載せている。その瞳はいかにも退屈だと言いたげにまどろんでいた。
「ったく、なんでこんな授業が必修なんだ」
前で教える牧師が去ったのを見送ってから、忌々しげに呟く。傍にいた青い髪の男子が困ったように笑った。
「教えは一般教養どころか一般常識じゃないか。それをきちんと理解しないでどうするのさ」
「知らなくたって困りはしないだろうに」
がたりと立ち上がって、女生徒は吐き捨てた。瞳にはぎらりと不信の色が浮かんでいる。それを見て、青髪の男子はため息をついた。
「ファーロ、お前そのうちバチが当たるんじゃないか?」
「はっ、是非ともやってもらいたいものだな。そうすれば、おれの考えも変わるかもしれないし」
ファーロと呼ばれた女生徒は口の端をつり上げた。神など存在しないとでも言いたげに。態度を崩さない彼女に、男子――ストリグはそれ以上言うのをやめた。
何故みんな、こうも神を信じることができるのか。ファーロはいつも、周りの人々を見ては思う。別に存在を否定している訳ではない。この地方で崇められている神・ロカメアが人類に素晴らしい力を授け、文明の発端になったのは歴史が証明している。神やその神に仕える天使達が、人知を越えた力を使う様も目の当たりにしたことがある。だが、どうしても神というものを信じてみる気にはなれなかった。信じたからといって、自分の願いが叶うものか。信じるだけで叶えば、誰も苦労はしない。そうして不信を抱き続けてから数年。たいした幸運にも恵まれていなかったが、ひどい不運にも遭っていない。信じても信じなくても変わらないじゃないかと、いっそうの疑惑が心に巣くう。おかげで、ひたむきに信仰する人々が馬鹿らしく見えて仕方がなかった。