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1.Sound of the sea

 なだらかな丘陵を駆けあがって来た潮風が髪を揺らして通り過ぎていく。

 テラスに置いたお気に入りの椅子に座って景色を眺めながら、私は心地よさに目を細めた。暑さが和らいで、ゆっくりと秋色に変わるこの季節が一番好きだ。

 瞼を閉じれば、微かに潮騒が聞こえる。繰り返し聞こえるその音は、ゆっくりと流れる午後の時間にこの上もなく似合って、かすかな眠気を誘う。


「マリー、ここにいたの。今日は風が少し冷たい。そのままでは風邪を引く」


 背後からかかったその声に、私は緩い眠りの淵から意識を戻し、ゆっくりと振り向いた。


「テオ」


 名を呼べば、穏やかに笑う。

 円柱に軽くもたれながら腕を組んでいた彼は、ゆっくりと体を起こして私の隣へ立った。


「あまり体が冷えると足も痛む。中へ入ろう」


 そう言うが早いか、私と椅子の間に手を差し入れて抱き上げる。

 彼が私を落とすはずがないと頭では分かっていても、急に掬い上げられた体は驚く。反射的に彼の首にしがみつけば、彼は悪戯が成功した時のような顔つきで小さな笑い声を上げた。


「自分で歩けるわ、テオ。おろして」

「いいじゃないか。俺がいる時ぐらい甘えてよ」


 こういう場面で彼から戻って来る返事はいつも私の願いと逆。私は火照った頬を押さえながら小さくため息をついた。


「あなたといると自分が何もできなくなりそうで怖いわ」

「そうしたらベタベタに甘やかしてあげるんだけど」


 冗談とも本気ともつかない顔で見つめられて、私はいたたまれず視線を逸らした。


「そういう冗談は良くないわ。私は時々あなたがここに来てくれるだけで満足なの」


 彼からの答えはなく、それで会話は途切れた。

 リビングのソファへ私をおろし、問答無用でひざ掛けを掛けると、彼はコーヒーを淹れてくるからとキッチンへと消えていった。

 ひとりになった途端、足が鈍く痛んだ。彼の言う通り、少し体を冷やし過ぎてしまったらしい。一生付き合っていかなければならないその痛みは些細な原因でやってくる。疲れた時、天気の崩れる時、そして今のように体が冷えた時。

 私はそっと足を撫でさすりながら見慣れたリビングをぐるりと見回し、それから窓の外の海へと視線を移した。

 開け放したままの窓から入る微風にレースのカーテンが揺れるけれど、私の座るソファまでは風も届かない。



 

 この、一人暮らしに不向きなほど広すぎる家は両親の遺産だ。

 数年前、母の祖国である日本での留学を終え帰国した私は、空港まで迎えに来てくれた両親と共に事故に巻き込まれた。その事故で私は両親と、走るという行為を失った。

 足に後遺症が残ったと言っても、家の中程度だったらゆっくりと歩くことも出来るし、杖さえあれば外出もできるし、幸い自動車の運転だって出来る。ほかに身寄りもなかった私は両親の残してくれたこの家で、ひっそりと暮らしている。

 友人伝いに舞い込む翻訳の仕事を細々とこなせば私一人が生きていくくらいの食い扶持は稼げている。

 時間が経つと言うのはすごい事で、事故直後は立ち直れないほど絶望していたと言うのに、今はこうして穏やかに生きて――そして笑うことだってできる。

 だけれど、時々。

 心がずきりと痛むことがある。そう。今のように。


「マリー? どうしたの?」


 心配そうなテオの声に、はっと我に返った。

 両手に持ったコーヒーカップをテーブルに置きながら、私の顔を覗き込む。

 とっさに返事が出来ない私の手元を見て、彼は「ああ」と得心がいったように頷いた。

 私の手には数通のダイレクトメール。ほとんどが、私、マリー・メイヤー宛のものだ。けれど一通だけ母宛のものが混じっている。その宛名が私の心のどこかを引っ掻いたのだ。


「何だか不思議ね。届ける相手はもういないのに」


 差出人を見ても全く知らない企業の名前があるだけだ。今までこんなダイレクトメールは届いたことがない。どこからか古い住所録でも流失したのかもしれない。

 念のため封を切って中を確かめてみたけれど、よく分からないダイエット用のサプリメントの案内だった。

 母は生前、ダイエットに縁のない体型をしていたし、サプリに頼るぐらいなら運動をしなさいと言うような人だった。間違ってもダイエット用品の資料を取り寄せたりなんてしていない。

 このダイレクトメールは一方的に送り付けられてきたものに他ならない。そう判断して私は広告をもとのように封筒に収めた。


「ダイエットサプリですって。母が生きてたらきっと『こんなものに頼るくらいならジョギングの距離を増やすわ!』なんて言ってかも」


 くすりと笑った途端、私の手からその手紙が消えた。


「これは俺が捨てて良いかな、マリー? 君にそんな顔をさせるなんて許せないね」


 アームレストに浅く腰掛けたテオが、件の手紙をヒラヒラと振っている。私が頷くと彼はそれをさっさとゴミ箱に投げ入れた。そのぞんざいな仕草に吹き出した私は、ゆっくりと戻ってくるテオに向かって、からかい交じりに訊ねた。


「やだ、テオってば。そんな顔ってなぁに?」

「無理に明るく振る舞わなくていいよ。俺の前で心を偽る必要はない。痛かったら痛いって言っていいんだ」


 そう言いながら彼の顔にも寂しげな微笑が浮かんでいる。ああ。私もあんな風に笑っていたんだろうか?


「テオ……」


 彼にそんな顔をさせてしまった自分の無神経さに呆れ、謝り方が分からなくて途方に暮れた私は、ただ彼の名を呼んだ。

 彼はそんな私の額に触れるだけの優しいキスをくれる。触れた唇の熱さに胸が苦しい。

 私を見下ろす優しい色の目が綺麗で見惚れた。彼は本当に実在しているんだろうか? すべて私の妄想なんじゃないか。そんな不安が頭をよぎって、私はそっと彼の頬に触れた。私より少し硬い皮膚の感触、少し高い体温、そして微かにちくりと感じるのは……

 頬を撫でていた私の手は不意に彼の手に捕えられた。その手はゆっくりと口元へ引き寄せられ、冷えた指先にキスが落ちる。咄嗟に手を引こうとしたけれど、彼の手は振りほどけなかった。

 指先に口づけたまま、彼は黒い瞳に零れるような艶を滲ませてじっと私を見る。試すように、挑むように見つめられて、息を飲んだ。「離して」という言葉は喉の奥に引っかかったままどこかへ消えた。

 ああ、魅入られる――。諦めにも似た恋慕が湧き上がる。今だって持て余しているのに、これ以上好きになったらもう手がつけられない。分かっているのに、どうしても抑えられない。 恋心というものは本当に厄介だ。


「コーヒーが冷めてしまうよ」


 唐突に視線を和らげた彼が、にっこりと笑った。

 私は促されるまま、ぎくしゃくとした動きでテーブルからコーヒーカップを取った。

 独特の香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

 平静を装いながら、私は隣に座るテオに向かって心の中で祈る。


 ――どうか、もう少しだけで良い。このままでいさせて……と。




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