特別な季節の一光景 1
「よい……しょ」
うら若き乙女が、額に汗を流して両手で抱えていた袋を床へ置く。
「これでよし、と」
袋を置き終えた少女は、汗を腕で拭いながら笑みをこぼす。
だが次の瞬間、その笑みが凍りついた。
「え?」
口を手で押さえながら、少女は周囲を見渡す。
『飛べば……良かった……朽ちて……より……飛べば……』
少女以外に誰もいる筈のない空間に、別の存在の声が確かに地下室に響いた。
次に地下室に響いたのは、少女の絶叫だった――
スノーフィールドにとって、夏は特別な季節だった。
その特別なものの中のひとつに、雪から解放されたことがある。一年の大半が雪で覆われる地方に建つ都市のため、自然、人は家の中で過ごすことが多くなる。スノーフィールドに暮らす人々にとって、夏は雪を気にせず全身に日を浴びることのできる掛け替えのない大切な季節なのだ。
うら若き男女ともなれば、なおのこと。つかの間の逢瀬を楽しみ、二世を誓うにはこの季節が最適なのだった。
「と、いいますのに」
そんなスノーフィールドにあって、間違いなく『うら若き者』に分類されると思しき年頃の乙女が、目を剣呑な角度に吊り上げて唸る。
「どうしてこーんな長い時間、門兵の代わりを務めなければいけませんの!?」
スノーフィールドの市街へと通じる、門の前。俺を含めた五人の『うら若き者』が、各の武器を片手に、正味な話、手持ち無沙汰な気持ちで立ち尽くしているところでの話である。
「不毛! 不毛ですわ! この才色兼備、比類なきメアリが! 見えるものといえば野原と山岳と外壁しか見えない、こーんな殺風景な門の前で! 夏の貴重な時間を浪費するなどと! あり得ませんわ!」
また始まったか。俺は額に右手を当てて溜め息を付く。
こうなると、他の奴が黙ってなくて……
「うるさいでありますなー。ちょっとは黙って仕事できませんですか」
「何か言いまして、アンソニー?」
「いーや、何も」
アンソニーと呼ばれた若者は、メアリと名乗った乙女からその鳶色の視線を外し、そっぽを向く。ジト目でにらみ続けられても、口笛を吹いてどこ吹く風といった調子。
これだ。メアリから始まり、仲間に連鎖して、やがて大きな火事になる。ほとほと疲れる思いをしつつも、俺はそれを胸の内に飲み込んだ。
「でも」
火事になることを知っていて放っておけば、それはすなわちリーダーの監督不行き届きとなる。俺は仕方なくメアリにフォローを入れた。
「こう何もないと、確かにメアリの気持ちも分かる。貴重な夏の一日を、ただ立ち尽くして過ごすというのも空しいからな」
「そうでしょう!? さすが、アーサーは分かってますわね」
俺という同調者を得たためか、今この時の夏の天空にありし、陽光のごとき金髪と晴れ渡った空のような蒼い瞳を持った乙女は、会心の笑みを浮かべた。
「ですからここは、パーッとお開きにして、繁華街に繰り出すべきですわ!」
「脳まで常夏か、お前は」
しかし、せっかく別方向に盛り上がったメアリの熱を、氷点下にまで下げる声があった。あーあ、と俺が内心で溜め息を付いたところで、誰が俺を責めれるだろう。
実に、スノーレンジャーリーダーなどという役職など、誰かに変わってもらいたいもんである。
「仕事中に、繁華街だと? アホウも休み休み言え」
「……リチャード。死にたいという意志表明なのでしたら、喜んで望みをかなえてさしあげましてよ?」
「女を切るのは主義ではない」
メアリがリチャードと呼んだ、鍛え上げられた細みの長身と豪奢な金髪が人目を惹く青年は、呼んだ相手とは反比例して冷静そのものだった。その態度がカンに障ったのだろう、メアリの眉が、再び危険な角度に傾いていた。
メアリが愚痴ってアンソニーが突っ込み、機嫌を悪くしたメアリにリチャードが止めを指す。そんな光景はもはや日常となっているが、つきあわされるこっちは溜まったものじゃない。まったく、毎度毎度、本当に飽きない奴らである。
「元気だな、二人とも」
しかし、そう捨てた隊員ばかりでもない。そんなメアリとリチャードの険悪なムードに、のんびりとした口調の待ったが掛かる。
「それだけの元気があれば十分、仕事上がりでも一日の元は取れるさ」
「お黙りなさいエリック! これはもう、そういうレベルの話ではっ……」
「まして、メアリは比類なき美人だからな。仕事上がりに動いて、ようやく他の娘たちと恋人を破局させずに済むってもんだ」
メアリがその外見によって、(本人の与り知らぬところで)数多のカップルの男を惑わし、結果破局に導いたこと再三ではない。言外にそのことを含めつつ、エリックと呼ばれた男は笑った。
「真打ちってのは、最後に登場するもんだろう。違うか、絶世の美女さん?」
「……なんだか、わたくしが男を漁りたがっているように聞こえますけど」
「お前さんに、そんな必要はないだろう?」
「当然ですわ! わたくしにとって男など、求めずとも向こうからやってくるものですもの。わたくしは、門の前で無作為な時間を過ごしたくないと、そう申し上げたまで」
メアリは髪を右手で後ろに払い、太陽光にその艶やかな金髪を輝かせた。まったく、“黙って立ってれば美人”という言葉があるが、その言葉をメアリに送りたい。是非。
「さあ、午後の四つ鐘が鳴ってから、大分経つ。そろそろ夜勤の正規兵と交替だ、最後の絞めこそ、気を緩ませずに勤め上げよう」
だが俺はそのことは言わず、手を二度叩いて全員の意識を向けさせ、仕事中の私語をその一言で締めくくり、得物を構え直して市街近辺の草原に意識を集中した。
俺ことアーサー、二十一歳の夏のことであった。
俺の名はアーサー。スノーフィールドという辺境都市で、剣を片手にしがない宮仕えをしている戦士だ。同僚の女魔術師からは「シャンとしてれば男前」とか言われる。それが本当かどうかは自分のことだからよく分からないが、少なくとも普段、シャンとしているように見られていないことだけは確かなようだ。よくもまあそんな奴をリーダーにしておいて平気だなという気はあるが、まあそれは置いておこう。
で、そんな俺が宮仕えしている辺境都市スノーフィールドは、ヴェルスムという国の北方地帯に存在している。
寒冷気候なるヴェルスム王国においてなお、一年の大半は雪に覆われるという極寒の地。雪という寒冷が取り払われるは、夏のみ。ゆえに夏は、スノーフィールドの民草にとっては、黄金の輝きにも勝る特別な季節だ。
スノーフィールドにとっての夏を特別たらしめているもののひとつに、まず作物がある。寒冷なる北の大地の中で一年の大半を過ごしていた作物たちが、夏の輝きを受けて一気に実を結ぶ。この季節に収穫される作物は、スノーフィールドの一年を賄う大切な食糧になるから、いかに大切であるかはそこから推して知れる。
そして、他都市との貿易・輸入品。スノーフィールドにとって、夏は残り三季節を乗り越えるための物資を他から仕入れて、貯蓄する時でもある。それは同時に、原料などの原因でスノーフィールドでは決して生産されない品物が、もっとも新鮮な状態であるということだ。
「か~、この一杯のために生きてますですねぇ!」
「いや、まったくだ。この一杯で生き返る気分だな」
そんな理由で、今、酒場雪見亭で俺を合わせた四名が口にしているのは、他の季節では決して口にすることのかなわない、スノーフィールドでは一年を通して最高の鮮度を誇った酒精であり、食事だった。うまくて当然である。
「ジジくさいですわよ、アンソニー、エリック」
ビールを飲み干し、泡のひげを手で拭うアンソニーとエリックに、しかしメアリが呟くように水を差す。
「それにアンソニー、貴方の本当の目的はアルコールではなくて、えっと……カレーと言いますの? 香辛料シチューかけご飯でしょうに」
「仕事上がりの一杯だって、ちゃんと目的のひとつでありますよ」
この世でもっともうまいビールは、一杯目のビールである。そう公言しているアンソニーであるから、その最高の一杯にケチをつけられ、気分楽しかろう筈がない。
しかしどうしてこう、このお嬢様は何でもかんでも水を入れたがるかな。一緒に食事を楽しめば自分だって楽しいだろうに。
「まあまあメアリ、せっかくの仕事上がりの一杯なんだ。楽しくやろう。……マーゴット!」
俺はそれを見て取り、慌ててウェイトレスを呼んでビールを追加注文し、話を逸らした。まったくこいつらときた日には、ちょっと油断するとすぐにいがみ合いを始めるからかなわない。
「では、改めて」
そんな内心の愚痴は飲み込んで、乾杯、と俺はやや強引に、四人の手にジョッキを持たせて軽く叩き合わせた。
「……まあ、仕事上がりのビールがおいしいのは、確かですわね」
俺の意を汲んでくれたのか、メアリは言葉の鋭鋒を収め、自身も麦の酒精によって喉を潤し始めていた。
メアリは優秀な魔術師である。俺から見て、それは確かだった。だが、時としてその優秀さが、他者への無理解・無慈悲さに直結するきらいがある、とも見ている。メアリにとって、他の人間はクズも同然なのだろう、と。
彼女が、辛うじて同格として扱うのは、自分他俺を含めた四名の同僚だけだろう。才能も容姿も端麗なメアリという完璧に見える玉の、一筋の傷ともいえる点だ。
唯一の救いは、他のメンバーの言うことには大小の差こそあれ必ずといって良いほど何か一言は言い返すメアリも、俺の言うことは存外よく聞いてくれるという点か。ツンケンしたイメージが際立っているメアリも、俺をリーダーとして認めてくれているのは確かなのかもしれない。
しかしそれは逆に言えば俺だけが苦労することになってる訳だが、無論口に出して言うようなことはしなかった。
「皆さん、入荷したてのビール、お味はいかがですか?」
先程、追加注文を受けたウェイトレスが、手が空いたと見えて俺たちの座るテーブルの近くに立っていた。ここ雪見亭の看板娘・マーゴットである。
メアリほどではないが、艶やかな栗色のストレートヘアと、小さな顔に反比例した大きな紫の瞳が見る者の目を楽しませる、なかなかの美人であった。
「サイコーでありますよ、マーゴット」
アンソニーが、そんなマーゴットに微笑んでいる。のはいいのだが、はたから見ると少々締まりに欠けている。マーゴットに思うところがあるのが一目で知れた。
……てかアンソニー、諜報員が他人に表情で気持ち読まれてどうする。
「そうでしょう? そのビールは、町の近郊で醸造されたものをつい今朝方仕入れたんですもの。美味しくないはずないわ」
しかしそんなことは気にした風もなく、マーゴットも陽光を照り返す雪のようにまぶしい笑顔をアンソニーに浮かべていた。
見るものが見ればあらぬ誤解を抱きかねないくらいの笑顔だったが、マーゴット本人の美貌や技能よりも、雪見亭のことを褒められることが、何よりこの栗髪の乙女が喜ぶところであることを俺は知っていた。だから、彼女の笑顔は「サイコー」との褒め言葉に対してであって、アンソニー本人への感情のためではない……多分。
アンソニーが誤解しなければ良いけど、と、本人が知れば余計なお世話であろうことを考えてみる。
「アンソニー。鼻の下が伸びてるぞ」
エリックに言われて、アンソニーは反射的に右手で口元を押さえる。もっとも、この酒場に足を運ぶ男で、マーゴットの笑顔にしかめっ面で返す無粋者がそういはしないことも確かであろうから、アンソニー一人を責めるのは酷というものだろう。かくいう俺だって、マーゴットの笑顔に仏頂面で返事をすることなどできそうにない。
「どうしたの、アンソニー?」
「い、いや、何でもないでありますよ」
首を傾げるマーゴットに、取り繕って答えるアンソニー。
「ええ。アンソニーが女の笑顔に弱い、スケベェな男ってだけですわ」
「ちょ、め、メアリ!?」
「シャキっとなさいな。あなた、情報の専門家でしょう?」
慌てるアンソニーに、メアリは素っ気ない口調で切り捨てる。そんな二人のやり取りに、俺は内心、やれやれと今日だけで何度目かも分からぬため息をついた。メアリにはもう少し、刺を丸くして欲しいと願わずにはいられない。
「メアリ。どうだい、最近は? 雪見亭は繁盛しているようだが」
場の雰囲気を転じようとしたのだろう、エリックが少々強引に話を変えた。
座っていても見上げてしまうような巨体を、巌がごとき筋肉が覆っている。新月の夜空のごとき漆黒の髪と、森林の奥を彷彿とさせる深い翡翠色の瞳が印象的なこの男は、メアリやアンソニーと同様、俺の同僚だ。
エリックの、場を和ませるこういった穏やかな雰囲気に、俺は度々救われている。実際、個性派揃いの自分の部隊で、うまくやっていられるのはこのエリックのお陰と思っている。戦斧を持たせれば隊員随一の剛腕も誇る、二重にも三重にも頼りになる男だ。
俺は、そんなエリックがせっかく話題を転じてくれたのだから、それを機に一気に場を明るくしてしまおうと考えた。しかし、
「もちろん、お店は大繁盛。日々、何事もなく平和で、仕事に忙しい毎日……って言いたいところなんだけど……」
エリックが振った何げないその世間話に、マーゴットが顔を少々曇らせていた。どうやらそのまま、素直に明るく飲み会の続き、とはいかないようである。
「何です? まさか、何かあるですか?」
アンソニーも、マーゴットの顔色に気づいてやや身体を乗り出していた。
「うん……商売繁盛で、忙しいのは間違いないんだけど」
「平和じゃ、ない?」
アンソニーのさらなる問いに、雪見亭の看板娘はしばらくためらっていた。が、
「……うん。これ、アーサーさんたちだから言おうと思うんだけど……店長には、内緒にしてくれる? 知られると、ちょっと説明が大変そうなの」
マーゴットは胸に手を当て、意を決したように語り出した。
酒場「雪見亭」の第二糧食倉庫。酒場からほど近くに離れた地下に存在するその中で、エリックの雄叫びが鳴り響いた。
「つ……オォォォォォッ!」
エリックの雄叫びとは別に、鈍い、硬質な音が立て続けに響く。壊れた扉が、エリックの手によってどかされた瞬間だった。
言うのは簡単だが、実際にやるとなるとそれがいかに大変であったかは、扉の大きさを見れば一目で知れる。扉は金属製で、全長は縦横併せて大人六人分はありそうである。
そんなものが壊れて動かなくなっている状況を、あえて動かしてどかすというのであるから、エリックの腕力がいたほどのものであるか、そこから容易に知れるというものであった。
そしてその余人には真似できぬ剛力こそが、エリックが特殊部隊スノーレンジャーに身を置いている、理由のひとつでもある。
「お疲れ」
「いや、どうってことはない」
俺の労いにエリックは事もなげに言ったが、顔に浮かぶ会心の笑みが、自身の頑健な肉体と腕力とに誇りを持っている証しだ、と俺は内心で微笑んだ。
それにしても、と俺は、改めて周囲を見回す。
酒場の地下倉庫、という名目になってはいるが、実際には使われなくなって久しい第二倉庫とでも言うべき地下空間。本来ならば、こんな場所に誰も何も用などない、筈であるが、依頼主のマーゴットにとっては、そういう訳にもいかなかった。
一応は酒場の持ち物となっていて、そして現在は使われていない地下倉庫に、酒場・雪見亭の看板娘マーゴットは、自分の貯金を使って購入した食材を、店長に内緒で安置しておいたというのだった。
「最近、その地下倉庫で、誰かがいるような呻き声が聞こえたの」
と、マーゴットは告げた。そして、捜索の結果、調べていないのが今エリックが全力で鉄扉の奥だけとなったのだ。
全員でやればもっと早かっただろうが、エリックが一人でやると言い出したのでそのままやらせることにした。純粋に自分の力だけでどこまでやれるか、試してみたかったからだろう。メアリやアンソニーはすぐに手伝うことになるだろうと待機していたみたいだが、俺はエリックが独力でやり遂げることを信じて黙って見ているだけだった。
結果は、見てのとおり。俺の目に狂いはなかった。
「ほーんと、エリック。貴方、オーガーか何かとの合の子でなくて?」
「……他に言いようはないのかい」
メアリの感想に、苦笑しながら答えるエリック。メアリの口の悪さはいつものことで慣れているからだろう、戦闘時以外は穏やかなエリックは、怒るようなことはなかった。
「いやしかしですよ、これは重かった筈ですねー。エリックがお仲間で、私らレンジャー隊は僥倖僥倖」
軽やかな口調と態度で、アンソニー。だが、それが本音であることは間違いないであろう。俺とて、エリックをあえて敵に回したいとは思わなかった。
「良し。エリックのお陰で先に進める。行ってみよう」
その場を取りまとめて、俺は三人に告げた。
~To be continued~