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「どーもッス」
愛敬のある笑顔で礼を述べる小橋絵里。
涼一はため息をついた。中間試験の合間、なにを話しかけてきたかと思いきや消しゴムを忘れたとのことである。自分のものをちぎって渡したことで、どうにか乗り切ることができそうだった。
涼一は試験よりも、二週間後に控える県大会に向けてのイメージトレーニングに集中している。三年生最後の大会だった。200メートル走は後輩の実力者も参加する。ヘタをすると、決勝にすら残れないかもしれない。
隣の席の佐伯いつなは、次の科目である英語に向けて、最後の英単語チェックを行っていた。ほかの生徒も同様で、やたらに余裕のある越知が誰彼構わず話しかけているのを除けば、みんなマジメに試験に取り組んでいる。
涼一は、あまり成績がよくない。
その分を陸上で稼いでいる、といえば聞こえはいいが、要するに体力バカなだけだった。その体力も、相撲部やアマレス同好会の筋肉自慢とは比べるべくもない。
だから速いことだけは誰にも負けたくなかったのだ。せめて走ることだけは。
「おーう、松凪」
寄ってきたのは炎条寺陽之である。
「やっぱ、試験に集中なんて無理だよなー」
教科書もノートも開かずにぼけっとしている涼一を見て、そう言った。
「二人とも県大会出るんだっけ? 弓道部は男子が応援しにいくんだってさ」
藤堂美子が口を挟んできた。
「私の代わりに応援するように言っておく」
「いやいや、女子弓道の応援に行くんだろ?」
美子は首を振ると、
「今年、陸上が大本命だからね。こっちは僻地だし、近場でやる陸上の応援にいくように言われたって」
「んなアホな」
陽之があきれるのももっともだ。自分のところを応援しないようにと通達される部活動など初めて聞いた。
「いや、確か奈良が県大でるだろ」
「奈良君は、だから私たちと一緒。でも応援はやっぱ陸上」
「マジか」
涼一は教室の反対側で奈良星光に目を向けた。英語の教科書に集中しているようだ。
「ま、校長の方針らしいから仕方ないけど」
と、ブツクサ言っているのは納得していない証拠である。涼一たちも気持ちはわかる。
目が覚めた。
涼一はむくりと体を起こす。最近はいつの間にか気絶しっぱなしだ。石造りの壁を見るに、まだ神奈川には戻っていないらしい。
ここはどこか。
やはり堅いベッドから降りると、体の汚れが拭き取られているのがわかった。硬い布地の寝間着のような物を着せられ、床には革の靴が置かれている。
どこかの施設のようだ。
部屋は驚くほど狭く、ベッドの脇に小さなテーブル、それだけで面積の半分以上を占めている。本当に寝るだけの部屋。
壁に学生服がかけられていた。
涼一はしばし考え込んだ後、着替えることにする。衣服ぐらいは元の物を着ていないと、なんだかこの世界に引きずり込まれそうな気がして気味が悪かった。
小橋絵里と余市隆弥はどこだろう。
とはいっても、特に心配していない。涼一がこのような扱いを受けているのだから、二人に命の危険があるとは考えにくい。なんだかんだでフラウスたちは見ず知らずの涼一をサポートしてくれたし、誠実に扱ってくれているようだ。
なぜかはわからないが。
寝間着を脱いで、ふと顔に手をやると、じょり、と髭にふれた。それほど濃い方ではない。が、少なくとも三日はほったらかしだから、ずいぶん伸びてしまっていた。
剃りたい。いそいそとズボンを脱ぎながら考える。先ほどから違和感があったのは、下着をつけていないからだった。
だから、涼一は丸裸にならざるを得ない。
事前に可能性を考慮する必要はあったが、ドアが開いたのはまことに不幸としか言えなかった。
がちゃり、との音に、涼一は硬直する。
相手も硬直する。
メイドが立っている。
うら若き、というより幼い、女の子の、小さなメイドが立っている。手には水差しとコップ。
涼一とメイドは相対している。
念のため再度描写すると、涼一は裸である。
メイドの手がぶるりとふるえて、水差しから水がこぼれた。
「あ、その、」
涼一が何か言おうとしたとたん、耳をつんざく悲鳴が上がった。
飛んできた兵士たちにも裸を見られた。
詰め襟を着込んだ涼一は沈んだ気分のままベッドに座っている。入り口には、先ほどあられもない姿を見られたメイドが。
「申し訳ありませんっ。の、の、ノックもせずにっ!」
先ほどの悲鳴に負けぬ甲高い声が頭を突き刺す。炎条寺陽之に負けぬ大声だ。部屋が狭いので特にうるさい。
「いや、いや、俺の方こそ鍵もかけないで」
「こ、この部屋に鍵はついていないのでっ! まだお休みとばかり!」
そこからしばらくああだこうだと言い合う。話題が自分の裸についてであることもさることながら、それでメイドが客人に対する無礼により処罰云々の話に気が重くなる。
「俺は気にしてませんから」
年端も行かない少女にナニを見せつけてしまった罪悪感の方が大きい。
「あ、あ、あの、お目覚めになったらホワイト将軍のお部屋までお越しいただきたいとのことですので!」
「ホワイト将軍……ああ」
「そそそそれではっ!」
「あ、いやちょっと」
すごい勢いで振り返り逃げようとしたメイドを呼び止めて、
「将軍の部屋、どこですか」
ということで、気まずい中、メイドに案内されて廊下を歩く。無骨な作りで狭いが、ところどころに備え付けられている窓から日光が差し込んでいるので、暗くは無い。
恐る恐るメイドの名前を尋ねると、リュリとの返事。涼一が気絶していた間の世話役だったという。ちなみに彼が眠っていた期間は実に四日であった。
一週間が経過している、という事実に、彼は暗澹たる思いに捕らわれる。家族は心配しているだろうか。彼だけではない、同じく小橋絵里や余市隆弥も、神奈川から消えている。
「コバシ様はホワイト将軍のお部屋にいらっしゃいます。ヨイチ様はお体の具合が良くないので、まだお休みになられています」
あちらこちらを行ったりきたり、階段を上ったり降りたりしている。まさか迷っているのかと疑い始めると、ドアの前でリュリは止まった。
こちらがホワイト将軍の居室です、とのことだ。
「ホワイト将軍、ナギ様がお目覚めです。ご案内しました」
「入れ」
簡素な作りのドアを開けると、教室の半分ほどの部屋だった。十人ほどが囲めそうな机と椅子、その一つに絵里が座っている。窓際には別に一人用の机があって、フラウスが何かを書いていた。
「松凪サン、具合はどうっスか」
絵里がメガネを直しながら、愛敬のある笑みを浮かべる。その顔が妙に懐かしくて、涼一の緊張もほぐれていく。
リュリが部屋を出ていった。
「心配かけてばっかでごめん。なんともないよ、腹も」
絵里は少し反応に困った様子だが、涼一とて同じである。自分の体になにがおこっているのか説明がつかない。
「後で余市サンにも顔を見せてあげてください。その、まだ混乱してるみたいで」
言いよどむ。余市隆弥を見つけたときのあの惨状は思い出したくもなかった。
フラウスの手が止まった。
「体調はいいようだな。食事を用意させている。が、その前に少しだけ時間をくれ」
「はい」
フラウスに促されて座る。彼女は今は鎧も着ておらず、動きやすそうなシンプルな衣服だった。美しい目も、最初に会ったときに比べて幾分か柔らかい。
「まず興味は無いだろうが、砂烈団の掃討が駐在軍によって完了している。協力に礼を言おう」
とはいっても、涼一は敵と戦ったわけではない。
「コバシにはすでに説明してあるが、ここはノルオート城塞というシュミット軍の最北領だ。お前たちをしばらくここで保護する」
頷く。
「ヨイチはしばらく安静にする必要がある。幸い、重傷ではなかった。性的な虐待も受けていない。が、精神的にかなり参っている。私たちにも怯えている始末だ。今のところコバシとしかまともに話せる人間がいない。ナギもできるだけ側にいてやってくれ」
「わかりました」
「それで、ヨイチと接するにあたって注意事項がある。彼の右目を見てはいけない。念のため眼帯をつけているが、隙を見て外そうとするのだ。特に右目が光った場合が決して直視するな。幻覚を見る」
幻覚。涼一は腹をなでた。
「死んでいた砂烈団も、お前も、おそらくその幻覚にあてられて自分を傷つけたのだろう。今のところ世話役にも一人被害が出ている。眼帯をつけているよう、説得してくれ」
とは言うが……その、右目が光り、それをみた者に幻覚を見せるという力など、なぜ隆弥が持っているのか。信じられない。
「お前たちには不思議な力があり、それを認識できていない。それについては、もうすぐ到着する者を交えて検討する。それまでは自由に過ごしてくれていい。だがこの砦に詰める人間の中にはお前たちを知らない者もいる。派手な行動はしてくれるな」
「これから来る人間?」
「ああ。黙っていて悪かった。実はお前たちのほかにカナガワから来た人間を、すでにシュミット城で保護している」
聞き違いかと思い、涼一は首を傾げた。
「カザマ・ライタ」