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その悲鳴には聞き覚えがあった。なんだったかを思い出すのに時間がかかったが、確か去年、聞いたはずだった。
どうやら学園祭の劇で、と思い至った時点で、彼は悲鳴の持ち主が前の席の小橋絵里だと気づく。己の記憶力にはあまり自信がなかったが、小橋の少し年のいったような独特なハスキー声は聞き分けやすかった。確か、劇で悪漢に襲われる町娘だかの役だったはずだ。
となれば、行動すべきは一つだ。
記憶が間違っているかなど疑いもしなかった。蛮族でなく、赤の他人でもなく、クラスメイトが近くにいるという奇跡のような出来事に感謝することで頭がいっぱいだった。
それゆえ、なぜ悲鳴が上がったのかに思いいたるまで致命的ともいえる時間がかかった。
おそらく、運が悪ければ死んでいただろう。
ほとんど全力で森を走っていた涼一は、だしぬけに藪から飛び出してきた影となす術なく正面衝突した。
同時にうめき声をあげた涼一と何者かは、見ているものがいたら笑い転げるかドン引きしてもおかしくないほどに転がった。涼一の方が突進の威力があったようで、つまり影を押し倒す形になる。
影の金切り声が耳元で爆裂し、鼓膜の痛みに顔をしかめる。あまりに距離が近いため逆に誰だかわからない。が、しかし、なんとなく先ほどの悲鳴の主ではないかと思う。
それと同時に殴られた。
いや、殴られたというより張り飛ばされたのだ。もつれ合って転がった二人は、偶然にも涼一が下、相手が上という風な位置関係にあり、また偶然にもほとんど馬乗りのような体勢になっている。俗にマウントポジションという。
そこから繰り出されるビンタが、涼一の顔面を幾度となく襲ったのだった。涼一にはほとんど答えが出ていたが、この調子では相手は全く気づいていない。涼一では思いつきもしないほどの罵詈雑言とともに掌の嵐。
「ちょ、ちょ、こ、こばし、おれ、おれおれ」
この間に一回口内を噛んでいる。計二十発近い攻撃をくらいながら必死でアピールした涼一の声が届いたのか、はたと相手の手が止まった。言うまでもなく小橋絵里である。転がったときだろうか、メガネが半分ずり落ちている。
かなりの近視ときいていた。必死で目を細めてくるが、それでも見分けがつかない様子だ。数秒頑張って、ずれたメガネを左手で直して、
「ま、松凪サン?」
「オス」
誤解が解けたのもつかの間。
「こっちだ! 近いぞ」
と、彼らのほど近くから、聞き覚えのある叫びが聞こえた。
ビクリと体を震わせた小橋は、倒れている涼一にすがりついて……見ようによってはかなり危険な体位であるが、そんなことに気を回す余裕は無い……曰く、
「助けてください!」
涼一はここにきてようやく、聞こえた声が「悲鳴」だった理由に思い至り、戦慄した。
涼一たちが立ち上がると同時に、絵里が現れたのと同じ茂みから、薄汚れた男が現れた。
目が合う。
男が訝しげに首を捻り……そして一つの可能性に至ったと思われると同じくして、涼一も相手の招待を知る。
少し前に涼一を追いかけていた三人のうちの一人だった。
「兄ィ、こっちだ! 二人いやがる!」
図太い、獣の雄叫びのような声であった。体格は優に涼一の倍ほどもあり、ボロの上着から生えた腕は丸太にも見える。あちらこちらに得体の知れない傷跡があり、その一つは左の頬を、首から額まで縦断していた。膨れ上がった筋肉がシャツの下からでもわかる。熊との違いは体毛くらいだ。
彫りが深く、日本人には見えなかった。服装もやけに前時代的である。合成繊維には見えない。映画から抜け出したかのような、それはまさに山賊であった。手にもつのはおぞましき刀剣。
すさまじき大声に気圧された涼一が無意識に下がろうとすると、なにかにぶつかった。絵里だ。
涼一の詰め襟を引きちぎらんばかりに握りしめ、大男から身を隠そうとへばりついている。服を通して、震えているのがわかった。理由は考えるまでもない。
草木が擦れる音がして、新たに二人の山賊が姿を見せる。やはり涼一を襲った二人だ。彼を囲んだ顔に相違ない。
あのときは反射的に逃げ出したため、相手のことなど観察する暇は無かった。だが今となっては、絵里を残して逃げるわけにも行かず(逃げたいのはやまやまだったが)彼女の盾として相対するほかない。
「なんだ、生きてやがったのか」
頭にバンダナを巻いた、吊目の男が言った。大男ほどのサイズではないが、こちらも全身に筋肉がついている。同じ用なボロの服で、腰にはナイフ。兄ぃ、と呼ばれていた。
いったんナイフに手をかけ、しかし吊目はそのまま顎へと移動させた。遠慮なく近寄ってきて、涼一
をねめつけるように観察している。
「得物はねぇ。かといって貴族にしちゃ貧相だ。魔族なら逃げ出すまい……その服も見たことねぇな。てめえら、ナニモンだ」
吊目の男の声は、思ったよりも優しく響く。しかし、それが涼一たちの命の担保にならないことは明白だった。戦力の差は天地ほどにあり、そこから生まれた余裕によるものだ。
だが言葉が通じる。
「……た、助けて。迷ってるんだ。に、日本人だろ?」
「質問してんのはこっちだよタコ。ただの旅人ならムくだけで勘弁してやる。てめえらはどうみてもただの旅人じゃねぇ。だから場合によっちゃ殺す。答えろ、ナニモンだ。どっからきて、どこに行く。目的はなんだ」
やっとのことで言葉を絞り出した涼一への答えはにべもない。
「ロッツ、まだだ」
男の言葉で、後ろのゴリラが動きを止めた。気がつかなかったが、近寄ってきていたのだ。
「おい、こっちも暇じゃねぇんだ」
「……神奈川の明勝高校の、せ、生徒。気がついたらここにいた」
とにかく、自分たちがただの迷い人であることを、どうにか伝えなければいけない、と涼一は考えた。相手がなににしろ、このままでは殺されてしまう。
涼一を落ち着かせたのは、あまりにも異常な状況に白旗を揚げてしまったのと、彼の背中で小さくなっている絵里の存在が大きい。相手をみる限りどんぐりの背比べだが、彼女よりも涼一の方が強いのは明らかだ。守らねばならぬ。
「帰りたいだけなんだ。道に迷って、ここがどこかもわからない」
「迷って、気がついたらここにいた?」
吊目の男は拍子抜けたような顔になって、
「迷っただけだってよ!? ここで! 貴族院のボンクラでももっとマシな言い訳するぜ」
笑い飛ばした。
「う、嘘なんかつかないっ」
「そうかい」
嘘だと思われた理由が全くわからない。涼一がさらに言葉を続けようとしたとき、吊目の男が動いた。
あっという間だ。
男はベルトから引き抜いたナイフを、躊躇なく涼一の肩に突き立てた。
動きがあまりにも速く……対話でなんとかなるかもしれないと根拠なく考え始めていた矢先のことである。
全くの不意打ちに、涼一の頭は追いつかなかった。左肩から感じるはずの鋭い痛みは、やたらにゆっくりと時間をかけ、脳に届く。実際は一秒もかかっていない間のことである。
「いっ……がっ!」
悲鳴を堪えられたのは、やはり背後の絵里のおかげだった。ある種の使命感が、喉を突き破って飛び出しそうになる叫び声を留めている。無様に泣き叫べば、その時点で彼の心は折れてしまう。代わりといってはなんだが、悲鳴は絵里があげた。
尋常ではない。ほとんど根本まで埋まったナイフと肉の隙間から、じわりと血が流れ出し、シャツを赤く染め始めている。
「おめーバカだろ? このあたりに迷い込むなんてできねーんだよ」
男はなぜ断言できるのか。
「ほ、ほんとですっ。う、う、嘘なんか……」
背後の絵里が、ほとんど泣きながら言った。
「ま、松凪君! かた……肩が」
「大丈夫、小橋、俺は……」
大丈夫なわけがない。痛みはすでに痺れと化し、左半身がだんだんと動かなくなりつつあった。そのことが何よりも恐ろしかった。こんな異物が体を貫いているのに、痛くないのだ!
「本当に、本当にただ迷っただけなんだ……助けてくれ。なんでも持ってっていい。俺と小橋の命だけは助けて、くれ」
男がナイフを引き抜いて、涼一はうめいた。異物感がなくなった代わりに、穴のあいた肩から怒濤の勢いで血が流れ出した。
「あのな、はいそーですかじゃすまねえんだよ……しかたねぇ、ロッツ、こいつふんじばれ」
ゴリラ、いや、ロッツが動いた。のそりと近寄ってきた大男は、どうにか抵抗しようとした涼一をあっさりと組み伏せてしまう。つまり、盾をなくした絵里が一人きりになる。
「お、おいっ! やめろ、なにを……!」
「てめえが喋る気になるか死ぬまで暇つぶしだよ、オラ」
動くことすら叶わぬ絵里の髪の毛を乱暴に掴む。また悲鳴を上げた絵里の頬を、殴りつけた。
「うるせえのは嫌いだ。黙っとけ」
「な、なにしやがんだ!」
もがいても、ロッツの下からは抜けられない。ぴくりとも動かない。
「おまえ、女捕まえたらなにするかなんてわかるだろ?」
「やめろって言ってんだ!」
「ロッツ」
後頭部を殴られ、顔を地面に打ち付ける。小石が額を裂き、鼻がちぎられたように痛んだ。
「バルポ、おめーやれ。確かこのくらいのがいいんだよな」
今までずっと黙っていた三人目が、指をくわえたまま頷いた。無言で吊目に近寄り、気絶している絵里を受け取る。
「なんだこいつ、結構いいもの着てやがるな。バルポ、破るな。上等モンだ。高く売れるぞ」
頭がグラグラと揺れる。気絶しかけている中で、バルポと呼ばれた小男が、力なく両腕を垂らした絵里からセーラー服を脱がせようとしているのが見えた。
なにがおこるかなど考えるまでもなかった。
そして涼一はまだ、自身に起こっている変化に気づいていなかった。
上にのしかかっている大男、ロッツが、声をあげた。
「あ、兄ぃ、こいつ」
「ああ?」
戸惑っているようだった。このとき涼一の精神は、自己嫌悪と混乱、痛みに怒り、その他様々な感情が入り乱れ暴走状態にあったため、会話を聞いてはいない。キレていた。なにをいっても聞く耳持たず、人を刺し、組み倒し、あまつさえクラスメートを強姦しようとした連中をどうにかしたかった。それが可能であれば。
「な、なんか、抑えきれねぇ」
可能であれば。
うつ伏せから両手をついて立ち上がろうとした。巨漢にのしかかられていたが、わずかずつ体を持ち上げることができた。いつの間にか左半身の痺れは消えていて、まったく自由に動かせる。
「あ、ありえねぇ。こんなチビが」
「ロォッツ! うるせえ、マジメにやれっ!」
両腕の筋肉がちぎれそうだった。無理もない、彼の上には大男である。だが、動く。油断しているのかわからないが、とにかく動く。
「兄ぃ」
「うるせえのは嫌いだっつってんだろうが! ぶっ殺す……ぞ……」
膝をついて立ち上がろうとする。重い。バーベルでも担いでいるかのように重い。気を抜くとつぶれてしまうだろう。ゆっくりと、倒れないように、体を持ち上げていく。
完全に立ち上がって、荒く息を吐きながら、涼一は吊目を見据えた。
「な……なんだ、ロッツ、なんだそりゃ」
あまりにも重い。大男が押さえ込もうとしているのだろうが、それを振り払うために、涼一は上半身を振る。思ったよりあっさりと重さは消えてしまう。ガサリと、背後でなにかが草むらにつっこんだ。
「ロッツ!」
吊目の後ろに、セーラー服を持った小男と、脱がされた絵里が、
「うわあああっ!」
考えることすらもどかしい。涼一は雄叫びをあげながら吊目へと飛び込むと、なにはともあれ右腕を振りかぶった。
「え、はや……」
男がナイフを動かす前に、涼一の拳が顔面を捉える。感触などわからぬ。妙な軌道を描いてふっとぶ男を見もせずに、彼は小男へと走り出す。
「ぎえっ」
とセミのような叫び声をあげ、小男はセーラー服を放り出した。そのときにはすでに、涼一は懐に飛び込んでいた。先ほどと同じ、右拳で顔を殴る。ふっとぶ小男。
ほとんど無意識だった。その後の行動も同様で、だから涼一にはここの記憶がほとんどない。
彼は絵里との衝突の際に放り出された詰め襟と、脱がされたセーラー服をひっつかむと、絵里の華奢な体を背負い、ともかくここから離れるためによろよろと走り出した。
己がどれほどのことをしたかなど、気づきもしなかった。