庚ノ時: 揺玉(たゆたま)
つん……
指先に丸い透明な球体が揺れる。
波紋を作りながら、淡い光を放ちながら広がり波打つ。
まるで水のように。けれど水のような抵抗はなく、少し柔らかい抵抗と振動が指に伝わり、その固体を揺らす。
ヒトの営みのように。
一度他人と触れれば、どんな些細で何気ないことでも知らずに波紋を伝え、その人の生の厚みとなって残る。その人の心に触れ、震わせ、揺らし、動かす……触れた分だけ。
ヒトとヒトとの邂逅。
それは時間が立つほどに消えていったかのように見えたものでも、水面下の深い無意識の所で残骸となって残っていることもある。
例えそれが個人にとって悪い巡り合わせだと思うものであろうと、その逆であろうと……知らずに。
それがとても深い縁を結んだものなら――なおのことヒトの心を揺るがす。
「揺れて揺れて……揺る揺ると」
小さく囁き、歌を口ずさむ。
それと共に畳の上に転がった透明の玉をつつく。再び小さな弾力と共に波紋を描きながらその玉はゆるりと転がる。
「揺い巡るは環の玉」
それは近くに転がっていた他の透明の玉にあたり、波紋を作り、止まり、他の玉をも揺らした。
その他の玉もそれによって動き、まわりの玉に触れ、また波紋を描き、揺るがす。
「揺るその玉は円を描き、やがて縁を結ぶ」
手を緩く握りしめ、目を薄く開く。
溶けるように揺れる瞳の色。
揺れる玉。
風が吹いたように揺れ、動く。
私を中心に。
そして手元をゆっくり開く。
「波打つ紋は広がりて伝い、時の門となりて波、渡り往く」
ころり……とすべり、手元から畳へと転がっていく透明の玉。
一つ……
二つ……
三つ……
四つ……
五つ……
そして六つ……
転がり出でて、それらはまた他の玉に触れ、揺るがし会う。
「ゆえにその玉――――『揺る玉』、『揺玉』と名付く……か」
そこで私はふっと息をついて少し疲れたように笑った。
目の前に映る景色に、つい弱い表情を浮かべてしまった。
「集めても集めても、まだ足りないなぁ……」
言葉にすると余計切なくなるとわかっていても、愚痴や弱音は言いたくなるもの。
気だるげに横たえていた体を起こすと、私は顔にかかった髪を払ってまわりを見た。
そこには五十以上の透明の玉が畳の上に散らばっていた。
あるものは置いてあった箪笥に当たって転がりかえったり、座卓の下に行っていたり。
自由に、他の玉と離れたりくっついたりしながらそこにあった。
部屋の中心にいる私を囲うように。
五十。
その数字は決して多くない。
言葉にしてみると結構あるかのように思えるけど、この透明な玉――――揺玉はそもそも小さなサクランボくらいの大きさしかない。だから余計少なく見える。
でも大きさだけの問題ではない。
足りないんだ。
あのヒトに会う……いや、様子を見るだけでも。
揺玉を使って、『あの時』のあのヒトを災厄から守るのには……足りない。
揺玉はそんなに『硬度』の高い――強い力を持つサレではない。けれど数多く集めれば、時を遡り、時空を越えることができる稀な能力を持つ石でもある。
庚ノ時のサレ――揺玉。
すなわち、下から三位の『時』系統の能力を持つサレ。
単体としては実際、時を渡るほどの力はない。未来や過去を覗き見、声を伝えるくらい。しかも耳を澄ませていないと聞こえないほどの、声が届くか否か。ちなみに運よくて半分の確率で声が届くけど、言葉は届かない。
それでも声だけでも届くと言うなら、それは大した力なのだろうけど。例えばその過去の人物の注意を引きつけ、訪れる危険から助けることもできるかもしれないから。
私自身が持つ鬼の力を同時に使えば、少し数が少なくても言葉を届けることができる。
単体では数秒しか視れない過去を、一分くらいに伸ばすことが出来る。
ただ……それだけでは駄目。
私の犯した罪。
それは一度始めてしまった……手を出してしまった時点で、後戻りできないものだった。
自らの命が絶える最期まで。
私は、もう、見過ごすことができなくなってしまった。
「視えるのは、ほんの数分。どんどん私の力が削れていくのに……」
私の命。
あとどのくらい持つだろう?
はだけた白い寝間着から露わになった青白い太ももが目に入って、寝間着を整えた。
昔はこれでもお転婆な方で、少し日焼けくらいしたものなのに。
これは、私が罪を犯した代償だった。
「……過去に手を加えてはいけない」
ぽつりとつぶやく。
あの時のことを今でも鮮明に思い出せる。
あれは二年ほど前、本当に偶然で次元の裂け目に迷い込んだ時のこと。
この世界、鬼界は他の異世界との境が少し緩む時がある。それは鏡の向こうの世界だとか、全く違う文化や歴史の所謂『異世界』のみに限らない。時空を越え、時に過去や未来へと迷い込んでしまう、次元の歪みが時折起きてしまうことがある。
実際、私達鬼の間で異世界に迷い込むのは珍しいことではない。
むしろ生きている間で何回か経験すること。まぁ鬼の寿命の三・四百歳の間で、の話だけれど。
ただ『異世界』に紛れ込み、しかも長い間その『異世界』に存在することができる事例はあまりない。過去や未来という『異世界』については非常に稀だ。
もし過去や未来、『異世界』に渡ってしまうと、『狭間の守人』が迷い込んだ者を帰すと聞く。……その世界の辿るべき道を干渉する前に。実際その『守人』の姿を見た者の話は聞いたことはないけれど、迷い込んだ者は基本的にはその世界にとって『異物』だから、障りが起きる前に『異世界間の境界や狭間を守る者』が帰すんだ。本当に奇跡的に、『異物』ではなく『その世界に属する者』としてその『世界』が認める場合は例外だけど。そんなもの、ナユタに一つの可能性だ。
つまり、私は罪を犯したんだ。
『狭間の守人』が私を帰す前に。
私の犯した罪。
それは……
――――『過去に生きる者を、その時死ぬはずだった運命から逃したこと』
私が命を救った相手は、九百年くらい前に生きる――妖狸の男だった。
「……敢えて報いも受けるわ」
一つ畳に転がった揺玉を拾って、念じる。
すると彼の姿が浮かび上がる。
黄金の瞳、亜麻色の髪、光る丸い玉。
「後悔はしてない、よ」
そう言葉にすると同時に揺玉は淡く光って溶けるように消えた。
数秒間経って揺玉はその力を果たしてしまったのだ。
「貴方は『未来』に私へと繋がるから。……そこに私がいなくても『今』へと繋がることができるなら」
そこでふっと私は泣きそうになりながら、彼を想った。
「……ただ、私はずるいかもしれない。『今』の貴方に連絡をしないんだから」
私が生きている現在、彼もまた生きていることを知っている。この鬼界ではなく、隣接する『人の世』で。
もっとも、私を見たことはあっても、どこの誰か知るはずもないのだけど。
なぜなら彼が私を目視できたのは一度、しかも言葉が届いたのは一瞬。
名乗ることすらなかった。
「でも本当は会いに行って、一度でも、名前を……『茱萸』って、呼んでほしいっ……呼んでほしいよぉっ!」
声を抑え、嗚咽を我慢しながら目元にたまる涙を無理やり上を向いて留めた。
私は彼に会いに行けない。会ってはいけない、顔を合わせることが出来ない。
きっと、時を歪めてしまったから。会うと、更に大きな波紋を広げてしまう。
死を覆す禁忌。
しかも今から九百年前の時の運命を変えたことの代償は大き過ぎた。
なにより私はこの二年間ずっと、九百年間の死の運命を覆し続けた。九百年前訪れるはずだった死は、もう一度その行き場へ戻ろうと彼の元へ訪れようとした。何度も、何百も、何千回も。そのあるべき行き先へ戻ろうと、正しい道へ行こうとする『死』を。
それを全て、跳ね返した。
揺玉を集め、または作って、自らの鬼の力を消耗して……命を削って。
「ふふっ……神様って本当にいたんだね。あぁ、『神様』って言う『生き物』と言った方がいいのかな。その神様の仕事を邪魔をすることは――死神の手を押さえるって言うことは、本来あるべき『死』の行き場を失くさせたってことだから。阻んだってことは、死神から、その『死』を『導く』資格を、主導権をこちらに移すってことだから。私は失った『死』の行き場を『処理』しなきゃいけなくなった。そんなこと、『神様』でもやっとなのに、私がどうにかできるなんて言えたことじゃない」
時の歪みはもう、数え切れないほど押し寄せ、私の体や命、そして運命や精神を蝕み続けた。
二十歳も生きていない、鬼にしたらまだ赤子程度の私だけれど確実に、近く死が足音を立てて近づいているのが聞こえる。
何度辛い、寂しい、哀しい、嫌だと思ったことだろう。
簡単に自分の死の訪れを受け入れることなんてできない。本来なら長命な種族だと言うなら尚更。
それでも彼が、生きて幸せに過ごせていればそれでいい。
そう思ってしまったから。
例え、そのせいで……その歪みの代償に誰かが犠牲になったとしても。
それにもう引き返せない。
「……私が揺玉を作るのは、その犠牲に対するせめてもの償い」
お兄様やお姉様、お父様達に揺玉を作ることを止めさせられそうになったこともあった。
揺玉は、時の歪みを和らげる作用をも持つ。
元は時の歪みを発生させずに過去や未来を見せる力を持つがゆえに、その存在だけで次元や時の歪みも和らげることが出来る。
けれど。
自然発生するものの、この石はなかなか見つけにくい。とすれば自らの力で作りださなければならない。けれどサレとは元来、生命力又は命の結晶。例え力が下から三位のサレだとしても、何万何億と作れば強い鬼の私でも膨大な生命力を対価に捧げなければならない。それに加えて、時を歪めた代償もある。結果私は寿命が急激に縮むほどの代償を払わなければならない。
「……」
私は畳の上に転がっていた揺玉を袋に集めると、襖の所へ歩みよって開いた。
そこには硝子瓶が二十余り、ずらりと並んでいた。中には揺玉がぎっしりとつまっている。
定期的に、私は『彼が生きている過去』へと揺玉を散らしている。
それは彼の死を覆すためのものではない。『彼の死』は今集めた揺玉とは別の、何百という揺玉を使って、毎回私が持つ特殊な鬼の力で覆している。
今集めたものや溜めている分は、『時の歪み』を和らげるもの。
それでも足りない。
足りることはない。
そんな簡単なことで、全てが丸く収まることなんてないのだ。
例え神様に頼んだって……。
「……はぁ」
そこまで考えて私は思考を止めた。
「ずっと落ち込んでるのも私らしくないわ」
そして顔を上げる。
決して自分の犯した罪は軽くない。『狭間の守人』は『世界に歪みをもたらす者』を許さない。きっと時が来れば、『守人』は私を『鬼界』から断ち切るだろう。つまり『歪み』を和らげることができなくなった私を『この世』と言う『世界』から切り離しに来る。
でも。
「やってしまったからには足掻いてみせるわ。最後まで」
ふっと笑うと私は誰ともなくそう告げた。
始めのような疲れた笑みではなく、運命に立ち向かう意思を持った強い笑みで。
「揺れながら揺れ続けながらそれでも私は私で有り続ける」
後悔なんて、私はしない。でも私は決して強くはないから、弱気になって辛くて泣いてしまうこともあるかもしれない。それでも罪を背負いながら、代償を受け入れましょう。
そして挑み続けましょう、運命に。
「ねぇ、貴方もそうでしょう? 揺玉?」
畳に一つ転がっていた透明な玉を拾いながら私は囁いた。
淡く光るそれは、私にうなづいてくれたように見えた。