癸ノ水: 氷片(ひかた)
ぴちゃん……
水が滴り落ちる音があたりに響く。
静寂な空気を揺らす軽やかな音。
風が吹く。
再びつるりと水が滑り、水面に落ちた。
それは波紋となり、幾重もの円を描き広がっていく。その後に続き三度水の粒が落ち、水面を揺らす。増え広がる大小の円、お互い重なり模様を作っていく。
一定間隔に落ちていく雫は水面を描く。
まるで遊ぶように、踊るように。
不意に影がその水面に落ちる。
すらりと伸びる白く細いむき出しの足。
音もなく、水面に触れる。
するとまたもう片方の足が伸びる。そして水面に触れる。
一歩また一歩と滑るように動く足は円を描く。
揺れる円。広がる輪。他の円と重なりながらも広がることを止めない波紋。
それは水面の淵にまで広がっては跳ね返り、水面に模様を彩る。
すると歩いていた足はぴたりとその動きを止めた。
見るとそれは水面の中心のようだ。白い足の主のまわりはいまだに水が降り注ぐ。優しく輪舞を踊るように軽やかに。
しばらくして白い足の主はしゃがみこみ、細い手を水面に伸ばした。そしてゆっくりと両手を沈める。
透明に煌めき、鏡のように映し揺れる水面。
足は沈まず、手だけが水の中へと落とされる光景。
水面は小さな湖だった。決して浅くはないが、小さな子どもの背丈ほどの深さはある。木々に囲まれた静かな空間。
すると再びゆっくりと手は水の中から出た。両手をお椀のような形にした中には透明な水が少し揺れている。
それを手の主は大切そうに口元へと運ぶと喉へ流しこんだ。
そして立ち上がると顔を上げた。
凍った水面のように冷たく凛とした瞳。
一つにくくられた流れる水のような黒髪。
無表情に結ばれた桃色の唇。
そこにいたのは二十歳前後くらいの女性だった。
ぴちゃん……
下ろされた彼女の指先から水滴が水面に落ちる。
それにつうっと視線を滑らせる彼女。両手は濡れているものの、ジーンズの短パンから見える彼女の足はまったく濡れていない。長袖の白いシャツも。彼女の羽織った碧色の振袖のついた羽織にも。
「氷片」
女の口から透明な声が響く。
その声に反応するように水面が淡く青に光る。落ちる水滴も、彼女の指から落ちる水の粒も。
「……」
そして目を細めると彼女は足を踏み出し、ゆっくりと手を広げながら回った。
くるり
なにも音律もなく、作法もなくただ円を描くように踊る。追いかけるように。
くるり
伸ばした腕から碧の振袖も円を描く。
なおも落ちる水滴と戯れるように。
増える円。広がる波紋。重なる輪。
淡く光りながら湖面を描き彩る円と水滴。
そこに水面落ち、跳ね上がった水滴の一つが淡く光りながら宙に浮かび上がって来た。それは彼女が踊り通るたび一つまた一つと増えていくようだった。
波紋が広がり、水滴が落ち、女が踊り、水滴が跳ね、淡く光り、浮かび上がる。
丸く、淡く透明に光る水滴――――否、石が生まれては揺れて彼女と共に戯れる。
湖面に浮かぶ水の石。
それが浮かび上がる前に、一つ湖面から零れて湖のそばに生え青い草へと落ちる。まるで水滴のように。
いくらの時がたったのだろう。
「一青」
穏やかなで静かな低い声があたりに響いた。
それにそれまで踊っていた女が動きをぴたりと止め、振り返ると面倒くさそうな雰囲気を露わに不機嫌な視線を送った。
「……水填目の」
「またここに来たか」
彼女が水填目と呼んだ者――それは彼女、一青と同じくらいの少年だった。整った顔立ちをした、水面のような瞳を持つ彼はため息をつきながら見ていた。
彼の言葉に彼女は冷たく睨む。
まるで手のかかる子どものように言う相手。彼がここに来た理由を彼女は知っていた。そして彼も彼女がここに来る理由も知っているはず。それなのにもかかわらずこの態度に彼女はイラついた。
静かな場所、綺麗に光る湖。
この静けさの中で息をつきたかっただけなのに。
そう口から出すのをすんでの所で止め、彼女は彼から顔を背けて宙を睨んだ。
そんな彼女の様子を特に気にとめる様子もなく、ただ彼は彼女を見ていた。しかし不意に彼女の周りに踊る水の石に目をとめ、目を一度驚きに開き瞬いた。
視線をさ迷わせそして感慨深く湖の淵にたまった淡く光る石を見る。
「……こんなに氷片が」
水填目の口から言葉が零れる。心なしか、笑みを含んだそれ。
「ここは、溜まり場なの。水気の。大したことないよ」
顔を背けたまま、彼の言葉に一青が答える。「氷片」と呼ばれた水滴のような淡い光を放つ石を掴みながら。今の彼女は凪いだ水のように静かな瞳をそれに向けていた。
彼女の言葉の意味。
それは「氷片」を作ったことであった。
彼女らが存在する世界、そこは人の世界ではない。魂や気持ちが形に成ることが出来る、彼ら鬼の世界。
鬼の世界――鬼界には「礇石」と呼ばれる石がある。
それにはそれぞれ種類があり、形状も色も違うが共通して不思議な力を持つ。
十段階に分類された「礇石」の中でも「氷片」は一番下位の力を持つ。水の気がそこにあれば自然に発生する、とてもありふれた代物。確かにこの場にある「氷片」の量は多い。それを多く発生させたのも一青だろう。「礇石」は鬼が自らの気を使って作りだすことも出来る。しかし大したことはないのだ。他の「礇石」に比べれば、なんのこともない。
一青は力を込めて氷片をつまんだ。そしてそっと目を閉じる。するとそれは淡く溶けるように砕け、その欠片が一青の回りを包み光って消えた。少しの潤いと爽快感を彼女に残して。
ものに潤いを与え、少しの回復、邪気を払う――――それが「氷片」の力。
「一青、あの方がお呼びだ」
再び呼ばれ、目を開け声の方を見ると、水填目が彼女を見ていた。現実に戻された一青は忌々しそうに吐き捨てるように言った。
「……私は西家の爺に用はない」
「大事な集まりだ、『一青の輝石』が呼ばれている」
その言葉に自嘲の笑みを浮かべる一青。
『一青の輝石』。それは彼女の二つ名のようなものだった。そもそも「一青」と言うのは彼女の苗字だ。厳密に言うと鬼には人で言う苗字と言うものはない。家族をさす名前はなく、その鬼自身の名前があるのみ。しかしその鬼が所属する集団としての名と言う意味では「一青」は「苗字」なのだろう。ただ「家族」としての名ではなく、「役職」が苗字となる。
彼女が彼を呼ぶ「水填目」と言う名もそれだ。
『一青の輝石』。
それは彼女が「一青」という集団の重要な位置にあることを示す。
しかし彼女にとってそれは面倒で仕方がないことだった。へたに能力を持ってしまったばかりに、「一青家」の「長」として選ばれてしまったのだから。
「一青」
なおも名を呼ぶ水填目に彼女は苛立った。
普段仕事の時以外、鬼は互いを「苗字」ではなく鬼自身の名前で呼ぶ。
彼は彼女の名前を知っているし、短い付き合いでもない。
なのに彼女の嫌う「苗字」で呼ぶのだ。
「……所詮、私もこの氷片と同じく、一つの粒のように取るに足らない存在でしかない。なにも変わりはしない」
苛立ちをぶつけるように低い声でそう一速に彼女は言った。
しかし。
「取るに足らないことはない」
いつの間にそばまで来ていたのか、目の前に彼はいた。
真っすぐ彼女を見つめる彼。
「何一つとして」
強く芯の通った声で言う彼に彼女は目を見開いた。
不意に彼は彼女のそばにある氷片を掴むとそれを手元で転がして見た。淡く光る透明な石は小さいながらも輝きを放ち、彼は目を細めた。
「私はとても尊く――」
そこで彼は石から彼女へと視線を向けた。
「――綺麗だと」
柔らかい笑みを浮かべながら。
「……惜しげもなく恥ずかしいことを言う」
うつむくと彼女は額に手を当てて、眉間にしわを寄せながら疲れたように言った。
「何か?」
「……いや」
顔を上げると不思議そうな表情を浮かべる彼。あの笑みは一瞬で、普段どおりの何食わぬ顔になっている彼。思えばこういう奴だったと彼女は思い返した。
そして冷めた顔で息を吐いた。
「……仕方のない」
水填目はそれにうなづくとそばに立つ一青の手を握った。
「では『水填目』の任をさせて頂く」
その言葉の直後、片足を少し上げると彼は足の先で水面を軽く蹴った。
すでに水滴が止んだ湖面に大きな波紋が淡い光と共に揺れる。そして水に溶けるように彼らはその場から消えていった。