水面に映るもの
「涼しいな……」
蝉の声が遠くから響く。八月の真昼、俺たちは山奥の湖に来ていた。観光地でもなんでもない、人里離れた静かな場所。地元では「決して泳いではならない湖」と言い伝えられていたらしいが、俺たちはそんなの気にも留めていなかった。
湖は鏡のように穏やかで、太陽の光を受けて青く輝いている。水面を覗き込むと、自分の顔が映り込んでいた――はずだった。
「……え?」
水に揺れる顔が、俺ではない。瞳の色が異様に暗く、口元は笑っている。背筋が凍り、慌てて顔を上げたが、周りには友人たちが騒いでいるだけで誰もこちらを気にしていない。
「どうした、顔色悪いぞ?」
「……いや、なんでもない」
その時は、そう答えるしかなかった。
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夜。湖畔にテントを張り、焚き火を囲んでいた。涼しい風が吹き抜け、波音が耳に心地よいはずなのに、俺は昼間の光景が頭から離れなかった。湖の水面に映った“別の顔”。それがずっと、背後から覗き込んでいるような感覚が消えない。
「なあ、この湖、昔から変な噂があるんだって」
一人が話し始めた。火の粉が舞い、闇がゆらめく。
「夜中に湖を覗くと、自分じゃない誰かが映るってさ。そいつに見つめられたら、二度と帰れなくなるんだと」
笑いながら語る友人を横目に、俺は息を呑んだ。心臓が強く打ち、背筋に冷たいものが走る。――あれは、やっぱり幻じゃなかった。
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真夜中、喉の渇きで目を覚ました俺は、一人で湖へ向かった。月明かりに照らされた湖面は、昼間以上に静まり返っている。水筒に水を汲もうと屈んだ時、また水面に顔が映った。
今度ははっきりとわかる。映っているのは俺じゃない。蒼白な肌、真っ黒な瞳、口元には笑み。そいつは俺の動きに合わせて動かず、ただ“見て”いた。
(やばい……)
後ずさろうとした瞬間、水面の“それ”がゆっくりと口を開いた。
――カエレナイ。
耳に届いたのか、頭に響いたのかもわからない。心臓を鷲掴みにされたような感覚と共に、俺は後ろへ倒れ込んだ。その拍子に足が滑り、湖へ落ちる。
冷たい水が全身を包み、視界が泡で覆われる。必死に水面へと手を伸ばすが、何かが足を掴んだ。暗闇の中、無数の白い手が水底から伸び、俺を引きずり込もうとしていた。
(ダメだ……助け――)
口から泡が零れ、肺が焼けるように苦しい。最後に見たのは、水面に映る俺の友人たちの顔――いや、違う。すべて“あの顔”だった。黒い瞳で、笑っていた。
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翌朝、友人たちは俺がいないことに気づいた。湖畔には足跡が残っていただけで、俺の姿はどこにもなかった。湖面は鏡のように静まり返り、ただ澄んだ水に夏空を映していた。
だがその水面には、誰もいないはずの俺の顔が、にやりと笑って揺れていた。




