張飛は孔明にムカついてる
私は三娘。張飛益徳の妻ですわ。
益徳さんが三十四歳で私を見初めたときは私は十四歳で二十も歳が離れておりました。
益徳さんは義理の兄である劉備さまの家臣でして、当時は敵対勢力の曹操さまより逃亡中で、その勢力圏内におりました。そこで私たちは愛を誓い合って荊州まで落ち延びたのです。
ちなみに私は曹操さまとは親類の間柄。私の父は名将夏侯淵伯父さまの弟ですの。
ちょっとややこしいですが、まず曹操さまのお父様は夏侯家から曹家に養子に出ておりまして、私の祖父とはご兄弟ですから、私は曹操さまから見れば従兄弟の子というわけですの。
そんな私は益徳さんに惚れて荊州に来たのですが、曹家と夏侯家の親族たちはどうやら私が益徳さんに無理矢理さらわれたと思っているみたいなんですの。
曹家と夏侯家の絆は深く、決して切れないと自負しておりますから、私が敵の元にいることがどうしても耐えられないらしく、最近でも戦争がありました。我が軍が勝ちましたが、これからに備えるために、三度も庵に出向いて軍事の先生をお迎えしたのです。
そのかたが、伏龍と呼ばれる諸葛孔明先生ですわ!
孔明先生が来てからというもの、兄者さん……つまり劉備さまは、朝昼晩と孔明、孔明とやるものですから旗揚げ時代から兄者さんにくっついてる益徳さんと関羽さんは面白くない。
さすがにくっつき過ぎだと兄者さんに抗議に行ったらしいのです。しかし、益徳さんたちは兄者さんに、「孔明を得た俺は水を得た魚なんだ。お前さんたちも孔明を嫌わないでやってくれよう」とこうこられてそれ以上はなにも言えずにすごすごと帰ってきましたがやはり面白くない。
今日も益徳さんは、家の中でくだをまきながらお酒を飲んでました。
「あー、もういかん! 何が水を得た魚だ、こんちくしょう!」
「益徳さん。飲み過ぎたらダメよ?」
「なんでぇなんでぇ。今まで兄者の命を守ったのはオイラなんだい! 呂布に追われりゃ肩に担いで逃げ、徐州で曹操に囲まれりゃ脇に挟んで逃げ……」
「逃げてばっかりじゃない」
「と、ともかくよ! オイラは兄者の一番じゃなきゃいけねぇ。なんだあんな若造。オイラより二十くれぇ若ぇじゃねぇか」
「あら私も二十も若いのよ?」
「そ、それとこれとは話が違わあ……」
「大丈夫よ。兄者さんは益徳さんを一番可愛い弟だと思ってるわよ」
「そうかなぁ」
「自信ないの?」
「……もういい。オイラ、寝る」
立ち上がって寝室に行く益徳さん。なーんか可愛い。あんなに豪傑なのに、兄者さんのこととなるとてんで気が弱いんだから。
◇
ところがその数日後。ここに曹操さまの軍が攻めてきました。寄せ手の大将はなんと族父の夏侯惇さま。兵数は十万。我が軍には三千の兵しかおりませんでした。
孔明さまはどうするのかしら? ドキドキだわ。
城に集まった各将たち。益徳さんを前に据えて孔明先生とにらみ合いですわ。これでは軍議になりゃしない。
十万と三千では孔明先生の力がないと勝てないのに。
その孔明先生に対して、旦那の益徳さんが凄みます。
「オイラたちはこの腕で、今まで城を守ってきた。ここに控える連中は一騎当千のやつらばっかだ。お前さんの小賢しい計略などなくても簡単に勝てる」
「いけません張飛将軍。将軍が三千の兵を率いても一万の兵を率いても、ことごとく曹操の虜となりましょう」
「なんだとう!? だったらこの城で防戦するまでよ。城隍を高く深くすりゃ、十万の大軍はすぐに腹をすかして退却だ!」
「曹軍の国力はこの城の千倍、万倍。籠城などすれば先に食糧が尽きるのはこちらのほうです」
「ふん! 何を言いやがる! みんな見ろ!」
そう言って益徳さんは腕を高々と振り上げました。
「歴戦のこの腕を信じるか!? それとも戦が未経験の先生の細腕を信じるか!?」
そう叫ぶと、一堂、みな益徳さんの名前を呼んで拍手喝采です。しかし──。
「だまらっしゃい!」
そう叫んだのは孔明先生。一堂シンとした後、眉を吊り上げて一斉に孔明先生のほうを睨みました。
先生は羽扇で仰ぎながら益徳さんの前に一歩でて詰め寄ります。
「それほどおっしゃるなら将軍のお得意な力比べを致しましょう」
またもや水を打ったような静けさ。その後に割れんばかりの爆笑。みんな顔を真っ赤にして笑い転げたのです。
「ひーひーひー。なにをバカなことを。お前のような喧嘩もしたことのない弱卒が、この曹操も恐れる燕人張飛に敵うもんかい!」
そこに兄者さんも青い顔をして先生に尋ねました。
「こ、孔明。大丈夫なのか? 意地になってしまったのか? 今なら止めれる。張飛相手だ。止めておけ」
と仲裁する始末。しかし孔明先生は涼しい顔をして扇で顔を仰ぎました。
「いえいえ我が君。私はこう見えても力持ちなのです。私が負けたらみなさん言うことを聞かなくて結構」
それを聞いて益徳さんはまたもや大笑いしました。
「かっかっか。いいだろう。それで決まりだ」
「では場所を中庭に移します」
そう言われて、劉備一家の化け物のように力のある連中はゾロゾロとついていきました。
そして中庭に到着。余裕気な益徳さんに対して先生は言いました。
「よいですか将軍。私が負けたら私の作戦は聞かなくてもよろしい。ですが私が勝ったら、必ず作戦を聞くのです。よろしいですね?」
「ああ。当たり前だ。かまわない」
そう余裕気に言って益徳さんはニヤリと笑いました。そこに先生は続けます。
「今からものを投げます。遠くまで投げれたものの勝ちです。私は強すぎるので重いものを先に投げます。将軍は軽いものを後から投げたらよろしい」
「なに? お前より軽いものだと? はっはっは。気でも狂ったか!?」
「その条件でよろしいですか?」
「ああ構わんよ」
「私が投げるものを決めますがよろしいですね?」
「構わん、構わん」
孔明先生は羽扇を床に置いて、両手に抱えるほどの石を持ったかと思うと、ポンと放りました。それはそれほど距離も飛ばず、すぐさま落下したのです。
その滑稽なさまを見て、またまたみんな大笑いでした。先生は肩で息をしながら振り返ります。
「はぁはぁ。次は張飛将軍の番です」
「ほう。投げるものはどこにある」
孔明先生は笑顔になって羽扇を拾い上げると、そこから小さな羽を一枚抜き取って益徳さんに渡しました。
「こ、これは……」
「どうぞ。軽いものです」
「し、しかしこれでは」
「将軍。約束を決めた勝負中です。あなたは条件に従わなくてはなりません」
先生の声に一堂ゴクリと唾を飲みます。その羽は本当に小さいもので、キッチリ摘まめば汗で粘ついてしまいそう。益徳さんは羽が汗で濡れないように爪と爪で挟んで、そこに力を入れて大きく振りかぶって投げ放ちます。
しかし放った白い羽は、ツンと上に舞い上がったかと思うと、クルクルと回転しハラリヒラリと益徳さんの後ろに落ちてしまったのです。
それを見届けた孔明先生、羽扇で顔を一仰ぎして一言。
「哇啊」
「くう……」
益徳さんは悔しがって膝をつき、羽を拾い上げます。
「くぬぅ。卑怯だぞ」
「卑怯? 将軍。勝負に卑怯もなにもありません。あるのは生きるか、死ぬか。死んだものは卑怯などとは言えません。曹操は私たちを殺すために卑怯な策略をもって攻めてくるのですよ! 私たちは生きるために勝たなくてはなりません。兄弟と親しんだ友人たち、妻や子ども、良民たち。それらを守るため! 生きるための策略を使うのです!」
筋肉ダルマの家臣たちはみんな下を向いてしまったところに兄者さんが仲裁に入りました。
「益徳よお。それからお前らも……。いくら孔明に知恵があるからと言っても、お前らがいなくちゃ十万の大軍には敵わない。どちらも欠けちゃいけない。劉備一家にゃどっちも必要なんだよ!」
力自慢の武者たちは下を向いてその話を聞いておりましたが、先生は羽扇を振り上げ天を指し、声を張り上げます。
「籠城は逃げ場なく敗けの延長をしていたずらに民を苦しめるだけ。ですから野戦にて迎え撃つ。戦場は北に九十里の博望坡。博望坡は左右に山と森に囲まれた細長い坂道である。関羽と張飛はそれぞれ千の兵を率いて伏兵をしてもらう。敵が半ば過ぎたら二将はその横腹を突いて敵を三つに分断し、小さくなった部隊を討つ!」
その言葉に各将はどよめきました。
「趙雲は五百の兵を率いて敵の先頭と戦って貰う」
「おお。この趙雲、寡兵にても必ずや武功をたてて見せます!」
目をキラキラさせた情熱的な趙雲さんの胸を先生は羽扇で制します。
「……どうもみなさんいけませんな。これは駆け引きです。趙雲の役目は敵を引き付けて敵軍を細く長く引き込むこと。ですがその情熱で戦って貰えば夏侯惇は寡兵と侮って必ず追撃してくることでしょう」
「追撃させることが役目なのですか?」
「そう。十万の兵が逃げ場のない細い道で関羽と張飛に分断され、先頭は趙雲に騙されて敵地に深く入り込む。そこに劉封と関平が一隊を率いて中軍に対し火計を仕掛けるのです。これで十万の兵は瓦解します」
「「「おお!!」」」
先生はさらにそれぞれ一騎当千の将たちに寡兵を預け、要所要所に伏兵の指示と軍需物資を奪う指示です。
それに一堂唸ったところで作戦開始となります。みんなそれぞれ兵を率いて戦場へと向かいました。
◇
作戦は見事に当たりました。曹軍は分断され一つ一つが小隊となったところに一騎当千の将が率いた兵が突入してくるのです。
大混乱になったところを火薬の入った干し草に火をつけられ知らない土地を右往左往。
さてそんな大混乱の状況に、関羽さんが突入。もはや曹軍は涙目の戦意喪失。
で──。
ですね。そこでですよ。我らが主役、私の旦那さん、張飛益徳の登場です。
逃げ惑う曹軍の前に、藪の中から馬の嘶き。そこからぬっと出たのが八尺の偉丈夫。
曹軍を見遣るとニカリと笑って雷のような轟音一声!
「我こそは燕人張飛なり! 命が惜しくないならかかって参られよ!」
はい、カッコいい。どこからどう見ても戦国イケメン。自慢の一丈八尺の蛇矛をグングン音を立てて振り回して、あっちをグサッ! こっちをグサッ!
みんな蜘蛛の子を散らすように逃げていき、辺りには人っ子一人いなくなりましたという話です。後ほど、部下のかたが興奮して話してくださいました。
まあ結果はわかっていましたけどね!
夏侯惇さまを始めとする諸将は悔しがって退却するしかありません。我々劉備一家は残された莫大な兵糧と軍需物資を手に入れて城に戻って来たのでした。
みんな意気揚々と自分の戦功を自慢しながら城に帰ってきました。そこに使者が我が家に来ました。
一体なにかと思いますと旦那からでした。なんでも、みんなの労をねぎらうため敵から奪った軍需物資からの食糧、酒で宴会を開くので、手伝いに来いとのことでした。はいはい。それなら女の仕事ですわよね。
私は子供の世話を乳母に頼み、動きやすい格好にたすきを巻いて使用人を数名つれて城に向かいました。
そこには各武将の奥様方と使用人もおりました。兄者さんの二人の奥様とお妾さんまで。
「姐さんがたこんばんわ!」
「あら三娘、あなたも来てくれたのね。子供が小さいのに助かるわ。じゃ始めちゃいましょう」
「はい!」
みんなで分取り品の軍需物資を見に行くと、すごい、すごーい。
兵糧は量が多すぎてよくわからないけど、うちのお城にある十倍くらいあるみたい。
それよりもお酒よ! なんと五十甕! 姐さんがたは甕を一つ開けて匂いを嗅いで目を閉じました。
「やばい。バカどもにはもったいない美酒だわ」
そこにどやどやとその『バカども』がやって来て、自慢の力で甕を担いで行きました。益徳さんはニコニコ笑って二つ脇に抱えてる。いやその力、大したもんだ!
私たちは使用人に混じって肉を切り、魚を切り、野菜を切って、粉を練ったり、焼いたり、烹たり、蒸したりと大忙し。やっと落ち着いて姐さんがたとようやく美酒にありつきました。ふう。
終わってみて、城内に旦那の姿を探すもいつもの仲間の群れの中にはおりません。
どこかで穴に落ちたりしてても大変なので立ち上がって探しますと、徳利と茶碗を二つ持って誰かを探して居るようでした。ひょっとして私? いや私の場所は知ってるわよね?
えーきーとーくー!
お前、女かよ! 私が十四のときに女にしておきながら、内緒で妾でも囲おうって魂胆か!? 兄者さんにそこは似なくて良いんだよ!
私は尻尾を掴んでやろうと後を追いました。アイツ、もしも女だったらただじゃおかないわよ!
壁や柱に隠れてバカの後を追うと、灯りのある城の一室の前で立ち止まっておりました。そして一呼吸を置くと、中に声をかけているようです。
中の声に入って良い許可を貰ったようで、頭を下げて扉を開け、その場に跪いたので、これはただ事じゃないと私は益徳さんの元に急ぎました。
益徳さんはまるで使用人が主人にするように土下座をしてその部屋の主に話し掛けたのです。
「兵卒の張飛でございます……」
私は唖然としました。こんな益徳さんは見たことがない。いつも自分の武に自信を持ち大声で笑い、時には子供のようにはしゃぎまくる彼が、こんなにしおらしい姿をしたことがあったでしょうか?
部屋の主は慌てて駆け寄って、益徳さんの前に跪いて起き上がるように懇願しました。
部屋の主は孔明先生だったのです。
「どうか将軍、おもてをお上げください」
「いいえ、先生。オイラは穴があったら入りたいくらいです。万座の中で先生をバカにし、喧嘩を売った。ですが先生の作戦を見て思いました。我々は今まで戦いかたを誤りました。こんな鮮やかな戦をオイラは見たことがありませんでした」
そう言ってまた土下座です。私もつい一緒になってそこに土下座して孔明先生に謝罪しました。
「先生。夫は直情的で短気です。先生の深いお心を知らずに不快に思わせたことと思いますが、根はいい人なんです。どうか今宵の勝利に免じて今までのご無礼をお許し願えないでしょうか?」
「さ、三娘。お前──」
私たちは夫婦して床に頭を擦り付けると、頭の上からクスリと笑い声が聞こえたのでガバッと跳ね起きました。
先生は益徳さんの肩をポンと叩いたのです。
「将軍。あなたは運のよいお方ですね。そしてこの私も」
「は……?」
私たちは何事か分からずにそのままの姿勢でいると、先生は続けました。
「ははは。我が君と巡り合い、よき妻を得たということですよ。そして私も。我が君の元に来て、将軍や諸将と巡り合いました。こんな幸運はありません」
そう言って先生は私たちに向けて目配せをしたのです。
益徳さんは真っ赤に照れて、すぐさま近くに置いていた徳利と茶碗を取りました。
「じ、実はこの張飛、我が軍の先生と共に酒を酌み交わしたく参上致しました! どうぞお受けください!」
膝をついたまま、またもや先生に懇願すると先生は益徳さんの手からお茶碗を受け取りました。それに益徳さんは涙を流しながら顔を上げたのです。
「将軍。こちらの席へどうぞ。豪傑張飛と共に酒が飲めるなど、これ程光栄なことはございません」
「あは……」
益徳さんが席に向かう途中、大きく洟を啜るおとが聞こえました。そして先生の対面にどっかりと腰を下ろし、互いに酒を注いだのです。
私はこれ以上ここにいて、美酒に水を注してはいけないと、部屋からそっと出ると何かにぶつかって倒れました。
「あいや、大丈夫か? 三娘」
顔を上げると兄者さんと関羽さんで、手には同じように酒瓶を下げております。
「益徳を探してるんだ。兄弟で今日の勝利を祝おうと思ってな」
「あ、あのう。主人なら孔明先生の執務室に──」
「おやなんでい。もう仲良くなったのか。見てみろよ。あの燕人張飛が小さく見えらあ。やいやい益徳う!」
そう言ってお二人は執務室へと入っていきました。私は何か楽しい気持ちが胸の中に溢れ出しそうになって、胸を抑えました。
「おや。夏侯氏。こんなところでどうなされた?」
声に振り替えると、そこには趙雲さんが同じように酒瓶を抱えてきていたのです。
「趙雲さんもうちの主人を探しに?」
「ええ。主なかたがたに酒を注いで回っていたのですがね、張飛将軍と孔明先生にまだ注いでいないと思い立ちまして、こうして探しておった次第です」
ま、真面目かよ。私は孔明先生の執務室を指差した。趙雲さんが部屋にはいると、中の声は歓迎ムードで笑い声が増した。
ふふ。この劉備一家にはいろんな人がいるわね。真面目な趙雲さん、忠義一徹な関羽さん、子供みたいな益徳さん。それを束ねる広い器の兄者さん、孔明先生は本当にみんなの先生みたい。
さっきまで戦っていたのになんか平和。こんな平和がずっと続けばいいのに。
◇
しかし、平和は長く続きませんでした。夏侯惇さまの敗戦に激怒した曹操さまはやがて百万の大軍を南下させて来ます。
それに敵うはずもなく、我々劉備一家は城を捨てて逃げる生活となるのですが、本日の話はここまでといたしましょう。