16 歩いた道 (最終回)
「丙午の女は男を食い殺すんだよ」
今から三〇年も前のことだ。奈々子はそういった。
僕はクルマから降りた。手には新聞紙を持っていた。
アパートの下に来ると、新聞紙を広げて一枚ずつ剥がした。NTT株が上場して百六十万円の初値がついたとか、自分には全く関係のない記事が載っていた。くしゃくしゃに丸めた。くしゃくしゃの紙団子を五、六個作った。ライターを取り出して紙団子のひとつに火をつけた。火はすぐに全体を包み込み、勢いをましていった。
メラメラと燃えあがる炎を見ていると、だんだんと自分のこころが消えてゆく気がした。
この世のもの全てを燃やしつくしてしまいたくなった。
奈々子も、啓太も、あの男も、そして自分も。
(身も心も持ってかれちゃってさ。骨の髄まで燃えカスになるまでいっちゃうから)
中島さんの声が聞こえてきた。うなだれてやつれた中島さんの横顔がみえた。
「こら、そこでなにをしてるっ」
向いの家の住人だった。窓から顔を出して怒鳴りつけてきた。
はっとして我に返った。あわてて燃えている紙団子を踏みつけて消した。急いでクルマに戻る。
どなりつけた親父が外に飛び出して向かってきた。
僕はクルマを急発進させて、その場から逃げ出した。
ふと、アパートの方向に目をやると、奈々子がカーテンを開けて顔をのぞかせていた。
惨めだった。発作的な行動だった。灯油やガソリンを用意していた訳ではない。新聞紙だけではそうそう火が回ることはないだろう。しかしりっぱな犯罪だ。放火犯は重罪だ。
お七の頃のように即死刑、火あぶりはないにせよ、実刑は免れないかもしれない。
急にこわくなってきた。動悸が激しくなる。からだ全体が小刻みな振動を繰り返している。
凍えそうなほどに冷え切っているのに、額にはあぶら汗が噴き出ていた。
いつの間にか自分がお七になってしまった。
お七は奈々子ではなかった。
僕だった。
クルマをぶっとばして、いつもの駐車場にようやくたどりついた。さいわい、追いかけてくる警察車両の気配はない。あの親父も諦めてくれたのだろうか。
体の震えはまだ止まらない。
クルマから降りて僕は歩き出した。
奈々子と暮らしたアパートが見えてきた。あと一〇〇メートル。
二階の部屋には明かりがついていた。
富島がまだ起きているのだろう。居候のくせに。電気代、暖房代の節約を考えろよ。
この道は奈々子と歩いた道だ。啓太を抱きかかえて、何度もならんで歩いた道だ。
なんだか無性に腹立たしくなった。
自分に腹が立った。
だから笑った。
泣きながら笑うことにした。
それはたぶん、あと五〇メートルだけ。
× ×
それから、奈々子にも啓太にも会うことはなかった。
二度とキャバクラに行くこともなかった。
僕はやがて違うひとと知りあい結婚した。
父はそのあとすぐに死んだ。
母もすぐあとを追うようにして死んだ。
いつだったか、風のうわさで奈々子が再婚をしたと聞いた。
そして僕は離婚した。
世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜のけふ散りし身は
(終わり)
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